温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

福光城十無い淵伝説

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  3年前に投稿した「温泉津町福光・遥かなるふるさと」の大川の項で「とおない淵」伝説を記述していたところ、これについて読者の方から「姫路文学館で特別展示してある『怪談皿屋敷のナゾ』に出ていますよ」との貴重な御意見を頂いた。
 さっそく姫路文学館に行き展示を見学し「怪談皿屋敷のナゾー姫路名物お菊さんー姫路文学館編集発行」を購入した。
 これによると、
武家の女中が淵で皿を洗った際に、十枚揃いの皿の一枚を誤って紛失した。女中は悲しみ「十無い」と言って淵に身を投げた。その後、12日が満月にあたる夜、淵の底から「十無い」という声が聞こえるようになった」
 という記述があった。
 僕が幼いころ、祖母から聞いていた話は以下のとおり、
「昔、大川には十無淵(とおないぶち)という淵があった。そこは深く、いつも渦巻いていたという。不言城の奥女中が10枚あったという家宝の皿一枚を割ってしまった。
「とおない、とおない」と泣きながらこの淵に身を投じたという番町皿屋敷のお菊と似た伝説がある。ただし不言城の奥女中は幽霊にならなかった」

十無い淵は福光城(不言城)の前濠にあった。
福光城を最初に構えたのは1333年後醍醐天皇による建武の新政が行われたとき、石見の抑えとして派遣された楠木正成の一族楠判官であった。
 楠判官は、それまで荒れ山であった福光の谷山に「物石謂城」(ものをいうしろ)を構えた。この辺のことについては、
「都治慈雲寺に残っているという平田四郎二十一世の孫平田加賀入道道雲文書に、『宮方将軍方御合戦のとき石州は宮方を専らとす。宮方より新田、楠を指し下し福光物石謂城いまだ荒山にて有りしを、国の押さえの為取構えケル』と記述がある。(松江県立中央図書館蔵)
 楞厳寺記に、「古記曰く暦応年中楠判官開城時庶民挙而称不言城」とある。この時から「物不言城」(ものいわずのしろ)と呼ばれるようになった。なお、不言城の命名由来を古事記からきているという説もあるが、古事記に福光城にかかる記述はない。
物不言城という言葉は後年毛利元就の書状にも出てくることから福光氏が台頭した1330年代後半から呼ばれていたものと思われる。
 福光氏は元御神本氏を名乗っていたが福光郷を領有したことにより福光氏に改名したものである。福光城はその支配者により城名は替わっているので、十無い淵伝説がいつの時代のものかは不明である。
 福光城は山上に本丸、二の丸、三の丸と上の丸を配し、ふもとに東の壇屋敷、西の壇屋敷を持つ舘からなっていた。
 僕ら村の人が大川と呼んでいた福光川は大江高山火山群の一峰葛子山(つずらこさん)に源を発する全長4キロほどの川である。
昭和18年9月20日の台風九号襲来による豪雨で流出するまでは福光城の前濠になっていた。城へは高さ2メートルほどの土塁で隔てられていた。
ここより数百メートル上流で箱坂川と合流した福光川は弧を描くように福光城へ近づき、東の櫓を回り込むように土塁の前を西に流れていた。
 十無い淵は櫓の西側で土塁と櫓の付け根辺りにあった。
 淵は深く、いつも渦巻いていたという。ここにはエンコウ(この地方ではカッパのことをエンコウと言っていた)がいて子供を深みに引きずり込んでキモを食べるという伝説もある。
 僕の幼少期はすでに福光川も現在の位置に付け替えられて濠のあった一帯は畑になっていた。
 城の東端にある櫓跡と思われる方形の畑を僕の家で耕作しており、大門跡から入って左手に土塁、右手に屋敷跡のある谷間の底のような道を東に歩いて突き当りの高台にあるのが畑だった。
 その畑から下を見ると畑の側面は東、北、西側とも岩盤をほぼ垂直に削り取ってあった。高さは4、5メートルもあったと記憶している。城の防御として最も堅固な造りであった。
 畑作業をしているとき母や祖母は「落ちると危ないからあまり端に行くな」とよく言っていた。
 大水害のとき、上流から流れてきた激流はここでこの櫓跡にぶつかり向きを変えてわが家の方角へ押し寄せてきた。わが家は2メートルほどの石垣の上にあったから、被害はなかったものの10段ある石段の8段まで水が押し寄せてきたという。大人の背丈以上の水深になったのだ。
 城の前濠はすべて埋め尽くされ、十無淵も伝説上の地名だけになってしまった。
 現在ここら辺りは耕作放棄され山に還っている。