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温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

「猫の額(ひたい)」という言葉がぴったり当てはまるほど村は狭い。
 平地は田んぼを優先していたから、畑は必然的に僻地に押しやられる。
 だから、耕せる場所はどんな所でも畑地とした感があった。
 村内に残っていた城跡や屋敷跡、濠跡などはそのほとんどが畑となっていた。
 ぼくの家でも6ヵ所に分散した狭い畑を所有していた。そのうち2ヵ所は櫓跡と濠跡であった。
 櫓跡の畑は不言城内にあった。
 不言城は城山頂上に本丸、二の丸、三の丸があり、麓に居館があった。
 麓の土居で囲まれた大門跡を入って正面の一段高くなった一帯が殿様の居館跡で、そこは三面に分かれていて東の壇、西の壇、殿屋敷と呼ばれていた。それらはすべて他家の畑だった。
 大門を入ってすぐ左折して土居の内側を数十メートル進んだ場所にぼくの家の畑があった。そこは城の最前面、東端の櫓跡だった。
 畑の三方は絶壁となって、その下には福光川がぶつかり、大きく屈折したあと櫓を回り込んで土居の外側を流れ濠の役目を果たしていた。
流れが土居にぶつかる場所に大きな渦巻く淵があったという。
 淵は昭和18年大水害のときに埋まって、今は畑地となっていたが、それ以前は、「十無淵(とおないぶち)」と呼ばれ、深く、大きな渦が巻いていたといわれている。
 ここ櫓跡の畑は借地だった。といっても無料で貸してくれていた。夏はさつまいも、冬は小麦を栽培した。
 わが家の屋根が麦藁葺きだったから4、5年ごとに葺き替えるため、大量の麦を作らなければならない。三反の田んぼとこの畑でも作った。
 麦は、そのほとんどを農協に売っていたが「健康のため」という理由で米に混ぜて炊いた。ところが、麦は食べるとまずい。特に、祖母は麦めしを嫌った。
 それでも健康にいいからと2升の米に3合の麦を混ぜていたが炊きあがると麦と米がうまく混ざらず偏っていた。
「麦が寄り合いをしている。麦なんか食べなくても米はいっぱいある」
 祖母が文句を言った。それでも仕方なく食べていた。寄り合いとは、会議などのため村人が集まることだ。

 戦国時代の末期、主家の小笠原氏が毛利氏の命により出雲国へ領地替えになったとき(文禄元年=1558年)居を福光村の森(森分)地区に移した。
 その後、関が原の戦いで西軍に属していたわが家の先祖は負けて百姓になった。
 当時の屋敷跡の横に濠跡が一部残っており、その底が畑になっていた。
 水はけの悪い粘土のような土だった。
 畑へ入るには南側を通っている県道から3メートルほど土手を下りなければならなかった。
 水に強い大豆や琉球芋(りゅうきゅういも=さつまいも)を栽培した。ふしぎと大きな赤芋が採れた。
 畑から横の屋敷跡を見ると、小さな自然石を積み上げた石垣が2メートルほどあり、その上に1メートルの土盛りがあって、その上は他家の畑となっていた。
 ある年、芋掘りをしているぼくらの、すぐ上の県道を通りかかった初老のおじさんが話しかけてきた。背広を着て黒かばんを持ったおじさんだった。
「そこは歴史的に価値がありますよ」
 それがどういう意味なのか理解できなかったが、見知らないおじさんだったので、あえて聞きなおすこともしないで聞き流した。
 今にして思うと「土居を構えた中世武士の濠と館跡」として歴史的に価値があるとでも言いたかったのであろうか。
 
 畑は、家の屋敷内にも30坪ほどのものがあった。この畑は母屋と納屋の間にあったのでネギなど日常的に使うものと鶏の餌にする菜を栽培した。
 昼間は解放した鶏が畑のなかで虫をついばんでいた。だから屋敷内の畑では野菜に農薬を使う必要がなかった。

 昭和18年大水害のとき、平地にある集落の田んぼや畑すべてが流された。
 田んぼを埋めつくした大量の砂を一ヵ所に集めたところが畑となって村内のあちこちにあった。
 ぼくの家でも田んぼ脇にかき集めた砂山が、20坪ほどの畑となっていた。
 この畑は砂地だから、ごぼうやじゃがいも、さつまいもなどの根物に適していた。さらに夏になると西瓜や瓜が多く採れた。いちばん重宝していた畑だった。