温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

わが家

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       写真・わが家(昭和35年3月撮影)

 

 今は昔、思い起こすと60数年前の話になる。
 昭和19年(1944)5月、島根県の静かな山村にぼくは生まれた。
 海岸近くを走っている山陰本線石見福光駅から東へ、山に向かって2キロメートル、歩いて30分ばかり入ったところに集落があり、山に囲まれて胃袋のように曲がっている狭い土地に50戸ほどが点在していた。
 そのうち、3分の1は墓石や石灯ろうなどの石材製造業を営んでいるが、1戸当たり3反ほどの田んぼとわずかな畑を持つ零細農家がほとんどだった。
 村は、城山を要(かなめ)とした扇状に広がる典型的な城下の面かげを残していた。
 城山には南北朝時代から戦国時代にかけての城跡があり、「不言城(ふげんじょう)」という名がついていた。

 ぼくの先祖は南北朝時代から戦国時代にわたって堅確な武位を誇る武士だった。特に室町時代には室町幕府御家人であった石見小笠原家の家臣で城持ち武将のひとりであった。
 その戦歴をみると、東は小田原の北条氏攻めに従軍し、西は九州の宮崎、そして朝鮮半島にまで遠征しているが、3代はあえなく討ち死にという憂き目にもあっている。
 あげくの果ては関ヶ原合戦に敗れた西軍に属していたため、武士を捨て百姓になった。
 ともあれ群雄割拠の一員として文字どおり身命を賭して戦い、その武功も数々の軍書および古文書にでている。

 生家は城山を正面に望む低い山を背にした南向きにあり、250坪に及ぶ屋敷は道から高さ2メートルの石垣上に広がっている。
 下の道から10段の石段を上がった正面に母屋がある。西側には別棟の風呂と便所があり、東側は畑を隔てて納屋があった。
 母屋は明治35年(1902)11月30日に棟上したという記録が残っている。
 藁葺屋根で土の外壁は風雨にさらされ、いたるところがひび割れ剥離してボロボロになっていた。建材は栗の木で梁や柱などは曲がったものが多く使ってあり、建てた大工の技量に驚くばかりだ。
 栗の木は杉や檜より粘りがあって強いということだった。そのためか、築60年を過ぎているのに襖や障子の開け閉めは比較的滑(なめ)らかだった。
 夜になると、入口の板戸に心張棒(しんばりぼう)をかけて戸締まりをした。上(かみ)の座敷も雨戸を閉めたが、この戸もいたるところが欠けて穴が開き、見るも無残な板戸だった。
 8畳の『上(かみ)座敷』と3畳の『下(しも)座敷』が表側(おもてがわ)にあり、その後ろに3畳の『納戸(なんど)』と『台所』があった。上(かみ)の座敷の南側には半間幅の縁側がついていて、ここは吹きさらしであったが深い屋根の下になっていたから濡れることはなく風の通る気持ちいい場所だった。昼間の遊び場所であり夏の夕涼みにも最適だった。東側には床の間と朽ちた一間幅の仏壇それに押入れが並んでいる。
 仏壇の天井裏に一振(ひとふ)りの日本刀が隠してあった。長さが80センチほどの小太刀(こたち)といわれるもので「山城國大塚源國重(みなもとのくにしげ)」という銘が彫られていた。鞘(さや)には手裏剣を収納する溝(みぞ)もついていたが、手裏剣は次兄が持ち遊んで紛失し、鍔(つば)は10年ほど前に売ったということだった。
 戦後すぐに、警察から刀剣類を提出するようにとの達しがでたが、ぼくの家では「城主であったころに武功があり、小笠原の殿様から拝領したもの」と言い伝えがあったので手放すことができなかった。これはあきらかに「銃砲刀剣類所持法」違反であり、当然のことながら警察に見つかれば叱られる。それでもぼくには、そういう意識もなく、中学生のころから秘(ひそ)かに裏山へ持ち込んで竹を切って遊んだ。ずしっと重く、テレビの時代劇にでるようなかっこいい殺陣なんて、とうていできるものではない。片手で振りまわすことなど不可能だ。かの有名な『関が原合戦図屏風』に描かれている武士は抜き身の刀を肩にかついで走っている。あれが本当の姿であろうと思った。直径3センチ程度の竹なら袈裟懸け(斜めに切り下すこと)にすれば切ることもできたが、刃はぼろぼろに欠けて柄(つか)は割れてしまった。
 昭和55年(1980)の夏、大阪の百貨店で展示されている同銘の刀を見つけた。刀身も輝いており鍔(つば)も手裏剣もついた新品同様の物だった。250万円の値がついていた。このとき源國重という刀工は江戸時代の人だということが判明した。「殿様からの拝領品」という言い伝えは、もろくも崩くずれ去ったのだ。
 この刀はぼくら兄弟が成人してから「持っていたらまずいな」ということになり裏山に埋めた。

「上(かみ)の座敷」の天井にツバメの巣を取り払った跡が残っていた。部屋の真ん中で、いつもぼくらが寝ている真上だ。大人が立って手を伸ばせば届きそうな低い場所だ。こんなところへ巣を作ることが理解できない。
「おじいさんは風流な人だった。ツバメを可愛がっていたな。それに家のなかにツバメが巣を作ることは縁起の良いことだと言われていた」
「毎年春に、わが家で育ったツバメが姿を現すと『おーお、よう帰って来たのう』と言って障子の一角を繰り抜き、いつでも出入りできるようにしていた」
 祖母は、なつかしそうに天井を見上げた。
「夜、雨戸はどうするんだよ」
「雨戸は閉めないさ、電気も消さないさ。でも、家の者が寝たら、ツバメも寝ていた」
「下で寝ていたら、うんちが落ちてこないか」
「ツバメも賢(かしこ)いよ、絶対にうんちは落とさない、自分で銜(くわ)えて外に捨(す)てていた」
「へえー」
「でもな、羽虫(はねむし)が多くて困ったな」
 羽虫(はねむし)はツバメの目には見えないから仕方ないが、掃除が大変だったと祖母は言った。

 同じ「上(かみ)の座敷」の床下には、周囲を厚い土壁で囲(かこ)ったひと坪の「イモ室(むろ)」があり、籾殻(もみがら)を厚く敷いて、その中にサツマイモが入れてあった。その形が炭焼き窯や瀬戸物を焼く窯に似ていることから「イモ窯(がま)」と呼んでいた。この地方で発見した保存方法で江戸時代から続いているものなのだ。
 サツマイモの栽培を全国に広めたのは江戸時代の青木昆陽だとされているが、それよりも3年も前に日本全国を襲った大飢饉のとき、石見銀山領代官井戸平左衛門が薩摩国から取り寄せて、領内に広めたというものだ。サツマイモは、畳と床板を取り除いてから窯の中に入って取り出した。

 台所は板敷きになっていて、二つの竈(クド=カマド)が西向きに据(す)えられていた。

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藁葺き屋根の家だからカマドに煙突は無く、煙は天井裏から屋根へと吸い取られるように拡散していった。
 食事をとる場所に畳はなく、ムシロとゴザが重ねて敷いてあった。 そこには、家族5人がゆったりと食事できるほどの大きな円卓(ちゃぶだい)があった。窓がないため昼でも暗い部屋だった。

 暗い天井をよく見ると、1本の梁(はり)が部屋の真ん中を通っている。この真下に、祖母が嫁に来たころには囲炉裏があったという。梁(はり)から孟宗竹(もうそうちく)がぶら下がっていて、その中を桑(くわ)の木が通って一番下に鉤手(かぎて)と松の木で作った鯛がついていたという。
「末代(まつだい)まで食(く)わせ申(もう)そう)という意味があるんだよ」(松鯛まで桑せ孟宗)
 祖母が教えてくれた。
 その囲炉裏も、ぼくが物心ついたころには、すでに無くなっていた。

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 天井は、煙が屋根裏へ行きわたるように丸竹を並べただけのものだったから、食事中に天井裏で鼠(ねずみ)が走ると埃(ほこり)が落ちてきた。そんなとき、ぼくは「ニャオー」と猫のまねをした。効果は絶大で瞬時に静かになった。
「鼠をいじめてはだめだ。鼠が怒ったら火の点いた小枝を銜(くわ)えてきて、家を燃やしてしまう」
 祖母がたしなめた。昔、隣村のある家が火事で消失してしまった。この直前、「火のついた小枝をくわえた鼠が麦藁葺(むぎわらぶ)屋根の天まどから屋内に入るのを見た人がいる」と小さな声で話した。天井裏にいる鼠に聞かれないためだった。
 黒く煤(すす)けた壁に、体長3センチほどもある大きなゴキブリが走りまわっていた。
 捕(つか)まえうよとしても、すばしこく逃げまわって、あっという間に壁の隙間にもぐりこんでしまう。
逃げ場を失ったゴキブリは、つややかな羽根を羽(は)ばたいて天井に逃げた。ちょろちょろと逃げ回り、あまりにもすばしこいので「チョロ」と呼んでいた。