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温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

食生活

 3反の田んぼと少しばかりの畑があったから、自給自足で家族5人が食べていくうえでの不自由はまったくなかった。

「都会ではおかゆやすいとんしか食べるものがない、皆が腹を空(す)かしている。百姓は食うものに困ることはない、百姓でなければだめだ」
 祖母の口癖だった。当時は日本全国が戦後の飢餓(きが)に陥(おちい)っていた時代だった。それでもぼくの家では食べ物が潤沢にあった。
 昔から、1反は「1人の大人が食べる1年分の米を生産できる広さ」だといわれているが、3反で一家5人が十分に食べることができ、さらに3俵(180キロ)ほどの米を農協に売っていた。
 ある年、
「今年の収穫は21俵あったなー」
 と長兄が母と話していた、豊作を喜ぶ会話だった。
 農協では買い取る米の現物検査をして等級をつけていた。
「わが家の米は日本一美味(うま)い」
 と思っているのに判定は、いつも二等米だった。
「なんでや、こんなに美味(うま)いのに」
 ぼくが口をとんがらかした。
「東北地方の米は、もっとうまいらしいぞ」
 長兄が米の等級は産地によって決まると教えてくれた。
「この辺りの米は、いくら美味(うま)くても二等米だ」
 兄ちゃんが言った。

 朝食は、ごはんと味噌汁に漬物と決まっていた。
 朝5時に起床した母がかまどで一日分のごはんを炊いた。
「おこげ」が祖母の大好物だったから、毎日「おこげ」がないと機嫌が悪い。炊き上がった釜の蓋を上げて、もうもうと立ち上がる湯気のなかを覗(のぞ)き「こげがない」と不平を言う。だから母はこげをつくることに気をつかっていた。
 祖母は残飯ができると、天日干しにして、さらに焙烙(ほうろく)という素焼きなべで煎ったものを菓子として食べていた。
 ときどき母が「おこげのおにぎり」をつくってくれた。塩の利(き)いた熱い「おにぎり」は香ばしくて大好物だった。毎日でも食べたいが母の気が向いたときしか作ってくれなかった。

 鶏(ニワトリ)を飼っていたから卵は食べたいときに好きなだけ食べることができる。ぼくは炊きたてのごはんに生卵をかけ、さらに味噌汁をぶっかけて食べるのが好きだった。世間では「にゃんこめし」といって嫌ったが、ぼくの家ではあたりまえのように皆が好んだ。
 もともとぼくの地域では、ごはんに汁をぶっかける「汁かけごはん」を朝食に食べる風習があり、これは客にも出していたから、行儀の悪い食べ方ではなかった。
 ごはんは、冬にはおひつに入れてコタツの布団(ふとん)に潜り込ませておいた。こうしておくと晩御飯まで温かい。夏には竹で編んだ吊り篭に入れて風通しのいい、上座敷の鴨居(かもい)にぶら下げた。

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 高校生のころ、学校から帰ると腹が減って困るときがあった。こんなときには庭の畑に成っているキュウリを採って、厚めの輪切りにして塩水で下味をつけたものに醤油をかけて食べた。「ポリポリ」という歯ごたえがたまらなく好きだった。
 ときには、ごはんに味噌(みそ)をつけて食べた。
 毎年、12月になると多量の大根を漬けた。収穫した大根は家の前を流れている小川で丁寧に洗った。冬の流水は身を切るように痛い、それでも素手で洗わなければならない、心臓まで痛くなる冷たさに悲鳴をあげながらも我慢して洗っていると、やがて両手に冷たさを感じなくなった。あとは、もうなんの苦痛もない。粉雪の舞う小川でせっせと洗っていった。
 洗い終わった大根は10日ほど陰干しして木の桶に漬ける。このとき祖母は店で買った黄色の着色料を入れた。できあがったタクアンは店で売っているものと同じ真っ黄色になった。
 夏になると、キュウリ、ナス、瓜(ウリ)など旬の野菜を一夜漬けにした。
 夏野菜の中でも瓜の粕(かす)漬けはわが家の自慢だった。
 縦に二つ割にした瓜から種を取り除いて、塩を船盛り状に載せ、桶で3日ほど漬ける。4日目から3日間瓜を陰干してから酒粕に漬けて1ヵ月置く、さらに新しい酒粕に漬けなおして1ヵ月置くと出来上がりだ。奈良漬とは違って甘味はないが、ポリポリと歯切れもよく美味(うま)い。漬物の王様だ。
 瓜の粕漬けは、わが家だけでなく他の家庭でも作っていたらしく、瓜が採れる8月になると酒粕が売り切れて手に入らないということもあった。
 現在では、キュウリ、ナス、大根など、ほとんどの野菜が1年中、店舗に並んでいるから、旬の感覚と季節感が失われてしまったが、当時は旬のものしか食べることができなかった。夏が近付くと「そろそろ、キュウリがでるぞ、トマトが食えるぞ」と楽しみにしていた。
 トマトは、我が家では野菜ではなく果物として食べていたから食卓に上がることはなかった。
 初冬には大根や白菜、高菜などがでてくる。旬の野菜を旬の時期に食べる。これが楽しみであり、待ち遠しかった。 
週に1、2回は、毎朝のように歩いて来る行商のおばさんから買った魚を食べた。近海で獲れるものばかりだから、アジ、サバ、イワシがほとんどだった。刺身と言えば、ワカナ(ブリの若年もの)か烏賊(イカ)だけだった。ただし、ワカナの刺身を食べるのは秋祭りの日だけ。そのころは、アジ、サバ、イワシなどの青物(あおもの)は刺身にしなかった。特に「サバは人間の胃を食いちぎる虫を持っているから命を失う」と言われていた。秋には祭りのサバ寿司を食べて死ぬ人もあった。だがサバ寿司は祭り料理に欠かせないものだったからわが家でも作っていた。
 また、秋は飛魚(トビウオ)や秋刀魚(サンマ)が獲れた。飛魚は「アゴ」といっていた。淡白な味の魚だったから味噌汁の具とするのが一番美味(おい)しかった。

 冬に来客があると「魚すき」をつくった。30センチほどもある黒鯛(メジナ)をまるごと1匹すきやき鍋にいれて、周(まわ)りにゴボウや大根などの野菜を入れる。
お客さんは、尾頭付の魚がそのまま横たわっているのに驚き舌鼓を打っていた。

 牛肉は、年に数回しか食べなかった。そのかわり鯨のすきやきをよく食べた。牛肉より鯨肉が安価だったからだ。
 鯨肉は黒い皮のついた脂身だった。
 豚肉は食べた記憶がない。

 食器は1日1回しか洗わないので、ごはんを食べたあと、茶碗にお茶を淹(い)れてすすぎながら飲み、あとは円卓(ちゃぶだい)に伏せて置いた。
 箸(はし)は自分の箸箱に入れた。

 醤油
「これと同じのを下さい」
 母に教えられたとおりに空(から)の一升瓶を店のおじさんに渡した。
 店内の棚にはいろいろな銘柄の醤油が並んでいる。瓶に貼(は)ってあるラベルがきれいだ。
―どれをくれるかな。
 ぼくの期待を裏切るように、おじさんは空(から)瓶を持って外に出た。
 しばらくして店の横から持ってきた醤油瓶の埃(ほこり)を布巾(ふきん)で拭き取りながらぼくに渡した。外に木箱入りのまま野ざらしになっていたものだ。
「なんでだろう」
 母に聞いた。
「店内に並んでいるのは値段の高いものだけだ。うちが買うのは一番安い80円の醤油だから店内には置いてない」
「そんならもう少し高いのを買えばいいのに」
「そんな余裕はない」
 母の、いつもの言いぐさだった。
 いちどだけ120円のを買ったことがあった。長兄が食べてみたいと言ったから祖母が同意したのだ。
 店のおじさんは店内に並んでいるうちの1本を取ってくれた。
「どうだ、うちはこんな高価(たか)い醤油を使っているんだぞ」
 たまたま居合わせた近所のおじさんに自慢したくなるような誇らしい気分で受け取った。
「どう、うまい?」
 その夜、漬物にかけた醤油を皆で吟味した。
味は「変わらないなー」ということだった。
結局、元の一番安い醤油に戻った。

「俺の家では醤油を造っているんだぞ」
 K君が家の裏にある小屋へぼくを連れて行った。一畳ほどの小さな小屋のなかに樽が並んでいた。
「これがこおこ(たくあん)、これが味噌だ、と大きな樽を指差しながら奥へ入っていって、一番奥の樽にかぶせてある布をめくった。プーンと醤油の匂いが漂った。
ところが、樽の縁(ふち)全体に体長3ミリほどの白い虫がいっぱい動いていた。
「何、これ」
 見れば蛆虫(うじむし)だ、気持ち悪い。
「これはサダだよ、醤油から湧いて醤油しか食べてないからきれいなもんだよ」
 K君は樽に布をかぶせながら平然と言った。

 ソース
 現在、市販されているウスターソースは「熟成ソース」といわれているものだが、当時は熟成品はなく、色も緑色をしていた。
 辛くて幼児の舌では食べることができなかった。10歳をすぎて、やっと食べることができるようになった。春キャベツの油いためにソースをかけて食べると、ぴりっとした辛さとともにソースの香りが口いっぱいに広がり、言葉では表現できないほど美味(うま)かった。おとなになった気分になった。
 

 空(から)になった一升瓶を店のおじさんに渡すと、おじさんは「酢酸と書いてある大きなガラス瓶に50センチほどのゴムホースを押し込んだ。そしてホースの一方を口に含んで、おもむろに吸出した。吸い上げられた酢が、おじさんの口に入る直前に銜(くわ)えていた側(がわ)のホース出口を口から放して一升瓶に差し込んだ。まさに絶妙なタイミングだ。
 鼻をくすぐる匂いを発散させながら酢が一升瓶に移ってきた。
 おじさんは一升瓶に溜まっていく酢をじっと見つめながら横を向いて「ぺっぺ」と口の中に入ってしまった酢をはきだした。

 味噌(みそ)
 冬、セイロで蒸した大豆を臼(うす)と杵(きね)でつぶして、塩と麹(こうじ)を混ぜながら樽に入れた。
 こうしておけば1ヵ月ほどで味噌になった。
 わが家特製だ。
 学校から腹を空かして帰ったとき、ごはんに付けて食べた。


 マヨネーズ
 夏、帰省してきた叔母さんらが、どんぶりに入れた卵の黄身に少量の食用油を入れて、額(ひたい)に汗をかきながら箸でかき混ぜていたが、
「疲れた、手伝ってくれる、右回りしか回したらだめだよ、泡が立つからね」
「よっしゃ」
 ぼくもやってみたいと思っていたのでどんぶりを受け取った。
 叔母さんに教えられたとおりに長い時間かかって、フーフーと荒い息をしながら箸をかきまわした。叔母さんは酢を少しだけ加えた。そのうち乳濁色のペースト状になった、マヨネーズだ。
 蒸(ふ)かしたジャガイモをつぶしてキュウリとリンゴをいれて、今できたばかりのマヨネーズとともにかき混ぜた、サラダの出来上がりだ。
 リンゴの味と歯ざわりがなんともいえぬほど好きだった。
 当時は生野菜を食べる習慣がなかったのでマヨネーズは買ったこともなかった。