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温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

枇杷木のおじさん

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       絵・はでご(稲架=はさ)

 稲刈りの日が近づくと田んぼの隅にはでごを立てた。長さ5メートルほどの杉の柱4本を3メートル間隔で立て、長い孟宗(もうそう)竹を横に渡して6段の棚を作った。
 はでごは台風などの強風に倒れないよう風向きを考え、日当たりの良い向きに立てる。
 力のいる作業だったから男の人を頼まなければならないのだが、ぼくの家には近所のおじさんが無料(ただ)で手伝いに来てくれた。枇杷木のおじさんだ。『枇杷木』が屋号(やごう)なのかは分からないが、村の人はそう呼んでいた。ぼくの村には同姓の家が多いので、ほとんどの家に屋号がついている。
 おじさんは国鉄の線路工夫をしていて、真っ黒に日焼けした大きな人だった。力が強く、相撲の巡業で来た十両力士に勝って、親方から四股名(しこな)をもらい、入門を勧められたが、すでに30歳を越えていたので相撲界には入らなかったという。
 毎年、無料で手伝ってくれることに「なぜだろうか」とぼくは思っていた。
ある年、おじさんが言った。
「自分が16歳のとき、少年兵として満州へ行ったんだよ。毎日、上官にぶっ叩(たた)かれ、張り倒されて頬が腫(は)れていないときはないくらい大変だった。そんなとき、戦地で君のお父さんの部隊に行った。君のお父さんはすでに軍曹だったからね偉(えら)かったんだよ。
 キャラメル2箱とたばこを1箱くれた。そのうえ上官に声をかけてくれた。もちろん上官にも何か渡してくれたようだが、軍隊というところはそれが良く効くんだな。それから上官の態度が変わったよ、何かと気にかけてくれる。・・うれしかったよ。・・あるとき、強力なゲリラが出たというので討伐(とうばつ)に出ることになった。そのとき、お父さんはわしを部隊へ残して行った。
お父さんは人事を担当していたからな。危険な場所へは連れて行かなかった。だが、君のお父さんは戦死された。だから、あのときの恩返しをしているんだよ」
 おじさんの善意は、ぼくたち兄弟だけではでごを立てることができる年まで続けられた。

 ある日、おじさんが自分の家から根の付いた孟宗竹を担いできて、裏山の入口に植えてくれた。ぼくの家には真竹と破竹(はちく)はあったが孟宗竹が無かったからだ。
「数年もすると美味(うま)い筍(たけのこ)が食えるぞ」
 汗を拭きながら言ったおじさんの言葉どおり、2本の孟宗竹は年ごとに本数を増やし、たちまち筍を食べることができるようになった。