温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

高校

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    昭和35年、江津市にある工業高校に入学した。
 男子だけの学校で制服は黒の詰襟だった。襟に学年を表すローマ数字と科別のバッジを、帽子には黒の蛇腹を付けていた。戦争中の海軍士官をイメージして「かっこいい」とぼくは満足していた。
 
 ぼくもやっと自分の自転車を買ってもらえた。兄のは新車でピカピカのものだったのに、ぼくのは中古車だった。ハンドルだけは新しいものと交換してくれたがその他は錆がついている。機械油を付けて磨いたら少しだけきれいになった。それでもマイカーなのだ、いつも手入れをして乗り心地はよかった。

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 家から石見福光駅まで自転車で15分、石見福光駅から江津駅までは20分の汽車通学だった。

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長兄は高校時代から駅前の知人宅に有料で自転車を預けていたが、ぼくには借りてくれなかった。「どこへでも置いておけ」ということだ。
 ぼくとS君は駅前にある運送会社事務所の側面軒下に無断で自転車を置いていた。今考えればふしぎだが、ぼくらは当然のように駐輪し、運送会社の人もだめだとは言わなかった。

 車窓から見る日本海は毎日が新鮮で飽きることがなかった。
 高校は日本海に面した松林の中にある。通学路は松林のトンネルをくぐって行く、なかなかの風情があった。

 下校に乗る上り列車は江津の次の浅利駅をでてすぐに勾配の急な坂にかかる。山陰本線のなかでも有数のうちに入る急こう配だということだった。
 蒸気機関車が必死になってあえぐように上って行く。
 スピードが落ちて人がゆっくり歩くほどの速度になってしまう。
 戸を開け放したデッキに立って車外をみると、すぐ横の畑でスイカや瓜が、ぽこっぽこっと姿を現している。この速度なら、列車から飛び下りてスイカや瓜を盗り、また同じ列車に乗ることが可能だと思った。
―そんなことをして怪我でもしたらつまらん。
 ぼくの結論だった。ところが実行したやつがいた。同じ高校の生徒だ。
 専攻が違うので話したこともない生徒だった。
 彼は、先頭車両のデッキから砂地へ飛び下り、瞬間、体ごと数回転して立ちあがった。柔道の受身でも心得ていたのだろう。
 すばやく、黄色く熟れた真桑瓜を2個取って3両目のデッキにいた仲間に放り渡した。
 そして、走りながら4両目の車両に飛び乗った。
 窓から身をのりだして一部始終を見ていたぼくらは、おもわず「おー」の声をあげた。まさに、「おみごと」の賛辞を送った。
 
「馬鹿なことは止めろ」
 翌日、学校から達しがでた。
「あんなことをするのは工業高校生しかいない」
 という理由で警察から通報があったということだった。警察も実に乱暴な言い方だったが、
 担任の教師が言った。
「そうだ、あんなことをするのは、うちの生徒だけだ」
 たしかに、そうだ。他校生は列車のなかでも教科書を広げてまじめに勉強をしている。
 目的もないのに車内を徘徊したり、外の景色にみとれているのはわが校の生徒だけだった。
 警察も学校も犯人探しをする気はないようだった。
 
 男子校だったから、校内では服装に気遣う必要が無かった。
朝、教室に入るとズボンを脱いで、どろどろに汚れ、よれよれになった体操着と着替えた。
 脱いだズボンは後部の帽子架けに吊った。
 教壇に立てば教室の後壁にズボンがずらっとぶら下がっている。
「あのなー、あの格好はどう見てもきれいだとは言えないぞ」
 担任の教師が苦笑した。
 下校時には、折り目のついた学生ズボンを穿いて通学列車の中を、用事もないのに先頭車両から最後部まで車内を闊歩するやつがいた。学生服の襟はフックをかけずに大きく開いて、帽子のてっぺんには蝋を塗って、てかてかに光らしている。
 なかには、他校生とみれば喧嘩をしたくなる者もいる。年に数人は他校生と暴力さたを起して退学処分を受けていた。そんな生徒が多かったから「工業高校生は質が悪い」という定評となっていた。
 だが、校内では、3年間のうちで喧嘩をしたという噂さえ一度も聞かなかった。いじめもなかった。皆が仲良く、諍いなど全く起きなかった。
 男女共学の高校では、喧嘩や暴力ざたが絶えないということを聞いた。
 それを思うと、喧嘩の種は「女」であるらしかった。