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温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

中学校

 

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     写真・龍岩、校舎は現・温泉津小学校(撮影・2015年5月)

 昭和32年(1957)4月、温泉津町立福波(ふくなみ)中学校に入学した。
 金ボタンの学生服に、白い二本線をつけた帽子を被って通学する。
 学生服が詰襟(つめえり)になった。急に大人になったような誇らしい気持ちになっていた。
だが、襟(えり)の内側には、白いセルロイドの帯を付けなければならない、これをカラーといっていたが、固くて首が圧迫されるので嫌いだった。
このころから、母のことを呼ぶのに『かあちゃん』から『かかさん』に変わっていた。
『かあちゃん』では照れくさいという感情が芽生えていたのだ。

中学校は、木造二階建てだった。
床も小学校の校舎と同じく板張りだったから、掃除もぞうきんがけをしていた。
 冬のストーブは小学校と同じダルマストーブだったが燃料は石炭だった。
 中学からは、隣村の小学校から上がってきた生徒と一緒になったため56名になった。そのため、2クラスに分かれた。
 この頃から、上履きにズック靴を履くようになった。藁草履(わらぞうり)ともお別れだ。
 2年からは、2階の教室となった。ぼくの家は平屋だったから心待ちにしていた2階だ。
 窓からの景色が好きだった。
音楽室は、体育館の後ろにあるが、音が反響するように作られた本格的なものだった。

 学校の裏に龍岩(たついわ)と呼んでいる岩山がある。下部は波に削り取られた形跡を残しており、下から見ると大きく口を開けた龍が、今にも校舎に噛み付こうとしているような威圧感をもっている。落ちたら大変な災害になるというので、危険を知らせるにはどうしたらよいか。ということが検討されていた。始業・終業に使う鐘を連打したらすぐ校庭へ避難せよと言われていた。龍岩が落ちるときは逃げる間なんてないと思っていたが、それほど危機感はなかった。
 龍岩の下に残っている砂には大量の貝殻が混ざっていた。太古の時代にはここまで海水があったのだ。村のあちこちに残っている海岸の痕跡をたどっていくと、村のほとんどは海底であったことがわかる。中学校は水深80メートルほどの海底だ。ぼくの家も完全に水没だ。
 このことを知ってから、時々夢を見るようになった。
ある日、山の倍ほどもある大津波が山を越えて村に被さって来た、ぼくは驚愕して絶叫をあげた。「わーっ」自分の声で目が覚めた。膀胱はぱんぱんに張れ、寝小便をしてしまう直前だった。夜、トイレに行きたくなったときによく見た。
 校庭は、水はけを良くするため、わざわざ九州から石炭殻を取り寄せて厚く敷いてあると聞いていたが、大雨が降るとすぐに浸水し、ひどいときは深さが10センチほどにもなった。

入学のときに新しい学生服を買ってくれたが、3年になったころには、色あせた服になっていた。
 このころ、昭和35年にもなると、もうぼろぼろの服を着ている生徒はいなかった。  

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 1月1日には学校で式典があるから、皆が新しい服を着て登校する。
新しい服を買う余裕のない母は、染め粉(染料)を買ってきて学生服を染めてくれた。
色あせた学生服は、色だけは新しい服と同じ黒色に染まっていた。