温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

小魚のすり身

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母の言いつけで隣町の魚屋へスリ身を買いに行った。

隣町へ行くには片道3キロほどしか距離はないが、自転車に乗ったままでは越すことのできない坂道を往復しなければならない。

嫌だが行かなければ僕の好きな鍋ものを食べることができない、しぶしぶ自転車を走らせた。

「すり身をください」

 店内で他の客に売った魚を調理しているおばさんに言った。

「金魚しか無いがいいかね」

 金魚とはこの地方の方言で「ヒメチ」のことだ。

「鱗はどうするんですか」

「そのままでいいよ」

「それでいいです」

 支払いを済ませてから、皿に盛りつけた金魚を一皿とって店先に設置してあるスリ身器のところへ持って行った。祖母と何回か買ったことがあるのでやり方は分かっている。

「横に包みがあるからね」

おばさんは調理中の手を休めることなく僕のすることを見ている。

「一度にたくさん入れないでね」

体長5センチほどの金魚を手でつかんで、丸ごと内臓も入ったまま一匹頭から朝顔のような形をした投入口に入れてハンドルを手で回すと、前方の穴からムニュムニュとスリ身が出てきた。

受け皿に盛り上がったスリ身を、ヒノキを薄く剥いで作った経木の包みものに載せて、両端を折り曲げながら包み込んだ。おばさんは僕からそれを受け取り、新聞紙で包装して手首に撒いている輪ゴムを1本とって止めた。

 家へ帰り着くと鍋の用意が出来ていた。

「ヒメチしかなかったで」

アゴ(トビウオ)かイワシが良かったんやけどな、無いならしかたない」

母は包みをほどいて大さじで器用に丸だんごを作って鍋に入れた。

「鱗はどうしたんや」

 母がすり身のだんごを一つ口に入れて吟味していたが舌では分からないらしい。

「丸ごとそのままやで」

「焼いて食べるときも鱗はついたままやしな」

 母が納得し、

「うまいな」

 祖母も始めて食べる金魚のすり身を気に入ったようだ。

 

おなご先生

 

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 女性教師のことを僕らはおなご先生と呼んでいた。これは蔑称ではなく男性教師をおとこ先生と呼ぶながれでおなご先生と呼ぶだけのことであった。

 若い先生は白のブラウスに地味な色のロングスカートを穿き白のズック靴スタイルが多かった。

 

 1954年(昭和29年)に壷井栄の小説「二十四の瞳」が映画化され、数年後、学校で観たときは、大石先生のことを生徒らが「おなご先生」と呼んでいたこともあって、僕らのおなご先生を大石先生と重ね合わせて親しみを持っていた。二十四の瞳は戦争の悲惨さを描いた作品であったが、当時の僕は分教場の大石先生と生徒たちの楽しい学校のシーンだけが心に残り生徒たちが大人になってからのことは見たくなかったという記憶がある。前半と後半のあまりにも違う物語に失望していた。

 およそ漁村には似つかわしくない際立った服装と当時にはまだめずらしい自転車でさっそうと走る大石先生がおてんば先生と言われ、地元のお年寄りに受け入れられなかったように、僕らのおなご先生も、野良仕事で日がな一日土と汗にまみれて生きている村人とはあきらかに違う都会スタイルで、近くに寄るとほのかな香水の匂いがただよった。

 当時にはあった農繁期休校のとき、田畑で手伝いをする生徒を見回る二人のおなご先生は、白のブラウスに派手な日傘をさして回ってきた。

「あんなチャラチャラした格好で」

 と祖母がつぶやいた。農繁期の村の服装にはなじめないものがあった。

 それでも僕はおなご先生を好きだった、おなご先生には都会の美しさがあった。

1年から4年生まではおなご先生が担任になった。

担任はすべての教科を受け持っている。教室での朝礼で「先生おはようございます、みなさんおはようございます」から帰りの「先生さようなら、みなさんさようなら」まで一緒だった。弁当も教室でみんなと食べた。

新学期を迎え新任のおなご先生とはじめて会うときの心のときめきは今でも忘れることのない思い出である。

そして5年生になったとき、おとこ先生が担任と聞いてひどくガッカリした。

 

 

カバン

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ランドセル

 秋祭りで帰省していた3人の叔母さんが、来年4月、小学校へ入学する僕にランドセルを買ってくれることになった。

 僕は叔母さんらに連れられて隣町の文房具店へ行った。

 店のおばさんが出してきた2個のランドセルを前にして「どれがいいか」と叔母さんは僕に選ばせてくれた。

「これがいい」

 僕は即座に決めた。ところがそのランドセルは厚紙を何枚も張り合わせてその上から塗装したものだった。見た目は革のランドセルと見分けがつかない。

 戦時中、革は軍需製品に優先され民需用は制限されていたのである。僕の小学校入学は昭和26年だったが依然として革製品は不足していた。

 叔母さんらは、横にあった豚革のランドセルを買うつもりのようであった。

「これにしなさい、こっちの方が値段が高いし豚革だから長持ちする」

 叔母さんらは一生懸命僕の気持ちを変えようとしたが、僕は頑として聞かなかった。なぜなら、僕が欲しいと言っているランドセルには野球少年の絵が描いてある。

豚革のは明るい茶色一色で絵がない。

「本人が欲しいと言うのを買ってあげたら」

 店のおばさんのとりなしで「こんなことなら連れてくるんじゃなかった」とぼやきながら叔母さんらは金を払った。

 入学するとランドセルに絵の描いてある生徒がほとんどだったが、1人だけY君は豚革のランドセルを持っていた。

 僕のランドセルは2年生になると塗装にひびが入り、剥離していった。3年のときには使えなくなった。仕方ないので長兄が使っていた古い肩掛けカバンをもらった。これは分厚い帆布で作ってあるから頑丈だ。

 6年になったころにはほとんどのランドセルはつぶれていた。豚革のランドセルは依然として形を保ち体格のいいY君の背中に不釣り合いなほど小さくなっていた。

 中学へは帆布製の白い肩掛けカバンで3年間を通した。

 

  学生カバン

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 高校生はほとんどの生徒が合成繊維織物でできた学生カバンであった。内部は2部屋に区分されて使いやすいカバンだった。僕の気に入ったカバンであった。

 対候性もよく3年間持ちこたえた。

 このころになると黒い牛革のカバンを持つ生徒もいた。

 

遊び・パッチ

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 メンコ(面子)のことを僕らはパッチと呼んでいた、関西ではベッタンと呼んでいる。いずれも地面に叩きつける際の音からきている。

 丸形と長方形のものがあり、僕らがよく使っていた丸形にもサイズが各種あって僕のは15センチほどもあった。

「パッチしようか」

 M君はパッチを数枚持っていた。

 僕も家からパッチを持って来た。

 じゃんけんした。僕の負けだ。地面のできるだけ平らな場所を選んでパッチと地面の間に隙間ができないよう注意深く置いた。

 M君は腰をかがめて地面のパッチを見回していたが隙間を見つけたらしく。

「よし、いくぞ」

 右手に持ったパッチを高く上げ勢いよく地面に叩きつけた。

 バシッと音がして僕のが大きく傾き、2,3回よろよろと揺れたが裏返しにならずに地面に戻った。

 次は僕の番だ。隙間を見つけ、そこを目指して力いっぱいパッチを叩き付ける。これはあんがいコツがいるもので隙間の真横に勢いよく叩きつけないと相手のを裏返すことはできない。

 地面には直径50センチほどの円を描いて土俵にしている。ここから叩きだしても勝ちだ。

 バシッ、僕のパッチの縁(ふち)がM君の縁に、みごとに当たった。M君のが土俵から転げでた、僕の勝だ。

「よし、こんどはやっつけるぞ」

 M君は自分のパッチの縁をわずかに折り曲げて厚みを付けた。この部分を僕のパッチに直接当てようとしている。だがこれはむずかしい、うまく当たらないのだ。

バシッ。

 僕のパッチが土俵から飛び出た。

 M君は僕のパッチにみごとに当てたのだ。

   角型は使いかってがあまり良くないので観賞用に収集するだけであった。

 

 

裸足

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 昭和二十六年(一九五一)四月、新しいランドセルを背負いズック靴を履いて村の小学校へ入学した。

 ズック靴は一年で破れ、後はゴム草履かワラ草履で通学した。高学年になると下駄での通学が多かったがいずれも素足である。

 ズック靴のときも素足に履いていた。

 学校に着くと上履きの草履に履き替えた。

 雨降りの日は素足のままゴム長靴を履いていた。

 大学を卒業したばかりの男先生は、二つ離れた駅から紺の背広を着て素足のまま高下駄で通勤していた。下駄も靴と同じように正装用として履くことの出来る履物であった。

 卒業記念の撮影でも先生は背広に下駄姿で写真に収まっている。

 冬は黒足袋(くろたび)を着けて長靴や下駄を履いていた。

 校内で先生は革靴を改造したスリッパを履いていたので底がぶ厚く、パタンパタンと大きな音がしていた。教室にいてこの音が近づいてくると皆が自分の席に着いた。

 当時はハンカチをポケットに入れる概念はなく、先生の腰の右後方ベルトに挟んだ手ぬぐいが長く垂れさがっていた。

 上級生になった男児は先生と同じように下駄で通学し、手ぬぐいを腰の後ろにぶら下げる者もいたが足が短いのだから似合わない、これは大人のスタイルであった。

 運動場で体操をするときは先生も生徒と同じ裸足になり、教室に上がるときは玄関脇の洗い場で足を洗った。

 体育館でも裸足だ。

 運動会も全員が裸足だった。

 家では真冬でも裸足だった。

 外に出るとき冷たい雨や雪の日はゴム長靴を履いたが、それ以外は黒足袋を着けて草履や下駄で遊んだ。

 夏、川の中で遊ぶときも草履を脱いで裸足で走り回った。それでも痛くもないしケガをすることもなかった。足の裏は草履を履いているごとく強靭だった。

 ただし、夏に田んぼへ行くときや山に入るには毒蛇のマムシに噛まれる危険があったので長靴を必ず履いて行った。田んぼへは畦道に長靴を置いて裸足で入った。

ライスカレー

 油で炒めた玉ねぎ、にんじん、ジャガイモを鍋でじっくり煮て、野菜それぞれの形が崩れてきたものにカレー粉を入れ、さらに水で溶いたカタクリ粉でトロミを付けて出来上がりだ。

 これがわが家のライスカレーだった。

 肉類は隣町まで峠を越えて買いに行かなければならないので入れない。

 現在のような固形のカレールーは売っていないからコクも粘りも少ない、シャブシャブのカレーだったが家族全員が好きだった。

 冬の寒い夜に、サラサラっとかき込む熱いカレーは体も温まった。

 

 わが家ではライスカレーと言っているのに世間ではカレーライスと呼ぶ。この疑問が解けたのは僕が大人になってからである。

 海軍はカレーライスと呼び、陸軍はライスカレーと呼んでいた。

 僕の父親は陸軍だった。

 

 

ヤギミルク

 中学生のころ、近所に来たお嫁さんの母乳が出ないため、ヤギの乳で赤ちゃんを育てているということを聞いた。

「ヤギの乳?飲めるんか」

 ヤギを飼っている同級生のH君に聞いた。

「牛乳より栄養があるんだぜ、俺の家(うち)でも乳を飲むために飼っているんや」

 意外だった。ヤギは犬や猫のようにかわいいから飼っているとばかり思っていたのに、乳を飲むためだったとは。

「粉ミルクがあるやろに」

「母乳が出ない人は昔からヤギの乳と甘がゆ(甘酒)を飲ませているんやで、粉ミルクなんか飲ませられるか危ないよ」

 当時は森永砒素ミルク事件が起きたばかりである。毒物の混入した粉ミルクを飲んだ赤ちゃんが大勢亡くなっていた。

「ヤギの乳の方が安全だ、ただ、ちょっと青臭いがな」

 H君も飲んだことがあるらしい。

「今度、持ってきてやろうか」

「いや、いらん」

 僕は飲んでみたいとも思わなかった、やはり牛乳の方がましだと思った。

遊び・ビー玉

「ビー玉」のことを僕らは「ラムネ」と言った。元来、清涼飲料水ラムネの栓として作られたもののB級品で栓に使えないものだから「ラムネ」と言うのが正しいと思っていた。

 ビー玉は祭りの日の出店で買った。

  少年らはビー玉でよく遊んだ。

 庭の土面に直径5センチほどで深さは3センチぐらいの穴(一の穴)を掘って、5メートル手前から指で弾き転がして穴に入れた。

 指で弾くと右に逸れたり左に逸れたり短かったりとなかなか難しい。

 一の穴に入ると右手2メートルの二の穴に入れ、そこから一の穴を狙って戻し、今度は左手2メートル先の三の穴に入れる。また一の穴へ戻し、最後に6、7メートル先の天の穴に入れて上がりだ。

 これで勝てば一位になった者は他の者から1個ずつビー玉を取り上げた。

 

 10メートル先に目印の棒を立て、僕らは立ったままビー玉を放ち、棒に一番近いところに寄せたものが勝ちで他者のビー玉を取り上げた。

 単純な遊びだったが取り上げたものは自分の物になるから真剣だ。

 ある日の夕方、遊びから帰った次兄が新しいきれいなビー玉を両手いっぱいになるほど持ち帰った。

「どうだ、こんなに取り上げたんやで」

 得意満面で自慢した。

 外はもう日暮れに近かくなったころ、僕の家へ上がる石段の中ほどで小学三年のK君が立っていた。不審に思った母が「なにか用事か」と聞いたがもじもじしていて何も言わない。

「どうしたのかな」

 と僕ら兄弟に聞いた、そのとき次兄が握りこぶしぐらいの袋を持って外に出た。中にはビー玉が入っている。

「あんな子から取り上げたのか」

 僕らは唖然とした。

 中学生の次兄が小学生と競技してビー玉を取り上げたのだ。

 K君は母親から「返してもらいなさい」と怒られたようだ。

 次兄は手ぶらで戻った、すべて返したのだ。

「勝負は厳しんやで」

 唖然としている僕らに次兄は照れ隠しの言葉を放った。 

 

 負けて取られたら無くなってしまうから僕は勝負はしなかった。それでなくても手元には5、6個しか持っていないのだ。僕と常に遊んでいる友だちもそんな程度だった。

勝った者は最後にそれぞれに返した。            

真っ赤な秋

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 まっかだな

 まっかだな

 つたの葉っぱが真っ赤だな

 もみじの葉っぱもまっかだな

 沈む夕日に照らされて 

 まっかなほっぺたの 君と僕

 まっかな秋にかこまれている

   童謡:真っ赤な秋

 

雪平鍋

 

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 現在の雪平鍋は蓋の無い片手鍋を言うようであるが、僕の幼少期は蓋の付いた土鍋の一種であったように思う。

 分厚い土鍋であったため、七輪の炭火でコトコトと長時間かけて煮たり煎じたりするものに適し、家族が病気になったとき薬草を煎じた。

 風をひけばキンカンと氷砂糖で喉薬や重湯(おもゆ)、白がゆを作ってくれた。

 現在ではあまり見なくなった鍋だ。

 

5勺の米

 勺(しゃく)は尺貫法の体積の単位である。1合(ごう)=約180ミリリットル)の10分の1が1勺になる。だから1合の半分が5勺だ。ちなみに「わんかっぷ大関」は1合らしい。

 まわりくどい説明をしてしまったが、僕が小中学校の修学旅行のとき1人1泊5勺ずつ白米を持参して旅館に渡した。6年のときと中2のときは1泊だったから白米5勺を自家製の木綿袋1袋、中3のときは旅館3泊だったから3袋を持って行った。要するに自分の食いぶちは自分で持参するというのが当時であった。

 旅行の前日、母は日本手ぬぐいで米を入れる袋を縫ってくれた。

 心躍らせて出来上がるのを待った。

僕らは1人1合は平気で食べていた元気ざかりだ、5勺では足りないはずだが旅館では腹いっぱい食べることができた。

 ただし、米を測るマス(升)は1合マスが最少単位で勺マスは無かったから母はいつの場合も1合を入れていた、こういう人も多かったかも。

 高校を卒業して京都へ就職したとき、米穀通帳を会社へ提出したが、いつのまにか必要なくなっていた。

紅葉のころ

 

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 生まれたときから住んでいる僕にとって春には桜が咲き、秋に山が紅葉するのは当たり前のことであって花や紅葉を愛でるという気は起きなかった。

 だが、年によっては土手に咲き誇った桜を、黄色に染まった山を見て「きれいだな」と思うことがあった。

 そんなとき僕は水彩画を描いた。

 

 

ヤキメシと茶わん蒸し

 高校でバスケット部に入っている長兄が遠征試合から帰った数日後、

「松江で焼き飯を食べたらうまかった」と初めて食べたヤキメシなるものをわが家でも作ってみることにした。

「何が入っていたか」

「玉ネギ、ニンジンにハムはあったな」

 長兄は具材を思い出している。

 ハムは食べたことがないし値段も高いのでソーセージを買ってきた。

 母と長兄が台所で相談しながらフライパンいっぱいに作ったヤキメシは、母のアイデアで入れたネギが多いため緑色の目立つものだったが、出来栄えは上々だった。

「初めてにしては上手くできたな」 

 母と長兄も満足そうに食べていた。

 以後、わが家のメニューに組み込まれた。

 

 またある日、長兄は松江の旅館で食べた茶碗蒸しの話をした。作り方を女中さんに聞いてきたらしい。

「卵なら沢山あるよな」

 ニワトリを飼っているから卵はある。

 長兄と台所に立った母は、かまどに火を熾し、水を入れた羽釜の上にセイロ(蒸籠)を載せた。

「器はないから、これにするか」

 と言って瀬戸物の汁茶碗を出し、長兄に聞きながら細かく切った具材と卵の溶いたのを入れた。

 セイロから出る湯気が天井まで上がっている。

「もういいだろう」

 母がセイロを下した。

 初めてにしては上手くできた。

「うん、この味だ」

 長兄も満足している。

「本物はイチョウの実が入っていたで」

 長兄が細かく切ったカマボコを箸でつまみながら言った。

 ギンナンなら秋に取っておけばいくらでもある。と思いながら僕も食べた。

なんでこんな簡単にできるのに今まで作らなかったのかなと思ったが、外食することのほとんどない母は茶碗蒸しを知らなかったのだ。

 

ラクダシャツ

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 冬になるとラクダ色の分厚い下着を着ていた。

 僕らはラクダシャツと言っていたが、実態はラクダの毛から造ったシャツをラクダシャツと言い高価であったため、僕らの着ていたのは表面がラクダ色、裏は白色の綿シャツだった。それでも分厚く裏はネル(表面が起毛されている生地)になっているので暖かく肌触りも良かった。特に新品のおろしたてのものは、どんなに寒い日でも寒さを感じない暖かさがあった。