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温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

納屋

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    絵・唐臼(からうす)

 屋敷の東側に納屋がある。ある日、父が牛を買ってきて、みかんの木に繋(つな)いでおいてから3日間で建てたというものだ。
 それでも、奥行き2間、横3間の2階建てであった。
 建材は裏山の桧(ひのき)で藁葺(わらぶ)き屋根だった。壁は、当初、笹の枝だったが、落ち着いてから土壁に塗り替えたという。
 南側半分は土間付の座敷になっていて、天井は丸竹を簾(すだれ)のように並べて吊り下げてあった。だから、屋根裏に上がると、ぐらりと揺(ゆ)れた。そこには莚(むしろ)の材料の藁(わら)が山積みになっていた。
 土間の南側に横1間、奥行き半間の米蔵があり、叺(かます)に入れた玄米が積み上げられていた。玄米を取り出すときは出し入れ口の蓋(ふた)になっている20センチ幅の横板を1枚ずつ取り外した。倉は、ネズミが入らないように厚い土壁と厚板で作られていたが、中にはいつも鼠(ネズミ)の糞が散らばっていた。
 倉から取り出した玄米は納屋の軒下にある『唐臼(からうす)』という足踏み式の臼(うす)で精米した。
 石臼(いしうす)の中に玄米を入れて4メートルほどもある杵(きね)の端を踏んで「ごっとん、ごっとん」と精米していった。玄米が精米になるまでには1、2時間かかる。だから雨のため野良仕事の出来ない日の日課になっていた。
 納屋の北側半分は牛小屋になっていた。
 そこには敷藁(しきわら)も残っており、いつでも牛を入れることのできる状態だったが、いつも空(から)だった。
 ぼくが小学生のとき荷馬車のおじさんに頼まれて4、5日間だけ厩(うまや)として貸したことがあったが、それ一度だけだった。
 納屋といっても座敷は6畳の広さがあり竈(かまど)もついていたので戦争中に大阪の叔母一家が疎開で住んでいたこともあった。そのときのことを、
「牛小屋の蝿が多くて困った」
と言っていた。
 座敷の隅に縦型で足踏み式の莚(むしろ)織機と縄編み機が据えてあり、母がいつも莚を織っていた。