温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

植林

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 数年前に手に入れたわが家の山は元の持ち主が立木すべてを売り払って丸坊主になったままであったが、すでにシダや雑木が茂っている。

「このままではもったいない」

 ということで植林することにした、僕が高三の夏休であった。

 植林すると決めたのは母と長兄が春に計画し苗木を農協へ発注していたのを僕は知らなかった。

 植林する山は、昔からのわが家の山1町歩(1ヘクタール)の隣で2町歩の山だった。

杉、ヒノキ、松をそれぞれ150本ずつ植えることになっていた。

 農協から届いた苗木は、ひとまず家の横にある畑に仮植えしておいて植林作業に入った。

 まずはシダや雑木の伐採である。

 朝露に足元を濡らしながら弁当を持って山に入った。家から山までは徒歩で15分ぐらいだ。

 隣町へ通じている国道の右側に伸びる尾根の南側で、国道からは裏手になる谷沿いだった。

 谷には田んぼが一面ずつ縦に棚田となって、谷全体としても1町歩に満たない狭い谷で、道はそれら田んぼの横を上がっていた。

 山に着くと荷物を谷川の横に置いて斜面を登っていった。

 裾部から木こり鎌やノコギリでシダや雑木を伐採しながら上っていくのであるが、斜面を裸にするより楽な方法で1メートル幅で横に切り取り、1メートル幅の雑木を残して次の1メートル幅を切り払っていく横縞模様にしていった、こうすれば労力は半分で済むし、かなりの急斜面でも我々が転げ落ちる心配はない。

 僕は母と組み、母の4,5メートル先を進みながら鎌では切れない樹木をノコギリとナタで切り倒していった。長兄はすべてを1人でしながら、一つ上の列を作っている。

 ノコギリは近所の大工さんに頼んで目立てをしたばかりなので面白いほどよく切れる。鎌とナタは母が研いでいた。

 この年は猛暑が続いていた。山は乾燥して木々や草に付着した埃が舞い上がり、ムッとする草いきれに体はドロドロになっている。

 汗をかくから喉が渇く、ヤカンで持参した谷川の水をラッパ飲みする、大変な労働だった。

 それでも1週間で伐採は終わった。だが、山の土は乾燥しているので植え付け作業はできない。にわか雨や夕立が増えてくる8月下旬まで待つことにした。

 1日休養してから、伐採した雑木を一抱えずつ集めて1束とした。これを下の道に近い場所に集めていった。これらの雑木はわが家の風呂焚きや炊事の燃料にするのであるが、涼しくなる晩秋まで家へは運ばない。この暑いのに背負って運ぶことなどできないからだ。

 夜が涼しくなり雨の日も多くなってきた、植樹の開始だ。

 家の横の畑に仮植えしている苗木を負い籠にいれて山に入った。

 刈り取った山肌をクワで穴を掘り1本ずつ植えていく。石があればツルハシを使う。

 すべてを植え終わったのは夏休みも終わりに近いころになっていた。

 

 10年後、夏の帰省時に「あの木はどうなっているだろう」と思い、母と山へ入った。

 谷の入り口から奥まで1列に並んでいた棚田はすべて耕作放棄し、杉やヒノキが植えてあった。

 すでにかなりの大きさになっている。

 わが家の植えた樹木は枝おろしをせず放ったらかしにしているから材木としては使えない。太く成長した木の下に成長の遅れた木がいっぱいある、間伐もしていないからだ。

 山肌は草木がなくなり、小石がバラバラと転げ落ちるさまだ、完全に死の山になっている。

 

 20年目の夏、建材として出荷するには一番いい時期だが、放置してきた山だから売り物になる木は少ないだろう。それに松くい虫にやられて中国地方の松はすべて枯れてしまったから、わが家の松も全滅している。

「たとえ切ったとしても山から搬出するのに谷の道は狭くて車が入らないから、いちど尾根まで上げて、他人の山にロープを張って吊り降ろさなければならないが、とんでもない費用がかかる」

 母は諦めていた。

 当時は海外からの安い材木が大量に輸入されて、国産の材木は売れなくなっていた。

 今では谷に入る人もなくなり、谷の入り口の道はフェンスで遮断されている。

 猛暑のなかヒイヒイ言いながら植樹したあの苦しみはなにだったのだろう。