温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

正月

正月の準備は障子の張り替えから始まる。
 12月29日、大川に運んだ16枚の障子を水に浸して糊が溶けたところで竹の棒に障子紙を巻き取った。この剥ぎ取った紙は乾燥させて便所に立てかけておき、トイレットペーパーとして使用していた。普段使用している新聞紙より柔らかくて気持ちいい。
 きれいに洗った障子の骨組みに新しい紙を貼っていく。これは祖母の役目だ。
 貼り替えた障子を元の場所にはめ込むと、家の中が明るくなり正月が近づいたという実感がわいてきた。

 年末になると、あちこちからカレンダーが手に入る。
 カレンダーの表紙で七福神の宝船が輝いている。金色をふんだんに使った「七福神の宝船」は、正月を迎える浮き浮きとした心の弾みを呼び起こし「もういくつ寝るとお正月…・」
ついつい口ずさむ。
 大人になって失われた感情だ。
 早く餅を食べたい。だが、餅を搗(つ)くのは30日と決めている。9のつく日は、苦餅(クモチ)といって忌み嫌う風習があるからだ。30日が待ち遠しい。
 30日、朝暗いうちから家族全員が石臼と杵で、「ペッタン、ペッタン」と餅をついた。丸餅とアンコ餅、鏡餅、神様用の小さな餅と作っていく。
そして最後の臼でボタ餅を作って食べた。その頃、砂糖は貴重で高価だったから、ボタ餅以外のアンコ餅は、小豆に塩で味をつけた『塩アン』だった、だから甘いボタ餅は皆の好物だ。
 1斗の餅つきが終わって戸外に出ると、冬の長い夜が、やっと明け始めたところだった。軒先に10センチほどのツララが一列にぶらさがっていた、1本取って口に入れると煤で汚れた味がした。
 
 31日は正月料理を作るため、昼間から家の煙が昇っていた。普段は農業に忙しい村のことだから、日中に家から煙が出るということはほとんどない。村の家々から煙が昇るのは祭りと正月の前日だけだった。平和な村の象徴のように煙が村の中でたなびいていた。
 母と長兄が納屋でしめ縄を作っている。これは、男の家長が作らなければならない。母が一所懸命教えているが長兄には難しいらしくなかなか上手くいかない。 何回もやり直して、やっと出来上がったものは貧弱で不細工なものだった。それでも神棚に飾ると正月気分を盛りたててくれた。
 夕方、明るいうちに入浴を済ませ、新しい下着に着替えた。
ウールのシャツとズボン下には、ネルの裏地が付いて温かい。
  
 1月1日は、朝5時に起きて家族全員が湊の八幡宮まで初詣でに行った。皆が綿入れハンテンを着て新しい足袋と下駄を履いている。下駄には鼻緒を覆い隠すカバーが付いて足も温かい。
 新年で最初にあいさつをするのは神様でなければならないと言われていたから、朝、起きても家族で新年のあいさつもしない。必要な言葉は小さな声で話し、それ以外は何も話さず、誰にも出会わないよう暗いうちに提灯を灯して八幡宮までの30分黙々と歩いた。たとえ道中で村人と出会ってもお互いに深々とおじぎをして言葉は交わさない。
 境内に入ると拝殿から「ドンドンドドン」と太鼓の音が聞えてきた。ぼくらの姿を見て太夫(神官)さんが叩いてくれたのだ。ぼくらは厳粛な気持ちになって拍手を打った。

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初詣でが終わって家に帰ると母が家の隣にある大元神様へお参りに行き、それから雑煮をつくって食べる。
 大元神は、島根県西部地方を中心に尊崇されてきた農耕の神さまだ。特に、ぼくの家の隣に祭ってある大元神は、「須佐之男命(すさのおのみこと)に、退治された八岐大蛇(やまたのおろち)の頭は邑智郡に逃れ八色石となり、尾っぽは福光の湊へ逃れた。尾っぽは、やがて力をも盛り返し村人に危害を加え苦しめた。福光下村(市)の里の鎮守神である大元神が、これを退治し、大蛇は龍岩となった」という謂(いわ)れのある神様だ。明治の合祀まではりっぱな神殿があったという。
 ぼくが4、5歳のころ、お神輿が村の中を練り歩いた記憶が残っている。
「餅は、何個食べるか」
 母が台所から聞いた。
「5つ」
「5つ」
「5つ」
 長兄も次兄もぼくも「5個」だ。
 祖母と母は3つだ。
「できたで」
 母の呼び声に待ってましたとチャブ台に着いた。
 カツオブシに醤油で味付けしただけの雑煮に、甘く煮た黒豆をかけてかぶりついた。黒豆の甘さが美味い。
家族みんな雑煮が好物だった、これから3日間は3食とも雑煮と煮しめに漬物だけだ。
 12月のはじめに漬けたタクアンを初めて食すのも正月だった。わずかに辛みの残っている新しいタクアン独特の味はぼくの好物だ。

 1月1日は小・中学校の登校日だった。全員が一張羅(いっちょら)の晴れ着で講堂に集合して、君が代斉唱に続き「年の初めのためしとて…」と、唱歌を合唱した。
 校長先生とPTA会長の祝辞が延々と続いた。PTA会長の話は長くて退屈することが多かった。ある年、「世界で一番小さな国・日本、そのなかでも一番小さな県・島根、島根で一番小さな村・福光」と熱弁をふるった。
―本当だろうか。
 ぼくの疑問は、強烈な印象となって脳裏に刻み込まれた。
 式典が終わると1箱のキャラメルをくれた。ただし、10粒しか入ってない小さな箱のものだった。ぼくの家は貧乏をしていたのでキャラメル1箱を1人で食べることができるのはこのとき以外にはない。
― さて、どのように食べようか。「ボリボリ」と噛んで食べたい、でも、そんなことをしたらあっという間に食べつくしてしまう。
ひとしきり迷ったあげく、結局のところ一粒づつ、口のなかを行ったり来たりさせながら、じっくり舐めていった。
 そのころの正月は、テレビもラジオも無い時代だから、特に何もすることがない。大人は、1日中寝ていることが多く、子供はなにすることもなく退屈することが多かった。
 母に買ってもらった奴凧(やっこだこ)を上げようとしたが、四方を山に囲まれた狭い村のことだ、電線がじゃまになるし風も弱い。結局、凧は納戸の壁に飾ったままだった。

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 夜になると家族みなが元気になる。母と長兄、次兄、それにぼくの4人でトランプや花札(はなふだ)をする。花札は、1回あたりの勝負が早くつくことから、皆が好きだった。
「猪鹿蝶だ」
「さくらだ」
「あめだ」
 映画で見る、いっぱしの博打うちのように勝負する。敗者は、コタツ板の上に手を重ねる。そして、一番に勝った者に平手で叩く権利をあたえられるが、敗者にも勝者の手が動いた瞬間からに逃げることができるのだ。勝者は上手くいけば敗者の手に強烈な痛みを与えることができるが、下手をすれば皆に逃げられて、コタツ板を力いっぱい叩くことになる。
「痛い」
 皆が「ギャーハッハ」と叫びながら笑う、母もこんなときには決して負けていない。
「やれのー」
 負けの続いている母が悔しがる。
 家族でゲームをするのは正月だけの楽しみだった。
 夜遅くまで大きな声を張りあげて騒いだ。

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 数年に一度、家族で出雲大社へ初詣でに行った。満員の汽車で約2時間、立ちっぱなしで行くことが多かった。ある年、客車が満員で乗れないからと言って、駅員が貨車のドアを開けてくれた。
「正月早々貨車か」
 ぼやきながら、それでも行けないよりはましだとばかりに乗りこんだ。
 がらんとした車内には、隅の方に大きな布袋が3つほど置いてあるだけだった。赤色で「〒」のマークがついている、郵便袋だった。
その横に重ねてあった筵(むしろ)を長兄が床(ゆか)に拡げて座った。
「外の景色が見えなくて残念だが、ぎゅうぎゅう詰めの客車で潰(つぶ)されそうになりながら立っているより、このほうがはるかにいいな」
 両手足を思い切り伸ばして仰向(あおむ)けに寝ころんだ。
「ガタガタ、ゴトゴト」
 車輪の振動が、ここちよく体に伝わってきた。
 帰りは満員の汽車に乗るのかと憂鬱(ゆううつ)になったとき、ふと思いだした。ぼくらの乗る三等車のとなりに一両だけ、がらがらに空(す)いた客車があったことを。二等車だ、座席すべてが真っ白なシーツで覆(おお)われて全席が前向きだった。
「帰りは二等車に乗ろうよ」
「だめだ、我々は二等車に乗る人種ではない、二等車は国会議員とか会社の社長さんのような偉いさんが乗るものだ」
 ぼくの言葉をさえぎったのは長兄だった。

 餅の雑煮は、正月3日までしか食べさせてくれなかった。4日は、
「4日悲しやダンゴ餅」
 と言って小麦粉でつくったダンゴの雑煮だった。口に入れて噛んでも餅のような歯切れは全々ない。味気なくて不味(まず)かった。
「いつまでも正月気分で浮かれていてはいけない」
と、気持ちを引き締めたのだった。
もう、雑煮は来年の正月まで作ってくれない、餅は焼いて食べるのだ。
 モロブタいっぱいに並んでいる餅を見ながら、
「正月も過ぎてしまった」
 さびしさが心をよぎった。