温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

小学校

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f:id:hidechan3659:20161005133501j:plain高学年用

f:id:hidechan3659:20161005133551j:plain低学年用

 昭和26年(1951)4月、福波村立福波東小学校に入学した。
 全校生徒280名、新入生は男児が18名、女児が25名だった。
 校舎は明治時代建築の木造平屋建てで、講堂は昭和の初めに講堂兼体育館として建てられていた。
 1年から5年生までの教室と職員室及び図書室が東西1列に並び、通し廊下の長さは記憶に基づく目側ではあるが60メートルほどもあった。 長い廊下の東端を左に曲がったところに高学年用玄関があり、さらに渡り廊下の先に6年生教室があった。
 校舎も講堂もすべて板敷きだったから、掃除は毎日ぞうきんがけをしていた。
 音楽室がないため講堂の舞台横にピアノが1台、各教室にオルガンが1台ずつあった。
 音楽の授業は各教室で行い、ピアノを必要とするときは講堂に集まった。
 講堂兼体育館は低学年用玄関の横を通って中庭(小校庭)に入る通路をまたぐ廊下の先にあった。この跨路橋部の隅に大きな木製のプロペラが片方のみ1個置いてあった。戦時中の飛行機のプロペラだと言われていたが、それにしてはあまりにも大きく、どの飛行機のものなのかは想像もできなかった。
 
 冬の暖房にはダルマストーブを使っていたので、各教室からブリキの煙突が窓から外へ出て屋根の上まで突き出ていた。
 5年のときまでは薪(まき)を燃やしていたが6年のときに石炭に替わった。
  

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  絵・ダルマストーブ

 始業、終業の合図は用務員をしているおばさんが鐘を「カンカン」と鳴らしていた。鐘の打音には限度があり1年生の教室ではかすかな音しか聞こえなかったが、数年後にはサイレンに変わった。
 
 ぼくが2年のころ、次兄は6年生で予備室を教室にしていた。予備室は学校の正面玄関裏側の中庭に建てられたもので2階建ての1階が6年の教室で2階は図書室になっていた。
 予備室にはストーブがなかったので、部屋の真(ま)ん中に一辺が1メートルほどもある大きな方形の石火鉢が置いてあり、炭火で暖をとっていた。これは小学校の創設期に福光石で作られたものということだった。ぼくの集落では石仏、灯ろう、墓石などの材料となる良質の石材が採れ、これを福光石といった。
 
 運動場で体操をするときは皆が裸足(はだし)だった。運動会も裸足だから前日に全校生徒で校庭の掃除を行い、小石をひろった。

 この小学校も昭和41年(1966)に取り壊された。