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温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

果物

   屋敷の中に太さが両手で一抱(ひとかか)えもある柿木が2本、これには西条柿が鈴なりに実った。
 高さは15メートルほどもあったので、長い竹の先端を山形に削って少しだけ二つに割り、柿の付いた枝を挟んで折り取った。それでも頂の方を採るためにはハシゴをかけて幹の上位にある二股部分まで上らねばならなかった。
柿の木はさくく折れやすいので細心の注意が必要であった。
 西条柿は渋柿だから食べるには渋を取り除かなければならない。夜、風呂の残り湯の中に、深いアルミのバケツに入れた柿をバケツのまま浸ける。バケツの中にも熱めの湯を入れている。バケツの上部を藁(わら)で蓋(ふた)をして1晩おくと、翌朝には渋が消えていた。この柿を「醂柿(あわせがき)」と言い、結構美味(うま)い。

 

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 また「干し柿」もこの柿からつくった。甘いものの少ない時世だったからたくさん作って母屋や納屋の軒下に干した。これをめがけて大きな銀蝿(ぎんばえ)が集(たか)っていたが、不衛生だとも思わなかった。干し柿は蝿が集るから甘くなるのだと思っていた。
 
 昔から福光の柿は有名だったらしく「特に、浄光寺周辺で多く採れることから浄光寺柿という」と江戸時代の著・「石見八重葎」に記されている。
 西条柿は、木に生ったったまま熟すと渋がなくなって甘くなる。これを熟柿といって、どろっとした独特の柔らかさがあり美味(うま)い。
ただし、彼岸の日までのものは、虫に食われて色づいたものだから熟柿ではなく、中に虫がいるので食べてはいけないと言われていた。
 彼岸の日になると、朝一番に熟柿を取って食べた。
 
 前庭に富有柿が1本、これは父が植えたものだから20年ぐらいしか経っていない木だった。
 前庭は椿や楓、松といった植木がうまく配置してあって、縁側に座って観賞するようにできていた。その真ん中に植えたものだから庭のバランスを崩してしまっていた。
 それはともかく、これには甘くて大きい柿がいっぱい実(みの)った。
 
 裏山の登り口に幹の直径20センチぐらいの柿木があった。この木には直径2センチほどの丸い実が鈴なりに生(な)った。これは渋柿で醂(あわせ)ても干し柿にしても甘くならなかった、だから食えない。
この柿は千成柿という種類で、食用ではなく柿渋を採るための柿だということを知ったのは、ごく最近のことだ。昔は番傘や葛籠(つづら)、紙の雨具など柿渋の用途も広かったという。
 ある年、村の老人がこの木を切って、その上に富有柿を接木(つぎき)してくれた。富有柿なら甘くて美味(うま)いので楽しみにしていたが、接木は成功して木はどんどん大きくなっても、1個の実も付かなかった。
「ばか木になってしまった」
 接木をしてくれた老人が言った。

 納屋の裏に小さな柿の木があった。小さくても古木だということだった。柿は毎年4、5個しか生(な)らなかった。実は小さいが中は黒こげ茶色になって、とてもうまい柿だった。
 ただし、この柿が甘いということは知らなかった。ぼくの家で育った3人の叔母が口を合わせて、
「この柿は食べたらだめだよ、疫痢(えきり)になるから」
 と言っていた。2人の兄も、ぼくもそれを信じていた。
 叔母たちは、里帰りしてきたときに、そっと隠れて、その柿を食べていたらしい。
 ある年、次兄は叔母のひとりが庖丁を持って納屋の裏へ行くのを見つけて尾行した。そして、柿を食べている叔母を見つけた。次兄も叔母の仲間入りしたが、ぼくにも長兄にも教えなかった。
 ぼくがその柿を食べることができると知ったのは、次兄が中学校を卒業して東京へ働きに出る直前に教えてくれたときだから、ぼくは5年生になる年だった。
 その柿は、よく熟れても表皮は青かった。青いままだから「食べることのできない柿だ」と言われても疑いもせずにそのまま信じていた。いつの間にか木から消えている柿を、不思議だとも思わなかった。食えない柿には興味もなかったのだ。
 甘い柿だと知ったころには、すでに老木になりほとんど実を付けなくなっていた。
 この話は、ぼくら兄弟が大人になっても叔母とよく話題になった。
兄弟「ずるいや」
叔母「してやったりやな」
 いつもこれで落ちついた。

 母屋と納屋の間に5本の大きなミカンの木があって、毎年たくさんの実が生った。
 いずれも古木で、幹の太さも直径が15センチほどもあった。夏ミカン、ハッサク、ネーブル、ダイダイとすべてが種類の違う木だった。
 ネーブルは、ヘソミカンと呼んでいた。木に栄養が足りないのか、気候に合わないのか、理由はよく分からなかったが、皮が硬くて手で剥(む)くことができないので、草刈鎌(くさかりがま)で外皮を削り取って薄皮のままかじっていた。それでも一番美味(うま)いみかんだった。

 夏休みには、南側にある2本のミカンの木に厚板を架けて座をつくった。この厚板は昭和18年の水害で我が家の田んぼに入った砂を取り除くため、ネコ車(一輪車)で1か所に集めるための道板として作ったものだったから30枚ほどもあった。
 地面から1メートルの高床ができ、ござを敷くと3畳ほどの広さがあった。木陰で気持ちの良い場所だったから近所の友だちと将棋、トランプ、花札などのゲームや昼寝をした。

 将棋や碁で勝負をして競うことはしなかった。負けたら悔しいし兄や母からは「馬鹿だからまけるのだ」と言われる。「悔しかったら勉強してでも勝つ」という気は起こらなかった。「負けたら悔しいから勝負をしない」というのがぼくの性格だ。この性格は大人になっても変わらなかった。

 ある日、ハンモックを取り出して、2本のミカンの木に括(くく)りつけた。何日か前に長兄がゆりかごのように揺られながら気持ちよさそうに寝ていたのを見ていたからだ。
 ところが、ハンモックに乗り込もうとすると、くるりくるりと裏返しになってぼくを拒んでいる。何回も挑戦して、やっとのことで体を横たえることができた。
 ゆらりゆらりと揺れながら、すずしい木陰での昼寝を決め込もうとしたが、体がくの字に曲がって背中が痛い。戦争中、軍艦ではハンモックに寝ていたというが、とても寝ることのできるものではない。早々にあきらめた。

 冬になると、大きなミカンがだいだい色になる。盛りあがった濃緑色の葉を、かき分けるように顔をだすミカンは絵にしたくなるほどきれいだった。

 井戸のすぐ近くに村でもめずらしい温州ミカンの木が1本あった。
 これは、気候が合わないのか、皮は硬く表面がごつごつして黄色くならず、甘味も無く酸っぱいばかりでほとんど捨てた。

 母屋の直ぐ横に、村に数本しかないといわれるキンカンの木があった。長さ2センチほどの楕円形をした実が成ったが、酸っぱくてとても食えたものではない。だから、皮だけを食べた。風邪をひいたときに祖母が氷砂糖と煎じてくれた。
 高校3年のときだった。ミカンの木を枯(か)らす病気が流行ってきたというので、近所のおじさんと一緒に、となり村まで往復2時間をかけて借りてきた噴霧器で薬を散布した。
 だが、翌年には村内のミカンの木すべてが枯れてしまった。何か大変な病原菌に遣(や)られてしまったようだ。

 我が家との境界に近い隣家の敷地に大きな枇杷木があり、毎年、すずなりに実がついた。
 この木は、元はぼくの家の裏山にあったが、昭和18年大水害のときの山崩れで、立ったまま流れ落ちて隣家の敷地へ移ったため、所有権を放棄したものだった。そのためか毎年1回籠いっぱいの枇杷を持ってきてくれた。

 納屋の裏に無花果(イチジク)が1本生(はえ)えた。これは植えたものではなく、捨てた無花果の種から自然に生えたものだった。だが、実は成っても熟れることがなかった。木だけがぐんぐんと大きくなっていた。たくさん成っている青い実を見るたびに「ふしぎだ」と思った。

 屋敷の石垣に大きな柘榴(ザクロ)の木があって、毎年、リンゴのように大きな実がたくさん成った。こんな大きな柘榴(ザクロ)の木は、村のなかでもぼくの家にしかなかった。
 しかし、その木は石垣からU字型に垂れ下がって前の道をふさいでいた。大人が立って歩くのに支障はなかったが、ぎりぎりの位置にあったので首を下げて通り過ぎる人が多かった。薪やかさばる荷物を背負っているときには身体を屈めなければならない。
「通行の障害(じゃま)だ」
 あからさまに言う村人がいた。「なぜ、お前の家に頭を下げなければならないのだ」というのが本音のようだった。
 通行の障害になっているのは事実だったから、ぼくが5歳のとき、ついに切りすてた。
 新しい芽が切り株から生えてきたが成長がおそく、いつまでも若芽のままだった。

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 ぼくの家の墓に天然記念物になってもいいではないか、と思うほど大きなヤマモモの木がある。6月下旬から7月のはじめまでたくさんの実が付いたが採るためには高い木に登らねばならず、かなりの勇気を必要とした。
 
 これら果物の木は、ひいじいさんが1本ずつ植え、挿(さ)し木、接木(つぎき)をして育て残してくれたものだ。
 戦後の何もない時期、父親のいないぼくたちが一番必要なときにたくさんの果物を提供してくれた。
 これらの木は、ひいじいさんの思いをりっぱに果たし、ぼくたち兄弟が成長して巣立つのを待っていたかのように老衰していった。

 栗の木はぼくの家に無かったので、周辺の山へ自生のものを採りに行った。たくさん採れると祖母が湯がいてくれた。ただし、そのときに食べることができるのは数個でしかない。
 残りは、祖母が1個づつ縫い糸を通して数珠のようにつなぎ、軒下に吊るして乾燥させていた。
こうすると腐ることもなく保存できたのだ。祖母はぼくら兄弟に見つからないようにどこかに隠(かく)して乾燥させていた。そうしないと、たちまち食べつくしてしまうからだ。納屋の裏側で下からは見えない軒下などに干してあったりする。ぼくは、これを見つけるのが得意で、ときどき1、2個を取って食べた。残りの栗でカモフラージュしていたが、たちまち祖母に見破られて叱られた。
 翌年3月の学芸会のとき、祖母が数個の栗をだしてくれた。
「どこに隠(かく)していたんや」
 ぼくはびっくりした。まさか今ごろまで残っていたなんて思いもよらなかった。
かちんこちんに硬くなった栗だったが、それでも栗の味は残っていた。
「栗か」
 驚く級友に1個を譲った。

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  屋敷と裏山の境にある芭蕉(バショウ)の木にモンキーバナナのような実が付いた。どうみてもバナナである。ある年、熟したのを見計らって1本を口に入れると苦味渋味が強くて到底食べることのできるものではなかった。

 芭蕉の木は集落のあちらこちらにあった。いずれも食用ではなくバショウ布を作るために植えられたものだった。

 秋口になると大きな花が咲いた。

 1本を草刈り鎌で切り取って学校へ担いで行くと皆がめずらしそうに近寄ってきた。