温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

大阪

 中学1年の夏休みに大阪の叔母の家へ遊びに行った。

 夏休みが始まるとすぐに従兄が遊びに来て、8月14日までを僕の家で遊び、後半を大阪へ行くことにした。

 8月14日早朝、すっかり夜は明けていた。田舎の朝は早い。近所のおばさんが、もう田んぼに入って稲の草取りをしている。

「おはようございます」

 あいさつをしながら村道を歩いて駅に向かっている。

「どこへ行きんさるかね」

 四つん這いになって草取りをしていたおばさんが腰を伸ばしながら、新しいカッターシャツとズックを穿き、ボストンバッグを持っている僕を見た、中には着替えと二人分のオニギリが入っている。

「大阪」

 僕は誇らしげに言った。初めての旅行である、今まで汽車に乗るのは小学6年の修学旅行で松江へ行ったのが一番遠かった。今日は一日中汽車に乗って大阪まで行くのだ。朝5時30分発の大阪行きに乗れば乗り換えなしで大阪には夜の9時ごろ着く。気分は最高潮だ。

「ほう、遠くへ行きんさるな、気をつけてや」

 おばさんに送られて駅へ急いだ。

 当時は蒸気機関車だった。客車は大阪まで変わらないが機関車は、米子、鳥取、福知山などで交換しながら走っていた。

 各駅停車だ、大阪までいったい何十か所の駅があるかは分からない、

― 百か所近いぞ。

 僕は思った、それだけ長く乗ることがうれしい。

 のんびりと走っていく車窓を飽くこともなく見つめている。

 弁当は母が作ってくれた大きなおにぎりだ。夏の暑い日だから腹痛を起こしてはいけないと焙烙(ほうろく)鍋で両面をこんがりと焼いてくれている。おにぎりをほおばり、指でつまんだタクアンをポリポリかじっている。

 宝塚を過ぎたころには日はとっぷり暮れていた。沿線の街灯や民家の灯、工場の明かりが増えている。

 9時過ぎに大阪駅へ着いた。従兄の兄さんがホームまで迎えに来てくれていた。

 環状線の電車に乗り、立って車窓を見ていた僕に「どうや、人が多いやろ」

 兄さんが言った。阪急百貨店の前を大勢の人がせわしなく動いていた。ちょうど横断歩道を大勢の人が渡り始めたときだ。両側から集団が向かっていく、映画でみる合戦のようだ。

 大阪はこんなところだと想像していたから別に驚いてもいなかったが、「祭りみたいや」と応えた。

「そうやろ、どこへ行ってもこんなんやで」兄さんは得たり顔で言った。

 

♫月が出た出た 月が出た(ヨイヨイ)三池炭鉱の上に出た・・・

 町中に響く拡声器の音が流れている。煌々と電燈の灯に照らし出された広場に行くと大勢の人が輪になって踊っていた。周りを囲むように立っている人もいっぱいいる。

「すごい」

 僕は圧倒された。僕の村では裸電球一つの薄暗い寺の庭でせいぜい2,30人しか集まらない。さすが大阪だと圧倒された。

 

「夜8時からテレビでプロレス中継がある」と、従兄と近所の食堂に行った。

「ソフトクリームをプロレスが終わるまでゆっくり食べるんだよ」

 従兄は無理なことを言ったが、当時一般家庭にテレビのある家は少なく、従兄の家にも無かった。中継が始まると狭い食堂の中は皆がテレビの方を見て食事をしている者はいない。

 水を張ったプールの中に特設したリングの中で女子プロが闘っている。

 初めて見る女子のプロレスだった。相手選手を肩車してリング外に放り出す。投げられた選手は大きな水しぶきをあげて水の中に沈んだ、浮かび上がった選手をリングに引っ張りあげようと手を差し伸べたレフリーを水の中に引き落とした。

 食堂の外まで人があふれて「ソレソレ」と声援を送っていた。

 

 雨の日、市電の一番前で前方を見ていた。

   5年生のとき、同級生のM君が大阪へ旅行に行ってきたとき、「大阪は駅から駅の間の距離が短い、今停まっている駅から次の駅が見えている」と言っていたことを思い出した。

 僕の村を通っている山陰本線は、そんな短い距離の駅はない、次の駅へ行くまでに5分はかかっている。M君の言うことが分からなかったが、市電の駅なら次の駅が見えている。M君は市電の駅のことを言っていたのだと気づいた。

 向こうから線路の上をオート三輪がこちらに走って来る。

― 勢いよく走っているな。

 と思ったとき、かのオート三輪が急ハンドルを切ってレールから外れたところで転んだ。

「あー」

 と声をあげたのは僕だ、完全に車輪が上になって裏返ったオート三輪の横を、市電は何事もなかったように通り過ぎた。

 裏返しになった運転席では男の人が地に足をつけて立っていた。

 ふしぎに思った。

 当時のオート三輪は大型バイクを三輪にして後部に荷台を付けたようなものだった。

 運転者は運転席にまたがって座り横棒式のハンドルで勇ましく運転していた。

 安定も悪く今回のような転覆事故を多く起こしていた。

 

 ある日、従兄は僕を連れて映画を観に行った。映画館に入ると最前列席に行ったがそこはもう多くの人が座っていたので左横から三番目の席だった。二列目以降は空いている。

 映画が始まった。ところが映画をこんな位置からみると画像はひずんでまともな画になっていない。

― なんでこんなところで見るんだろう。

 なにがなんやら分からないまま一本目が終わったとき、パッと舞台に照明が当たり、

横から前の人の肩に両手を載せた女性が一列になって入ってきた。

ワーと歓声があがった。

 初めて見るラインダンスだった。

 横一列で音楽に合わせて踊りながら、片足を思い切り上げて踊っている。

 僕の目前のダンサーが足を思い切り上げたとき、網タイツを穿いている太ももの裏に大きな穴が開いているのを僕の目は捉えた。(この項は、前述の映画と重複)

 

 日曜日、従兄の兄が僕と従兄を奈良へ連れて行ってくれた。

「大仏さんを見たい」という僕の希望をいれてくれたのだ。

 大仏はあまり大きくないと思った。

「掌に人間が載れるんやで」

 兄さんが教えてくれても「そんなもんかな」としか思わない、大きな大仏殿が大仏さんを小さく見せているのだ。

 興福寺五重の塔の一般公開をしていた。

「すごいぞ、こんなことめったにない、この塔の一般公開はほとんどない」

 兄さんは興奮して料金を払っていた。

 中に入ると大きな一本柱(心柱)が地から上に直立しており、その柱を支柱にして階層ができていた。各階には部屋があると思っていたのに部屋は無い。

「この塔は全国にある塔のなかでも古い形だ、心柱から直接階を作っているのはここだけだ」

 兄さんの言うことがよく理解できなかったが日本にある多くの塔の心柱は建物とつながっていないということだった。

 これまで僕は五重の塔のような細長い建物は台風が来たら倒れると思っていた。ところがこれなら風に強いはずだと気づいた。

 最上階の狭い窓をくぐって外にでるとすぐそこに大仏殿が見えていた。

 大仏殿もまた僕の想像していたものより小さく見えた。

「大きい」と聞いて、こんなに大きいのかなと想像していたものがはるかに大きいものだったので現物が小さく見えたのだ。

 

 大阪環状線の京橋から森ノ宮の間に大きな廃工場が放置してあった。茶色に錆びついた屋根には無数の穴が開いていた。

「戦争中陸軍の砲兵廠があったところや、終戦の前の日に米軍の爆撃によって多くの犠牲をだしたが、その多くは若い女性だったらしい」

 従兄の兄さんが教えてくれた。

「不発弾が多いため今でも手をつけられないらしい」

 従兄が付け加えた。

 

 従兄と2人で海水浴へ行った。市電を乗り継いで到着したのは堺の出島海水浴場だった。多くの人が泳いでいた。

 海の水は濁り、油が浮いている、こんな汚いところが海水浴場かと驚いた。水に顔をつけるのが気持ち悪い。それでも水温が高いのでなん時間でも泳ぐことができそうだ、僕の村の海水は綺麗だが冷たい、10分も水の中にいたら歯はガチガチと鳴り、唇も真っ青になってしまう。

 

 8月25日、田舎へ帰る日が来た。もう少し大阪に居たいが、僕の地域には「行くな7日、帰るな9日」といって旅を嫌う日があった。7のつく日に旅にでるな、9のつく日に帰って来るな」と言っていた。迷信だと分かっていても極力これを避けた。だから25日にしたのだ。それに夏休みの宿題を全然していなかった。

帰りは、京都駅を23時に出発する夜行列車にした。従兄と従兄の兄さんが京都駅まで送ってきてくれた。0番線ホームに浜田行各停夜行列車はすでに入線している。

夜行と言っても寝台車ではなく2人ずつ向かい合って座るボックス席だった。それでも客が少なかったから2人分を1人で占有できた。

僕の向かいの席は松江へ帰るという20代の女性だった。

発車と同時に横になった。2人分を占有していても長さは短いので腰を90度に曲げて足を折りたたまなければならなかった。

 窮屈な姿勢で寝ているから、夜中に何回かは目は覚めたが、それでもよく寝ることができた。

 目が覚めると前の席にいるお姉さんがいない。あれ!と思ったら、すでに松江をすぎていた。

 夜が明けた。あとは僕の村の最寄り駅に着いたときに降りればいい。

 初めての一人旅だったが心細くはなかった。

 

 

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