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温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

大川

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 村の中央を流れている福光川を大川と呼んでいる。
 大川は全体に浅く危険な場所もないので、ぼくらのかっこうの遊び場になっていた。水の中を歩きながら小さなタモ(網)で魚を捕っていく。鮎、鮒(フナ)、ハヤ(ウグイ)、ウナギなどが捕れたが鮎とウナギしか食べなかった。たまに、手長エビが捕れることもあった。これは焼くと香ばしくて美味い。
 夏の夜、ウナギ釣りにでかけた。3センチもある大きな釣針にミミズをつけて細竹で川岸の穴へ静かに押し込んでいく。川を何回も上ったり下ったりしながら穴を探り、数時間歩いていつも成果なし。でも、たまにはぐぐっと引きがある。
「あれ、掛かったぜ」
ぐらいに思って引き抜くと、体長30センチほどもある大きなウナギがついていた。
「イチジクの葉を取って来い」
 次兄が板と釘を持って家の前の小川に下りて行く。
 次兄は、板に載せたウナギの頭に、すばやく釘を打ち込んで固定した。
 苦しみ、のたうち回るウナギを、表面がざらざらしたイチジクの葉で押さえつけて背開きにした。 
 わが家では蒲焼のタレが作れなかったから素焼きに醤油を付けて食べた、それでも美味かった。
 
 夏休みのある日、川の近くで仕事をしていた電気工事のおじさんが
「魚は居るか」
 と声をかけながら土手を下りてきた。電柱から垂らした電線を持っている。
「俺たちが獲ってやろう」
 ぼくらを土手の上に座らせて
「いいか、絶対にそこを動くなよ」
 と念を押した。
 おじさんの一人が対岸に渡った。分厚いゴム手袋をした手には電線を持っている。
― なにをするんだろう。
 おじさんらがこれからしようとしていることを予測できなかった。
 両岸の水辺に立ったおじさんらは慎重に、へっぴり腰になって手を思いきり伸ばした。電線を水に浸けようとしている。あまりにもこっけいな姿勢に、ぼくらは「ケタケタ」と笑っていた。
「ええかー、1、2、3でいくぞ」
 電柱の上からおじさんが言った。
「ええーぞー」
 両岸のおじさんが応えた。
「1、2、3」
 3人が声をそろえた。瞬間、「バシッ」と音がした。川岸のおじさん2人が電線を水に浸け、電柱に上っていたおじさんがスイッチを入れたのだ。 
 棒のように硬直したウナギ数匹が白い腹を上にして浮かんできた。 鮎、鮒、ハヤなどがぴんと伸びている。浅くて、それほど大きくもない川にしては、びっくりするほど数が多い。
「切ったか」
「切ったぞ」
 電源を切ったことを確認したおじさんらは電線を上げて水の中にかけ込んだ。走り回りながら気絶している10匹ちかいウナギを手づかみで土手に放り投げた。
「魚は取ってもってもいいぞ」
 おじさんが言った。ぼくらは恐る恐る水のなかに足をいれた。なんの異常もない。
「それー」
 我先に魚を集めた。やがて、硬直していた魚が息を吹き返したように動いて水の中に消えていった。バケツの中でも白い腹を上にして浮かんでいた魚が、ぴくっと身震いの後、くるっと回転して底に潜った。
「今日のことは、絶対誰にも言うなよ」
 おじさんたちがウナギを大きな布の袋にいれて水の中に浸けた。仕事が終わるまで鮮度を保つためだった。
「今晩の酒のあてさ」
 といいながら仕事に取り掛かった。
「ピーヒョロロ」
 上空で鳶(トンビ)が遊弋(ゆうよく)していた。水面に浮かんだ魚を狙ってきたようだ。

 

 ある年の朝だった。大川の魚が大量に死んでいた。
「山椒の根汁を流したな」
 長兄が言った。山椒の根を水に浸けながら叩いてでる根汁を川に流すとすべての魚が死ぬらしい。この根汁は人間に無害だから、漁に使われていたが、これを使うと魚が全滅してしまうので禁止されているという。でも誰かが夜のうちに使ったらしいのだ。
 アユも大量に浮かんでいたが、農薬を流したおそれもある。
 誰も、手をださなかった。
 (※この話は長兄から聞いた話で信憑性については自信を持てなかったが、ごく最近、テレビのある番組で水槽の金魚にサンショウの粉を入れるとたちまち腹を上にして浮かんだ。このとき「金魚は一時的に気絶している状態ですので時間が立つと生き返ります」という字幕がでた。)
 
 中国地方で一番大きな江川では、「発破(はっぱ)」を使って魚を捕る者がいると、親戚のおじさんが話してくれたことがある。誰にも見つかりにくい山奥での話だ。「発破」とは、道路工事などで「ダイナマイト」を使って岩や石などを爆破させることだ。ダイナマイトを水中で爆破させると衝撃で大量の魚が捕れるとのことだった。
ダイナマイトは、免許を持った人しか使ってはならないと規制されている。もちろん、工事用に限定されているから漁に使ったことがばれると警察に捕まる。だが、発破は江川のような大河だからできることであって、水深の浅い川では使えない。たとえ、使ったとしても衝撃は空中へ飛散してしまう。それに、狭い村のことだ、爆破の音は村中の人を驚愕させるだけだろう。隠れてなんて絶対にできるわけがない。
 
 昔、大川には十無淵(とおないぶち)という淵があった。そこは、深く、いつも渦巻いていたという。
不言城の奥女中が、10枚あったという家宝の皿1枚を割ってしまった。
「とおない、とおない」
 と泣きながらこの淵に身を投じたという番町皿屋敷のお菊と似た伝説がある。ただし、不言城の奥女中は幽霊にならなかった。            
 十無淵にエンコウがいたと言われている。この地方では河童(カッパ)のことをエンコウと言っていた。
 日本各地にいたという河童は、あまり怖くもなく、せいぜい、人や家畜に悪戯をするのが精一杯だが、十無淵のエンコウは人間の子供を深みに引きずり込んで、尻から肝(キモ)を取り出して食べると怖れられていた。
昭和の初めごろ、下校途中の男の子が、この淵で行方不明になり、数日後に発見されたときには肝を抜き取られていた。その証拠に男の子の肛門が大きく開いたままになっていたという。
 また、十無淵は20キロメートルも離れた浅利村の虚無僧池と底がつながっていて、エンコウは行ったり来たりしていたという。
昭和18年の大水害で淵は埋まってしまい、今は地名のみが残っている。

 

 昭和18年9月20日、台風9号襲来による豪雨は福光川の橋すべてを流し、堤防を13ヵ所も決壊させて、家屋流失5軒、全壊13軒、半壊24軒、耕地72町歩、田地52町歩流失という未曾有の大災害となった。(※この項は「福波小学校誌、発行者福波小学校統合20周年記念事業実行委員会」を参照させていただきました)
 ぼくの家は、高さ2メートルの石垣上にあるから無事だったが、10段ある石段の8段まで水が来たという。村は大人の身丈を越すほどに水没したのだ。

 我が家の田んぼは全て砂に埋もれてしまった。村中の田んぼも畑も川も全てが流されて川原になった。
 ぼくが生まれる前年のことだったから知るよしもないが、
「家の前を、屋根に避難した人を載せたまま家が流されて行った」
 次兄が話す。その人たちは
「おーい、おーい」
 必死に助けを求めていたが、誰もどうすることもできなかったという。
 伯母が話す。
「外で、おーい、おーいと、次兄の声がするので見に行ったら、助けを求める人たちに手を振っていた」
当時3歳だった次兄には、切羽詰(せっぱつま)った事態を理解できないまま応えていたのだ。
「あわてて家のなかに連れ込んだよ」
 叔母が苦笑していた。
 この人達が流されたときには、福光川の橋すべてが流失した後だったので、人を載せた屋根が壊れずに海まで流された。このことが幸いして全員、漁船に救助された。
 

 川原になってしまった田畑を元に戻さなければならないが、その年は太平洋戦争最中のことであり、若い男の人は出征中も多く、戦死してしまった家もあることから、広島から勤労奉仕の学生さんが大勢来てくれた。当時、ぼくの家には父がいたから学生の割り当てはなかった。

 翌年2月、学生さんらが帰る日は大雪だった。50センチちかく積もった雪の道を、
「わっせわっせ」
と声を揃え、
「さーならさーなら」
と村人にあいさつをしながら、駅に向かって歩いて行った。
 後年の話になるが、ぼくの職場でこの話をしたら、当時、広島に住んでいたという上司のK氏が、
「自分も、学徒勤労奉仕で福光というところへ行った」
と言った。よく、話を聞いてみると、ぼくの家から歩いて10分のところだった。K氏は雪のことも鮮明に覚えていた。
「戦争も末期のころで、都会では食糧難に陥っていたが、福光では食べ物は十分にあったから楽しかった」
と述懐していた。
「広島は原爆でやられたから、あの学生さんらも亡くなってしまっただろう、かわいそうに」
 祖母はときどきこの話をして念仏を唱えていた。
 K氏の話によれば、福光へ来てくれた学生さんたちは、昭和20年8月の広島原爆のとき、山村での農作業奉仕のため汽車に乗って移動中であったという。トンネルをひとつ越えたとき、
「あー」
という学生の指差す山の向こうにきのこ雲が上がっていた。まさに危機一髪のところで助かったという。
 その日、学生さんらは農作業の現場に着いたが作業用具を積んだトラックが来ないため1日を無為にすごし、夕方広島への帰路、広島から出てくる列車には真っ黒になった人たちが屋根の上まで一杯になっているのを見て「これはただごとではない」と気付いたという。 
 田んぼを埋めつくした砂を取り払って一か所に集めたところが畑になって、村のあちこちにある。ぼくの家にも、田んぼの横に畑として残っていてスイカや瓜、ゴボウなどがよく採れた。

 家の前を小川が流れている。
 この小川は大川から取り入れた疏水で浅いため、メダカやフナの稚魚がいる程度で大きな魚はいなかったが、たまには、ウナギが獲れる事もあった。シジミは直径が2センチを越える大きいのがたくさんいた。それでも、肝臓の病気になった人が黄疸に効くからと、たまに採る程度だった。
「川のものまで拾って食べている」
 村の人がそんな目で見ると思っている祖母が嫌がったから、ぼくの家でも食べなかった。

 朝早くから、次兄がバケツと竹で編んだチリトリを持って、小川を行ったりき来たりしている。
 田んぼに水をいれる農繁期前の4月に溝掃除がある。
 当日は、川底にたまった土砂やゴミをとり除くため、朝から小川に流れ込む水をせき止める。小川の水が無くなると、河岸の穴に隠れ住んでいたウナギやフナなどが、わずかに残った水たまりに集まってくる。普段は、みたこともない大きなフナなどがとれるから、ぼくらはバケツを持って走りまわった。
 次兄が干上がった小川からウナギを捕ってきた。タライの内周より長く、胴まわりの直径も5センチを超える、とてつもなく大きなものだった。近所のおじさんが「川の主だの」と言ったことから気持ち悪くなり、だれも料理をしようとしない。さすがの次兄も手をだせないでいる。
そのうちに死んでしまった。結局、近所の家へ譲り渡した。

 数年にいちど、梅雨の末期に大雨が降って大川の土手も決壊するのではないかと心配するほどの水がでた。小川は氾濫して周辺の田んぼを蔽っている。
 こんなとき、М君のお父さんは田んぼの排水口に大きな網を仕掛けていた。
 体長3、40センチもあるコイやフナが何匹も捕れている。
 普段の大川は浅くて、コイは見たこともない。
―いったい、どこにいたのだろう。
 不思議だった。