温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

涼み台

 

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 150坪ほどのわが家の屋敷内には、母屋と納屋の間に5本のミカンの木があった。いずれも幹の太さが直径で20センチほどもある古木で、ハッサク、夏ミカン、ネーブル、ダイダイと違う種類だった。

 夏休みには、南側のミカンの木2本を利用して涼み台を造った。これは長兄が造っていたが数年前からは僕が造った。   

 秋に刈り取った稲を干す棚(稲架)用の丸太を2本の木に渡して、3メートル外側に2本の柱を立て、四角い床の台を造った。これに昭和18年に起きた山陰大水害のとき、田んぼを埋め尽くした砂を掻き揚げて一か所に集めるための一輪車を通す道板(長さ3メートル、幅30センチ、厚さ3センチ)を敷き詰めて行けば完成である。3畳用のゴザを敷くとピッタリの広さがあった。

 高さは1メートルほどしかなく安全である。八番線(針金)を使って柱を括っているので頑丈で、上で暴れてもビクともしなかった。

うっそうと茂るみかんの葉が一日中陽光を遮り、風がさわさわと気持ちのいい場所だった。

 僕らは毎日のように集まって、トランプや将棋、花札などで遊んでいた。

 トランプゲームは七並べ、カブ、ババ抜きなど、あまり頭を使わなくても済むゲームが多かった。

 将棋はハサミ将棋か回り将棋ばかりで本将棋はしなかった。負けたら頭にきて相手が憎たらしくなるからである。「負けるのが悔しいから勝負を避ける」これは大人になっても変らない僕の性格である。

 花札は、3人であれば場に6枚を表にして置き、7枚ずつを皆に配って、残りは固めて中央に置いた。4人の場合は場に8枚、手に5枚ずつ配った。

 順番に手持ちの札と場に出ている札を合わせて取ってゆき、最後に取った札のそれぞれに付いている点の合計が、多い方が勝ちになった。これには松に鶴、桜に幕のような20点札が5枚揃えば五光、4枚なら四光のように役が付いて加点する。

「五光だ」

「猪鹿蝶だ」

 と大騒ぎしながら遊んだ。

(後年の話になるが、娘が高校の修学旅行のとき、トランプは持って行ってもいいが花札はだめ。と先生に言われたらしい。帰宅した娘が「なんで?」と聞いた。わが家では家族で楽しんできたゲームである。「花札は昔、博打に使われていたから、花札イコール博打のイメージになっているんやろな」と僕。

「変なの、今は博打なんてしないし、きれいな札で遊ぶのもいいのに」と娘。

「花カルタと呼べばよかったかもな」と僕。)

 

 1人の時には枕を持ち出して昼寝をすることもあった。当時は盛夏といえども最高気温が35℃を超すことはなく、山村のことでもあり、木陰は涼しかったから、この涼み台は快適に過ごせた。

 夜や雨の日はゴザだけ取って、夏休みが終わるまで使っていた。

 

   僕が高校3年になった年(1962年)、みかんの木を枯らす大変な病原菌が来ていると農協から連絡が入ったが、どうすることもできず、その年から翌年にかけて村内のみかんの木すべてが枯れてしまった。わが家の屋敷内のみかんもすべて枯れ、木蔭もなくなった。