温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

家族

 祖母と母、それに長兄と次兄そしてぼくの5人家族だ。
 長兄と次兄の年齢差は2年、次兄とぼくとは4年ある。
 長兄の性格は、おっとりしておとなしい。
 跡取りがなかなかできなかったことから、祖母がお大師さまに願(がん)をかけたら彼岸(ひがん)の日に生まれたので「お大師さまの子だ」と思い込んでいた。そのため異常に溺愛していた。
 次兄は短気な性格をしており、勉強ぎらいでわんぱく坊主そのものだったが、兄弟のなかで一番やさしい心根を持っている。村の人たちからも一番かわいがられていた。
三男のぼくは小中学校の通知簿では必ず「真面目でおとなしい」と書いてあった。しかし、家族や叔母からは「要領がいい」とよく言われた。
3人の性格は水泳にでている。祖母が「海は危ない」という理由で泳ぐことを禁じていたので、長兄は泳ぐことがまったくできない。祖母の言うことをまじめに聞いたからだ。ところが、次兄は学校の帰りに内緒で海へ行っていたから泳ぎは得意だ。
ぼくは、ときどき強引に祖母の許可を得て海に行ったから少しぐらいなら泳げる。
祖母は長兄には絶対に海へ行かせなかったが次兄とぼくにはそれほどでもなかったのだ。長兄が幼いころ、祖母に連れられて海水浴に行ったら、細帯(ほそおび)で長兄の腰を結び、手で持ちながら泳がせたというほどの徹底ぶりだった。
 
 長兄は家の跡取りだから、次男、三男との処遇の違いが歴然としていた。入浴も長兄が一番、そして次兄、次が三男のぼくと続き、その後に祖母が入り、最後が母となっていた。昔からの嫡男優先、男尊女卑が踏襲されていたのだ。
もし、武家社会であったなら次兄とぼくは「生涯部屋住み」で、他家へ養子に行かないかぎり一生結婚も出来ない身分だった。封建的な家風を保つ家の宿命だ。長兄とぼくらのかわいがりかたの差もしかたのないことだろう。次兄がいたずらっ子になったのは自分の存在を誇示して親の気を引こうとした結果かも知れない。そしてぼくは親に反抗しない良い子になった。
「それにしても差別がひどすぎる」
 次兄とぼくはよく愚痴(ぐち)をこぼした。
 後年の話になるが・・、ぼくが結婚するとき母は「これが昔からの風習だ」と言ってウールの着物を1枚だけくれた。当然のことながら資金援助なんて、とんでもないことだった。さらに、財産放棄の捺印を要求された。次兄のときも同じだった。
 分与はいっさいせず財産のすべてを嫡男が継ぎ、次男、三男はウールの着物1枚だけもらって家をでる。こうして先祖から引き継いだ財産を減らすことなく子孫へ残していくのだった。
「糠(ぬか)が3升あれば養子にやるな」
 この地方で古くから言われてきた。次男、三男は他家の養子にせず、自分の力で分家を立て、本家を全面協力していく。これが次男、三男の使命だ。
「長兄だけが良い思いをして」
 ぼくは秘(ひそ)かに不満を持っていたが、次男、三男が可愛いからと、それぞれに田んぼを分けていたら本家はやせ細ってしまう。ぼくの家なら3反しかない田んぼを3人に分けたなら1人1反ずつになってしまう。これでは3人とも食っていけない。このような愚かなことをする者を「おろかもん」と言って、現在残っている「おろかもん」の語源だという。旧民法で定められていた財産分与の禁止が、ぼくの家では戦後も続いていたのだ。

 夜は家族全員が上(かみ)の座敷に布団(ふとん)を一列に並べて、祖母と母の間に長兄、次兄、そしてぼくの順に寝ていた。
 冬は3畳しかない納戸の掘りコタツを真(ま)ん中に、四方から足を突っ込んで寝ていた。この場合も長兄が東に頭を向ける上座(かみざ)、母が西向きの下座(しもざ)となっている。祖母と次兄は南向きに、ぼくは北向きに寝ていた。
 ある日、北向きは死んだ人を寝かせる方角だということをぼくが祖母に言った。
「ひとつしかないコタツで家族全員が寝るのだから仕方ない」
 祖母はそっけなかった。一方では、
「男は、頭を東に置いて寝なければ出世に響く」
 平然と言っていた。
 北側に長兄の大きな机とタンス1竿が置いてあったからぼくの場所は半畳ほどしかない。座ってコタツに入ると左手に机の横がせまり、右手にはタンスの横腹があった。
 いかにも狭いスペース、それでもぼくの城であり隠れ家のような気分になって気に入っていた。
 背になる壁は荒壁のままだったので凭(もた)れると土がぼろぼろと剥(は)がれ落ちる。冬には柱と壁の間の隙間から勢よく侵入した冷たい風が、寝ているぼくの肩を容赦なく襲う。これを防ぐため、壁にカレンダーや古新聞を何枚も重ねて貼(は)った。

 暖房はコタツしかなかったから、木炭は冬を越すには欠かせないものだった。
 年に数回、山奥の村まで買いに行った。
 買うのは、いつも一番値段の安い炭だ。炭屋のおじさんは土間に積み上げてある良質の商品には目もくれず家の裏から持って来た。

 夏には上座敷(かみざしき)いっぱいになる蚊帳(かや)を吊ってそのなかで寝る。蚊帳(かや)の出入りには蚊が侵入しないように細心の注意が必要だった。できるだけ姿勢を低くして蚊帳の端を、ぱたぱたと叩(はた)くのと同時にすばやく潜り込む。もたもたしていて蚊が入り込んだら祖母が文句を言う。
1匹や2匹が潜(もぐ)り込んだところで、どうってことないと思うのはぼくだけで、祖母は1匹の蚊になやまされて寝れなかったとぼやいていた。
 戸を開け放した座敷に蚊帳を吊(つ)って寝ると涼しくて気持ちいい。だからどんな熱帯夜でも暑くて寝れないということはなかった。藁葺き屋根の強みだった。

 ぼくが小さいころは母と布団の上で相撲をとった。
「かあちゃん、相撲(すもう)をとろうか」
「よっしゃ、来い」
 母は両手に「ぺっぺっ」と唾(つば)を吐(は)きかけるまねをして腰を折った。立会いの構えだ。ぼくが勢いよくぶつかっていく。次の瞬間「えい」と投げ飛ばされるのは、いつもぼくだった。どてっと乱暴に倒される。布団の上だから痛くはないが、何回ぶつかっても勝つことができなかった。
小学6年のとき、やっと母を倒したら、それ以後、相手をしてくれなくなった。
後年、ぼくが大人になってからこの話をすると、
「負けたらくやしいからだ」
 と言っていた。母も男勝(おとこまさ)りで負けずぎらいの性格をしていたのだ。

 長兄と次兄は、歳が近いにもかかわらず兄弟喧嘩をすることはなかった。
長兄の性格がおとなしかったから喧嘩にならなかったようだ。それに喧嘩をすれば叱(しか)られるのは、いつも次兄だ。喧嘩をすることの不利を覚(さと)っていたのだろう。
 ぼくは長兄と喧嘩をしたという記憶がない。長兄は、ぼくにやさしく、ましてやいじめるということもなかった。
 次兄とぼくは、毎日、取っ組み合いの喧嘩をしていた。仕掛けてくるのは、いつも次兄のほうだ。
 このことは村の中でも評判だったらしく、次兄が中学校を卒業して東京へ働きに出たあと、
「手紙で喧嘩をしているのか」
 と、近所のおばさんにからかわれた。