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温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

 昭和19年7月、生後60日の僕を残して父は出征した。

「お母さん、この子を頼みますよ」
 村中の人が見送りに来ている面前で、屋敷の階段を下の道まで下りては上って祖母に頼んだ。7回も上り下りを繰り返した。
「村のみなさんが見送りにきてくださっているのに恥ずかしいことをするな。ちゃんと育てるから安心して行きなさい」
 ついに、祖母が、きつく言ったので、家を離れていった。
 前の日、「日本が日本国内を守るようになっては終(しま)いだ、日本は負ける」と言って、自分の持ち物すべてを焼却した。もう、家へは帰ることができないと覚悟を決めての出征だった。
 僕が父のことを聞くと、いつも祖母はこの話をもちだした。
 カメラを持っていたから、写真はあったが自分が被写体となっているものはすべて焼却した。ただ1枚祖母が隠していたものが仏壇に飾ってある馬上のりりしい姿だけであった。
 僕は父の顔を知らない。母に父のことを聞いても、「半年しか一緒に暮らしていないから」と言って多くを語らない。母は僕の父が好きではなかったと僕は思った。
 母は23歳のとき、僕の父の兄と結婚し長兄と次兄が生まれたが8年後夫が病死したため僕の父と再婚した。
 母は晩年、それまで白木のままであった僕の父の位牌と兄たちの父の位牌を漆塗りの本格的な物に作り替えていた。
 僕の父の戒名は中央に書かれ単独の位牌になっていたが、前夫のは位牌の右端に書き、左側は空けてあった。母の死後、母の戒名を書き加えるためだった。母は前夫の妻として納まりたかったのだ。
 母が僕に初めて見せた心の内だった。だが、作成したのは数年前だったのに、自分が死ぬまで長兄のもとに置いていた。
 
 仏壇の中に置いてある父の馬上姿から砲兵隊だったと思っていた。下士官で馬に乗れるのは砲兵隊しかいないはずだ。
「この村の人は、ほとんどが浜田連隊に召集されるのに、お父さんは、どういうわけか広島連隊へ行っていた」
「帰って来る度に階級が上がっていた」
 祖母が言う。
「連隊の行軍演習でこの村へ来たことがある。そのときはこの村の小中学校の生徒全員で村境まで迎えに行って『ばんざい』をした。ここの地区では、村人全員で出迎えた。ここで休憩となって隊長さんら偉い人には、わが家へ来てもらい、兵隊さんたちは道近くの家で、朝から搗いたあん餅と赤飯のおにぎりを配った。皆がとても喜んでくれて涙を流す兵隊さんもいた。
曹長、人気が有るんやな』と隊長さんが言っていた」
 祖母が話す。
「君のお父さんは偉かったよ。軍隊の行軍でこの村を通ったとき、君のお父さんは馬に乗ってかっこよかった」
 僕が10歳のとき、同級生のお父さんが話してくれた。

 戦後、父の遺骨が帰ってきた。葬式も済み、墓地に埋葬するとき、白い布で包まれた木箱の中が気になった。
「本当に遺骨がはいっているのだろうか」
箱を手で持って振ると、コトコトと音がする。
「箱の中は見ないように」と国からの達しを無視して中を見ると、姓名を書いた木片が1個入っているだけだった。
遺骨はなかった。

 終戦後50年の年の8月、帰省していた僕の家へ老人が訪ねてきた。
「自分は広島の連隊で同じ部屋に入っていた」
 田舎には終戦の月になると、いろんな人がやってくる。その多くは、遺族をねらった商売人だった。母は、また、その類だろうと軽く聞き流しているようだ。あわてて応対にでた僕を見ると、
「あなたがお子さんですか、お父さんはいつも生まれたばかりの息子の話をしていた」
 感慨深そうに僕を見つめる老人の目には涙が浮かんでいた。
 座敷に上がってもらうと、老人は仏壇に手を合わせたあと僕に向かって座った。
「父の所属はどこだったのでしょうか」
「今でいう飛行機の整備係だった」
「砲兵だとばかり思っていました」
支那事変では砲兵だったと言っていました。広島では整備でした」
「2人のうちどちらかが沖縄へ行かなければならないという噂がたった。自分と君のお父さんは『沖縄へ行けば生きては帰れない、行きたくないな』と話し合っていた。結局、君のお父さんが沖縄へ行って戦死し、自分は行かずに生き残った」
「今まで、どうしてもこの家へ来る勇気がなかった、自分だけ生き残ったから。家の前の道を通るときは必ず、手を合わせて冥福を祈っていた」と老人は言った。
 老人は、不自由な足で父の墓参をして帰った。

 平成20年(2008年)8月、沖縄で父の部下だったという女性から電話があった。遺族を探して市役所で聞いたと言っていた。
「私は昭和20年、沖縄の太刀洗航空廠にいました。そのときの上司があなたのお父さんでした。とても優しい上司でした。そのころ私は20歳でしたから、職場から家へ帰るときは、日本の兵隊は悪いことをするから1人では危ないと私の身を守るため、いつも後ろをついてきてくれました。一緒に歩いていては誤解を招くからと、一定の距離を保ちながらついてくれました。
 米軍が沖縄を攻撃してくる直前、『自分は兵隊だから逃げるわけにはいかないが、君は死ぬことはない』と言われて、本土へ行く最後の船に私を乗せてくれました。別れるとき曹長は、晒の反物と百円を持たせてくれました。反物は何に使うのか聞きましたら、『万が一、船が沈むようなことがあれば鱶から身を守るため身体に巻きつけて長くたらしなさい、鱶は自分より長いものは襲わない』と教えてくれました。お陰で今、私は生きています」
「日本軍が山の中に入るとき、曹長は5歳くらいの男の子の手をとって入っていかれました。それが曹長とお別れした最後です」
と話した。82歳だというこの女性は、糸満市に住んでいると言った。
なんとしても曹長に線香を手向けたいと遺族を探してくれたのだ。