温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

食生活

 3反の田んぼと少しばかりの畑があったから、自給自足で家族5人が食べていくうえでの不自由はまったくなかった。

「都会ではおかゆやすいとんしか食べるものがない、皆が腹を空(す)かしている。百姓は食うものに困ることはない、百姓でなければだめだ」
 祖母の口癖だった。当時は日本全国が戦後の飢餓(きが)に陥(おちい)っていた時代だった。それでもぼくの家では食べ物が潤沢にあった。
 昔から、1反は「1人の大人が食べる1年分の米を生産できる広さ」だといわれているが、3反で一家5人が十分に食べることができ、さらに3俵(180キロ)ほどの米を農協に売っていた。
 ある年、
「今年の収穫は21俵あったなー」
 と長兄が母と話していた、豊作を喜ぶ会話だった。
 農協では買い取る米の現物検査をして等級をつけていた。
「わが家の米は日本一美味(うま)い」
 と思っているのに判定は、いつも二等米だった。
「なんでや、こんなに美味(うま)いのに」
 ぼくが口をとんがらかした。
「東北地方の米は、もっとうまいらしいぞ」
 長兄が米の等級は産地によって決まると教えてくれた。
「この辺りの米は、いくら美味(うま)くても二等米だ」
 兄ちゃんが言った。

 朝食は、ごはんと味噌汁に漬物と決まっていた。
 朝5時に起床した母がかまどで一日分のごはんを炊いた。
「おこげ」が祖母の大好物だったから、毎日「おこげ」がないと機嫌が悪い。炊き上がった釜の蓋を上げて、もうもうと立ち上がる湯気のなかを覗(のぞ)き「こげがない」と不平を言う。だから母はこげをつくることに気をつかっていた。
 祖母は残飯ができると、天日干しにして、さらに焙烙(ほうろく)という素焼きなべで煎ったものを菓子として食べていた。
 ときどき母が「おこげのおにぎり」をつくってくれた。塩の利(き)いた熱い「おにぎり」は香ばしくて大好物だった。毎日でも食べたいが母の気が向いたときしか作ってくれなかった。

 鶏(ニワトリ)を飼っていたから卵は食べたいときに好きなだけ食べることができる。ぼくは炊きたてのごはんに生卵をかけ、さらに味噌汁をぶっかけて食べるのが好きだった。世間では「にゃんこめし」といって嫌ったが、ぼくの家ではあたりまえのように皆が好んだ。
 もともとぼくの地域では、ごはんに汁をぶっかける「汁かけごはん」を朝食に食べる風習があり、これは客にも出していたから、行儀の悪い食べ方ではなかった。
 ごはんは、冬にはおひつに入れてコタツの布団(ふとん)に潜り込ませておいた。こうしておくと晩御飯まで温かい。夏には竹で編んだ吊り篭に入れて風通しのいい、上座敷の鴨居(かもい)にぶら下げた。

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 高校生のころ、学校から帰ると腹が減って困るときがあった。こんなときには庭の畑に成っているキュウリを採って、厚めの輪切りにして塩水で下味をつけたものに醤油をかけて食べた。「ポリポリ」という歯ごたえがたまらなく好きだった。
 ときには、ごはんに味噌(みそ)をつけて食べた。
 毎年、12月になると多量の大根を漬けた。収穫した大根は家の前を流れている小川で丁寧に洗った。冬の流水は身を切るように痛い、それでも素手で洗わなければならない、心臓まで痛くなる冷たさに悲鳴をあげながらも我慢して洗っていると、やがて両手に冷たさを感じなくなった。あとは、もうなんの苦痛もない。粉雪の舞う小川でせっせと洗っていった。
 洗い終わった大根は10日ほど陰干しして木の桶に漬ける。このとき祖母は店で買った黄色の着色料を入れた。できあがったタクアンは店で売っているものと同じ真っ黄色になった。
 夏になると、キュウリ、ナス、瓜(ウリ)など旬の野菜を一夜漬けにした。
 夏野菜の中でも瓜の粕(かす)漬けはわが家の自慢だった。
 縦に二つ割にした瓜から種を取り除いて、塩を船盛り状に載せ、桶で3日ほど漬ける。4日目から3日間瓜を陰干してから酒粕に漬けて1ヵ月置く、さらに新しい酒粕に漬けなおして1ヵ月置くと出来上がりだ。奈良漬とは違って甘味はないが、ポリポリと歯切れもよく美味(うま)い。漬物の王様だ。
 瓜の粕漬けは、わが家だけでなく他の家庭でも作っていたらしく、瓜が採れる8月になると酒粕が売り切れて手に入らないということもあった。
 現在では、キュウリ、ナス、大根など、ほとんどの野菜が1年中、店舗に並んでいるから、旬の感覚と季節感が失われてしまったが、当時は旬のものしか食べることができなかった。夏が近付くと「そろそろ、キュウリがでるぞ、トマトが食えるぞ」と楽しみにしていた。
 トマトは、我が家では野菜ではなく果物として食べていたから食卓に上がることはなかった。
 初冬には大根や白菜、高菜などがでてくる。旬の野菜を旬の時期に食べる。これが楽しみであり、待ち遠しかった。 
週に1、2回は、毎朝のように歩いて来る行商のおばさんから買った魚を食べた。近海で獲れるものばかりだから、アジ、サバ、イワシがほとんどだった。刺身と言えば、ワカナ(ブリの若年もの)か烏賊(イカ)だけだった。ただし、ワカナの刺身を食べるのは秋祭りの日だけ。そのころは、アジ、サバ、イワシなどの青物(あおもの)は刺身にしなかった。特に「サバは人間の胃を食いちぎる虫を持っているから命を失う」と言われていた。秋には祭りのサバ寿司を食べて死ぬ人もあった。だがサバ寿司は祭り料理に欠かせないものだったからわが家でも作っていた。
 また、秋は飛魚(トビウオ)や秋刀魚(サンマ)が獲れた。飛魚は「アゴ」といっていた。淡白な味の魚だったから味噌汁の具とするのが一番美味(おい)しかった。

 冬に来客があると「魚すき」をつくった。30センチほどもある黒鯛(メジナ)をまるごと1匹すきやき鍋にいれて、周(まわ)りにゴボウや大根などの野菜を入れる。
お客さんは、尾頭付の魚がそのまま横たわっているのに驚き舌鼓を打っていた。

 牛肉は、年に数回しか食べなかった。そのかわり鯨のすきやきをよく食べた。牛肉より鯨肉が安価だったからだ。
 鯨肉は黒い皮のついた脂身だった。
 豚肉は食べた記憶がない。

 食器は1日1回しか洗わないので、ごはんを食べたあと、茶碗にお茶を淹(い)れてすすぎながら飲み、あとは円卓(ちゃぶだい)に伏せて置いた。
 箸(はし)は自分の箸箱に入れた。

 醤油
「これと同じのを下さい」
 母に教えられたとおりに空(から)の一升瓶を店のおじさんに渡した。
 店内の棚にはいろいろな銘柄の醤油が並んでいる。瓶に貼(は)ってあるラベルがきれいだ。
―どれをくれるかな。
 ぼくの期待を裏切るように、おじさんは空(から)瓶を持って外に出た。
 しばらくして店の横から持ってきた醤油瓶の埃(ほこり)を布巾(ふきん)で拭き取りながらぼくに渡した。外に木箱入りのまま野ざらしになっていたものだ。
「なんでだろう」
 母に聞いた。
「店内に並んでいるのは値段の高いものだけだ。うちが買うのは一番安い80円の醤油だから店内には置いてない」
「そんならもう少し高いのを買えばいいのに」
「そんな余裕はない」
 母の、いつもの言いぐさだった。
 いちどだけ120円のを買ったことがあった。長兄が食べてみたいと言ったから祖母が同意したのだ。
 店のおじさんは店内に並んでいるうちの1本を取ってくれた。
「どうだ、うちはこんな高価(たか)い醤油を使っているんだぞ」
 たまたま居合わせた近所のおじさんに自慢したくなるような誇らしい気分で受け取った。
「どう、うまい?」
 その夜、漬物にかけた醤油を皆で吟味した。
味は「変わらないなー」ということだった。
結局、元の一番安い醤油に戻った。

「俺の家では醤油を造っているんだぞ」
 K君が家の裏にある小屋へぼくを連れて行った。一畳ほどの小さな小屋のなかに樽が並んでいた。
「これがこおこ(たくあん)、これが味噌だ、と大きな樽を指差しながら奥へ入っていって、一番奥の樽にかぶせてある布をめくった。プーンと醤油の匂いが漂った。
ところが、樽の縁(ふち)全体に体長3ミリほどの白い虫がいっぱい動いていた。
「何、これ」
 見れば蛆虫(うじむし)だ、気持ち悪い。
「これはサダだよ、醤油から湧いて醤油しか食べてないからきれいなもんだよ」
 K君は樽に布をかぶせながら平然と言った。

 ソース
 現在、市販されているウスターソースは「熟成ソース」といわれているものだが、当時は熟成品はなく、色も緑色をしていた。
 辛くて幼児の舌では食べることができなかった。10歳をすぎて、やっと食べることができるようになった。春キャベツの油いためにソースをかけて食べると、ぴりっとした辛さとともにソースの香りが口いっぱいに広がり、言葉では表現できないほど美味(うま)かった。おとなになった気分になった。
 

 空(から)になった一升瓶を店のおじさんに渡すと、おじさんは「酢酸と書いてある大きなガラス瓶に50センチほどのゴムホースを押し込んだ。そしてホースの一方を口に含んで、おもむろに吸出した。吸い上げられた酢が、おじさんの口に入る直前に銜(くわ)えていた側(がわ)のホース出口を口から放して一升瓶に差し込んだ。まさに絶妙なタイミングだ。
 鼻をくすぐる匂いを発散させながら酢が一升瓶に移ってきた。
 おじさんは一升瓶に溜まっていく酢をじっと見つめながら横を向いて「ぺっぺ」と口の中に入ってしまった酢をはきだした。

 味噌(みそ)
 冬、セイロで蒸した大豆を臼(うす)と杵(きね)でつぶして、塩と麹(こうじ)を混ぜながら樽に入れた。
 こうしておけば1ヵ月ほどで味噌になった。
 わが家特製だ。
 学校から腹を空かして帰ったとき、ごはんに付けて食べた。


 マヨネーズ
 夏、帰省してきた叔母さんらが、どんぶりに入れた卵の黄身に少量の食用油を入れて、額(ひたい)に汗をかきながら箸でかき混ぜていたが、
「疲れた、手伝ってくれる、右回りしか回したらだめだよ、泡が立つからね」
「よっしゃ」
 ぼくもやってみたいと思っていたのでどんぶりを受け取った。
 叔母さんに教えられたとおりに長い時間かかって、フーフーと荒い息をしながら箸をかきまわした。叔母さんは酢を少しだけ加えた。そのうち乳濁色のペースト状になった、マヨネーズだ。
 蒸(ふ)かしたジャガイモをつぶしてキュウリとリンゴをいれて、今できたばかりのマヨネーズとともにかき混ぜた、サラダの出来上がりだ。
 リンゴの味と歯ざわりがなんともいえぬほど好きだった。
 当時は生野菜を食べる習慣がなかったのでマヨネーズは買ったこともなかった。

おばあちゃん

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 いつもにこにこと微笑を浮かべていたが大きな声をたてて笑うことはなく、ぼくの記憶の中におばあちゃんの高笑いは聞いたことがなかった。
「他人の物を盗ってはいけない、もしそのようなことをしたら、そこの石段を上がらせない」
 縁側で夕涼みしながら、屋敷への階段を指さした。
「他人の物を欲しがってもだめだ、『あげる』と言えば『いりません』と断れ」
 遠慮は美徳だと思っているおばあちゃんは口癖のようにぼくに言い聞かせた。
 このように諫めは常に言っていたが決して怒らず、おばあちゃんに怒られたことは一度もなかった。
 歌は上手だったがぼくや家族の前では歌わない、そればかりか鼻歌さえ聞いたことはなかった。
 おばあちゃんが歌うのを聞いたのは、ただいちど、ぼくが5歳のときだった。近所の家にお嫁さんが来るというので隣組(となりぐみ)総出で手伝いをしていた。
 おばあちゃんも母も余所(よそ)行きの着物に割烹着をつけて朝早くから料理の手伝いをしている。村中の子供たちも朝からその家へ集まって遊びながらお嫁さんの到着を待っていた。
 やがて、はるか遠くの道を一列に並んだ花嫁行列がゆっくりと歩きながらこちらに向かって来た。
 その行列から大きな声で歌っているのが聞えた。「蝶(ちょう)よ花よと育てた娘・・・」という
『長持唄(ながもちうた)』であるらしい。こちらも受け唄を歌わねばならない。
「さあ大変だ、だれか歌えるものはいないか」と皆があわてていた。
 そのとき、、割烹着を脱ぎながらおばあちゃんが台所から出てきて『長持ち唄』を歌いだした。きれいな大きな声だった。子供たちも大人も、面白くなったぞと唄の掛(か)け合いを聞いていた。花嫁の一団が一節歌うと、おばあちゃんが返し歌を一節歌う。というやりとりだ。
 子供心に「いいなー」と聞き入った。
 お互いに唄の掛け合いを行なうなか花嫁はおごそかに到着し、縁側から座敷へ上がっていった。
 障子が閉められた。
「障子に穴を開けてもいいよ」
 おばあちゃんが子供たちに言ったが誰一人(だれひとり)として張り替えたばかりの障子に穴を開ける勇気のあるものはいない。
 ぼくもやっと歩きはじめた幼いころ障子に指を突っ込むと、反対側からおばあちゃんがぼくの指にそっと針を刺したというほどの躾(しつけ)をされてきていた。ましてや他家(よそ)の障子に穴を開けるなんて「とんでもない」ことなのだ。するとおばあちゃんが勢(いきお)いよく人差し指を突っ込んで穴を開けた。指につばをつけて紙を湿らせば音もしないのに、それさえしない。唖然としている子供たちに「これが花嫁歓迎の形として昔から行なわれてきた風習なのだと教えてくれた。
 子供たちもブスッブスッと勢いよく音をたて穴を開けてそこから中を覗(のぞ)いた。
 閉めきった障子に開いた無数の穴から数十個の眼が注目するのも気付かないかのように座敷の人々はすましていた。
 披露宴が始まって、仲人さんからおばあちゃんが座敷に呼ばれ、さきほどの『長持ち唄』に感激したと言われて盃を受けた。
 おばあちゃん一世一代の晴れ舞台だった。
「宴会は3日3晩続く」と聞き、「3日間も寝ないのだろうか」ぼくは不思議に思った。
 翌日も宴会は続いていたが、もはや覗(のぞ)いて見ようという気も起きなかった。
 おばあちゃんと母は相変らず手伝いに行っている。
 3日目、おばあちゃんら手伝いの人たちは、客として呼ばれていった。昨日までは村の人たちが、婚礼家族とそのお客さんの食事を賄(まかな)ってきたが、今日はおばあちゃんらが接待を受けるらしい。花嫁も婚家の一員として接待にまわるのだという。

 同じ年、ぼくの親戚の近所で婚礼があった。
 花嫁も到着し、宴たけなわのとき村の青年団がお地蔵さんを担いで祝いに来た。この地方に昔から伝わる風習だ。青年団の若い衆は庭に整列して祝い唄を歌った。
声をそろえて威勢よく歌った。一節歌って返し歌を待った。ところがこのとき座敷側には歌える人がいなかった。返し歌が聞えない。若い衆は、すでに酔っ払っていた。返し歌を歌えと言わんばかりに再び歌った。
座敷はしーんとしていた。
「なんや、お通夜みたいだの」
 泥酔している青年の1人が言った。
「なに、もういちど言ってみろ」
 花嫁の父が膳をひっくり返して庭へ飛び下りようとした。
 花嫁の父は住み込みの青年5、6人を自宅に住まわせている土木建設業のおやじさんだった。気は荒くへんくつおやじで通っていた。
「まあ、まあ」
 仲人が必死になって制止した。
「お前が悪い」
 花嫁の父は仲人の頭を繰り返し殴った。だが、仲人はじっと両手をついて叩かれるままになっていた。仲人が我慢をして座を潰さなかったから破談にならずに済んだということだった。

 この話には余談がある。おばあちゃんが仲人をしようとしたのだ。
ただし、おばあちゃんには連れ合いがいないので正式な仲人は誰かに頼むつもりだったようである。

 花嫁の父はぼくの家と同じ村の人だ、土木建設業も順調で羽振りもいい。
「うちみたいな貧乏人を相手にするような人ではない、こちらが恥をかくだけだ」
と母が止めるのを、
「貧乏は時の運だ、500年も続いている家だ、貧乏のときだってある」
 家柄に勝るものは無いと思い込んでいるおばあちゃんは母の言うことを無視した。
「娘は、まだ結婚したくないと言っている」
 おやじさんはおばあちゃんの仲人を体(てい)よく断ってきた。その裏で新たな仲人を立てて成立した婚礼だったのだ。
「わしなら、返し唄も歌ってやるのに」
 おばあちゃんが得たりとばかりの顔をした。
 叩(たた)かれたのがおばあちゃんなら我慢できなかっただろう、婚礼も潰(つぶ)してしまったであろうことは想像に難くない。


 返事は「はい」と言え

 「昔な、大きな池に龍がいたとさ。龍は池で千年を越さないと天に昇ることができないが、その龍は千年を超えたので天に昇ることになったんだとさ。そしたらな、千年もの間一緒に遊んでいた亀さんが、いちどでいいから天に昇ってみたいと龍に言ったとさ」
「よし連れて行ってやるから、わしのシッポに噛みついていろよ」
 と言うことで亀さんは龍のシッポに噛みついて天に昇りだした。
 龍はものすごい勢いで天に昇っていたとさ。
「亀さん、落ちないようにしっかり銜(くわ)えているんだぞ」
 龍が言った。
「亀さんは『うん』と返事をしたとたん真っ逆さまに落ちてしまったとさ。
『はい』と言えば落ちなかったものを『うん』と言ったばかりに落ちてしまったということさ」
 ぼくが5歳のころから小学校入学当時、祖母に聞かされた話だった。
「そんなことない『はい』と言えば口が開くから落ちるけど『うん』なら口が開かない、だから落ちない」
 ぼくは俄然と反論した。
「いいや、『うん』と言ったから落ちたんだ」
 祖母も決して負けてはいなかった。
 納得のいかない話だった。祖母は「返事は『はい』と、はっきり言え」と言いたいのだが、龍の話をするからつじつまが合わなくなったのだった。 

 

 待つことの嫌いなおばあちゃん

 隣町へ買い物に行くため玄関を出たおばあちゃんが縁側に腰掛けた、もうバスが来る時間だ。
停留所で待てばいいのに、と思うのはぼくだ。おばあちゃんはじっと村境の方を見つめている。
「来た」
おばあちゃんが立ち上がって歩き出した。バス停までは200メートルほどもある。一生懸命小走りに歩いているがバスの方が速い、ここからはバス停は見えないが、バスが先に着いたはずだ。
ー乗り遅れたな。
 ぼくの心配をよそにおばあちゃんはバスに間に合ったようだ。懸命に歩いているおばあちゃんを見た運転手が停留所で待ってくれたのだ。

「追い立てるようで言いにくいけど、もう出発しないと汽車に間に合いませんよ」
 親戚のおばさんが時間を気にした。
 祭りに招待されたおばあちゃんとぼくが帰る日、汽車に乗る駅まで1時間もかかるのにおばあちゃんはのんびりと話し込んでいる。
「もう1泊してください」
「いや、もう帰るけ」
 おばあちゃんはやっと腰を上げた。
 おばさんに見送られて家を出たものの、道で出会う人と丁寧なあいさつを交わしなかなか進まない。この村出身だから顔見知りの人は多いのだ。
「汽車に乗り遅れるよ」
 この汽車に乗り遅れたら次の汽車まで2時間は待たねばならない。
 なんどもせかして、やっと駅の見える場所まで出たとき、ぼくらの乗る汽車が駅に着いているのが見えた。
「おばあちゃん乗り遅れるよ」
「いや、ここで対向列車を待つから心配ない」
 おばあちゃんは悠然と歩いている。
 駅の近くまで来たとき「ボー」と発車の汽笛が鳴った。対向列車はすでに通過していたのだった。
「走れ」
 ぼくらは大慌てで駅舎を通らず材木置き場を横切って動き始めた汽車に取り付いた。ホームとは反対側から乗る乗降口はずいぶん高い位置にある。ぼく1人では乗り込むことのできない高さだ。
おばあちゃんがぼくを押し上げると着物の裾をぱっとはだけて乗り込んできた。
「どこまで行きんさるかね」
 駅舎をでた駅員が大声で聞いてきた。
「福光ですけ」
 おばあちゃんが大声で返事した。すでに汽車は加速していた。
「浅利から乗りましたけ」
 福光駅でおばあちゃんが汽車賃を払おうとすると、
「もう少し余裕をもって乗ってくださいよ」
 と駅員から言われてしまった。乗車した浅利駅から連絡が入っていたのだ。
 おばあちゃんはちょっとだけ赤い顔をしてうなずいた。

 

 何を聞いても「知らない」「分からん」とは決して言わないおばあちゃん。

 秋、納戸で寝ていると背戸からジージーと集団で鳴く虫の声がぼくをいらいらさせた。
「うるさいな、おばあちゃんあの虫はなんだ」
 耳障りな声にうんざりして聞いた。
「ミミズだよ」
 おばあちゃんが答えた。
 大人になって分かったことであるが、ケラという昆虫の鳴き声だった。

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 2、3センチほどのコオロギに似た体つきをしているが両手はモグラのような土かきを持っていて砂場に穴を掘って住んでいた。
 オスは砂場を共鳴室として使って鳴き声を大きく響かせるからぼくら人間にとっては眠りを妨げるうるさい虫であった。
 コオロギと同じように簡単につかまえることができたので、手の平に載せると両手で土搔きで穴を掘ろうとする。その力は体長に似ずかなり強かった。
地域によってはオケラともいう。オケラと言えば俗に「一文無し」のことであるが、なぜこのような俗語ができたのかは分からない。ケラにとっては心外だろう。

 

 荒城の月

 中学1年のとき、「荒城の月」について、
「どういった情景を歌ったものか調べてきなさい」
 と音楽の宿題がでた。
 家でおばあちゃんに聞くと、
「敵に攻められていよいよ明日は落城するという夜、最後の酒盛りをしたときの歌だ」
 と教えてくれた。ぼくもそうだと思った。
 次の音楽の時間、ぼくは自信をもって発表した。
「ちがうよ」
 先生はそっけなかった。
 その夜、
「おばあちゃんが教えてくれた情景は間違っていた」
 口をとんがらすぼくに、
「先生が間違っているんじゃ」
 おばあちゃんは言い切った。

 

 真綿(まわた)

 ある年の夏、おばあちゃんは隣村の養蚕農家から数十匹の蚕(かいこ)をもらってきた。おばあちゃんは何も言わなかったが、若いころその家へ仕事に行っていたらしく手慣れたようすで、納屋の裏に一本だけ植えてある桑の木から枝ごと葉を採ってきて古いモロブタに入れている蚕の上に置いた。
しばらくすると蚕は桑の葉に取り付いて一生懸命に食べ始めた。
耳を澄ますと「バリバリ」と聞こえている。すごい食欲だ、いつ見ても食べている。
 おばあちゃんは毎朝、露の付いた桑の葉と入れ替えている。
 蚕は日ごとに大きくなり数週間もすると口から糸を出しながら自分の体を包み隠していった。
 数日後、桑の枝のあちこちにできた楕円形の白い繭を集めて、熱湯の中で解きながら薄く布状に広げた。真綿のできあがりだ。

 木綿で楕円形の座布団のような中身を作り、これを真綿で包(くる)んだ。
 これに紐を付けて背当てができた。カッパの甲羅のような恰好をした真綿の背当ては見栄えは悪かったが意外と温かく、寒い日には綿入れ袢纏の上に着けていた。
 ある朝、「今日は寒いからこれ着けて行きや」と言って、薄く伸ばして広げた真綿を背中の肌着の間に入れてくれた。
「こんな薄いもん、効き目ないよ」
 ぼくは信じていなかったが意外に温かく、その日は寒さをまったく感じなかった。

 昭和19年7月、生後60日の僕を残して父は出征した。

「お母さん、この子を頼みますよ」
 村中の人が見送りに来ている面前で、屋敷の階段を下の道まで下りては上って祖母に頼んだ。7回も上り下りを繰り返した。
「村のみなさんが見送りにきてくださっているのに恥ずかしいことをするな。ちゃんと育てるから安心して行きなさい」
 ついに、祖母が、きつく言ったので、家を離れていった。
 前の日、「日本が日本国内を守るようになっては終(しま)いだ、日本は負ける」と言って、自分の持ち物すべてを焼却した。もう、家へは帰ることができないと覚悟を決めての出征だった。
 僕が父のことを聞くと、いつも祖母はこの話をもちだした。
 カメラを持っていたから、写真はあったが自分が被写体となっているものはすべて焼却した。ただ1枚祖母が隠していたものが仏壇に飾ってある馬上のりりしい姿だけであった。
 僕は父の顔を知らない。母に父のことを聞いても、「半年しか一緒に暮らしていないから」と言って多くを語らない。母は僕の父が好きではなかったと僕は思った。
 母は23歳のとき、僕の父の兄と結婚し長兄と次兄が生まれたが8年後夫が病死したため僕の父と再婚した。
 母は晩年、それまで白木のままであった僕の父の位牌と兄たちの父の位牌を漆塗りの本格的な物に作り替えていた。
 僕の父の戒名は中央に書かれ単独の位牌になっていたが、前夫のは位牌の右端に書き、左側は空けてあった。母の死後、母の戒名を書き加えるためだった。母は前夫の妻として納まりたかったのだ。
 母が僕に初めて見せた心の内だった。だが、作成したのは数年前だったのに、自分が死ぬまで長兄のもとに置いていた。
 
 仏壇の中に置いてある父の馬上姿から砲兵隊だったと思っていた。下士官で馬に乗れるのは砲兵隊しかいないはずだ。
「この村の人は、ほとんどが浜田連隊に召集されるのに、お父さんは、どういうわけか広島連隊へ行っていた」
「帰って来る度に階級が上がっていた」
 祖母が言う。
「連隊の行軍演習でこの村へ来たことがある。そのときはこの村の小中学校の生徒全員で村境まで迎えに行って『ばんざい』をした。ここの地区では、村人全員で出迎えた。ここで休憩となって隊長さんら偉い人には、わが家へ来てもらい、兵隊さんたちは道近くの家で、朝から搗いたあん餅と赤飯のおにぎりを配った。皆がとても喜んでくれて涙を流す兵隊さんもいた。
曹長、人気が有るんやな』と隊長さんが言っていた」
 祖母が話す。
「君のお父さんは偉かったよ。軍隊の行軍でこの村を通ったとき、君のお父さんは馬に乗ってかっこよかった」
 僕が10歳のとき、同級生のお父さんが話してくれた。

 戦後、父の遺骨が帰ってきた。葬式も済み、墓地に埋葬するとき、白い布で包まれた木箱の中が気になった。
「本当に遺骨がはいっているのだろうか」
箱を手で持って振ると、コトコトと音がする。
「箱の中は見ないように」と国からの達しを無視して中を見ると、姓名を書いた木片が1個入っているだけだった。
遺骨はなかった。

 終戦後50年の年の8月、帰省していた僕の家へ老人が訪ねてきた。
「自分は広島の連隊で同じ部屋に入っていた」
 田舎には終戦の月になると、いろんな人がやってくる。その多くは、遺族をねらった商売人だった。母は、また、その類だろうと軽く聞き流しているようだ。あわてて応対にでた僕を見ると、
「あなたがお子さんですか、お父さんはいつも生まれたばかりの息子の話をしていた」
 感慨深そうに僕を見つめる老人の目には涙が浮かんでいた。
 座敷に上がってもらうと、老人は仏壇に手を合わせたあと僕に向かって座った。
「父の所属はどこだったのでしょうか」
「今でいう飛行機の整備係だった」
「砲兵だとばかり思っていました」
支那事変では砲兵だったと言っていました。広島では整備でした」
「2人のうちどちらかが沖縄へ行かなければならないという噂がたった。自分と君のお父さんは『沖縄へ行けば生きては帰れない、行きたくないな』と話し合っていた。結局、君のお父さんが沖縄へ行って戦死し、自分は行かずに生き残った」
「今まで、どうしてもこの家へ来る勇気がなかった、自分だけ生き残ったから。家の前の道を通るときは必ず、手を合わせて冥福を祈っていた」と老人は言った。
 老人は、不自由な足で父の墓参をして帰った。

 平成20年(2008年)8月、沖縄で父の部下だったという女性から電話があった。遺族を探して市役所で聞いたと言っていた。
「私は昭和20年、沖縄の太刀洗航空廠にいました。そのときの上司があなたのお父さんでした。とても優しい上司でした。そのころ私は20歳でしたから、職場から家へ帰るときは、日本の兵隊は悪いことをするから1人では危ないと私の身を守るため、いつも後ろをついてきてくれました。一緒に歩いていては誤解を招くからと、一定の距離を保ちながらついてくれました。
 米軍が沖縄を攻撃してくる直前、『自分は兵隊だから逃げるわけにはいかないが、君は死ぬことはない』と言われて、本土へ行く最後の船に私を乗せてくれました。別れるとき曹長は、晒の反物と百円を持たせてくれました。反物は何に使うのか聞きましたら、『万が一、船が沈むようなことがあれば鱶から身を守るため身体に巻きつけて長くたらしなさい、鱶は自分より長いものは襲わない』と教えてくれました。お陰で今、私は生きています」
「日本軍が山の中に入るとき、曹長は5歳くらいの男の子の手をとって入っていかれました。それが曹長とお別れした最後です」
と話した。82歳だというこの女性は、糸満市に住んでいると言った。
なんとしても曹長に線香を手向けたいと遺族を探してくれたのだ。

 

鶏(ニワトリ)

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    絵・名古屋コーチン

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    絵・レグホン

「ヒヨコが生まれたよ」
 母の声に布団から飛び起きて上がり框(かまち)に走った。
 土間に藁(わら)を敷いて設えた臨時の寝床にニワトリが座(すわ)っている。
「コッコッコ」と呼びかける声がとても優しい。
「ピヨピヨ」と声haするが姿は見えない。
「静かにしていろよ」
 次兄に言われて、そーっと座敷の端に座った。
 親鶏(オヤドリ)の背中からぽつっとヒヨコが頭をだした。腹の下にいると思っていたぼくはびっくりした。黄色いクチバシで親鶏の羽根をかき分けて頭をだし、きょろきょろと外の様子を窺(うかが)うとすぐ羽根の中に潜(もぐ)り込んだ。
 親鶏が立ち上がった。
 数羽のヒヨコがタマゴから出ている。タマゴの一点からくちばしをだして外に出ようと奮闘しているのもいる。
 生まれたばかりのヒヨコは全身が濡れていてきたない。
 先に生まれたのは、きれいな黄色になっている。
「かわいいなー」
「しーっ」
 兄ちゃんに怒られた。
 きたなかったヒヨコも数時間すると羽根が乾いて、きれいな黄色になった。
「かわいい」
 ヒヨコに触れようとしたぼくの手の甲を親鶏につつかれた。
「痛い」
 あわてて手を引いた。親鶏もヒヨコのときからぼくの家で育っており、決しては刃向(はむ)かってこないのに、攻撃してきたことが信じられなかった。
 成長してニワトリになってもヒヨコのときから餌(えさ)をもらい、育てられているのでぼくら家族をまったく恐れない。近くによっても逃げることもしない。捕まえようとすれば逃げないで地に伏して簡単につかまった。
 
 親鶏に孵化(ふか)させるのは数(かず)に限度があった。多くともせいぜい5、6個でしかない。
もっと多くのニワトリを飼いたいということで、農協からヒヨコを買うことにした。
 今までのは名古屋コーチンだったが農協で買うのは白いレグホン種になった。コーチンより体格も、タマゴもひとまわり大きい。コーチンは食肉用だがレグホンは産卵用だということだった。
 早春、注文していたヒヨコが農協から配達されてきた。
 ヒヨコは生まれてから5日間は呑(の)まず食わずでいるので、この間に注文先へ配送するのだ。
 さっそく縦1メートル、横50センチ、深さ30センチほどの箱を作り、一方の隅に30センチのところで仕切り壁を付けて、その中に柔らかくした藁(わら)を敷いた寝床を設えて、箱の下の火鉢で暖めた。
箱の前面は砂を薄く敷いて運動場とする。寝床と運動場の出入り口には、布のノレンを付けて冷気が侵入しないようにした。
 箱に入れたばかりのときは出入り口が分からないので、1、2回ヒヨコを導いて出入りさせると、すぐに覚えて自分で出入りするようになった。
 寝床は暖房がきいているから両足をピーンと伸ばして横になり気持よさそうに寝ている。
警戒心は微塵(みじん)もない、この寝姿は親鶏を持たないヒヨコだけだった。親鶏に育てられたヒヨコは外敵に対する警戒心を植え付けられているから両足を投げ出して寝入ることなどなかった。
 目が覚めるとカーテンをくぐり、運動場にでて餌を食べたり水を飲んだりしていた。
 ある朝、耳元で鳴くヒヨコの声にびっくりして目が覚めた。母の布団でヒヨコが寝ている。暖房に使っていた火鉢の火が消えて、寒くなったヒヨコが騒ぎだしたが起きるのがめんどうなので母の体温で温めてやったのだった。母のおっぱいの上や、ふところに足を投げ出して寝ていた。
 あまりにもかわいいので、一羽をぼくの布団に入れようとした。
「ヒヨコが潰(つぶ)れるからだめだ」
 母に取り返された。
朝、母の顔に疲れがでていた。
「ヒヨコは気持よさそうに寝てくれたが、自分は寝不足になった。
 母がぼやいた。

 ひと月もするとヒヨコもずいぶん大きくなって体長は10センチほどになり黄色であった羽毛も白くなってきた。
 そろそろ外に出して日光浴をさせ、虫などをついばむことを教えなければならない、と言っても庭に放すだけのことである。
 外に放すとヒヨコは大喜びで遊んでいた。このときがヒヨコにとって一番危険なときである。野良猫やトンビが虎視眈々と狙っている。
 親鳥がついていると「ピー」っと一声の警戒音で、さわがしく遊びまわっていたヒヨコが一斉に木の陰に隠れて伏せじっとしているが、人工ふ化したヒヨコはまったく警戒することを知らないので、ぼくが庭に立って見張りをしなければならない。
 中学生のとき、夏休みに入ったばかりの天気のいい昼過ぎだった。
 庭で遊んでいるヒヨコを狙っているらしく野良猫が納屋の横で座っていた。
「そうはいかんぞ」
 小石を持って納屋の方に行くと野良猫は逃げ去った。そのとき、
「ピー」
 ヒヨコの絶叫に振り向くとトンビがヒヨコを掴んで飛び立つときであった。
「しまった」
 小石を投げつけたがもはやどうすることもできない。「ピー」と叫びながら連れ去られるのを地団太踏んで見ているだけだ。その夜、くやしいのと可哀そうなヒヨコのことを思い、寝苦しい一夜をすごしたぼくは朝からトンビが向った山に入った。
 昨日、トンビの巣があるであろう松の木の目星を付けていた。
 一本一本松の大木を見上げトンビの巣を探した。
「あった」
 とうとう見つけた。さっそくその大木に上り始めた。最初は上りつらい大木も一の枝まで取り付くと後は枝を伝いながら上ることができた。
 巣は木の頂近くにある、とうていそこまでは上ることができない、「どうしたものか」と上を見つめているとき、強烈な痛みが背中に突き刺さった、トンビの反撃だった。高いところから飛び込んでぼくの背中に両足の爪を突き立てたのだ。よく見ると3、4羽も集まっている。
たまらず、その木を下りた。いったん家に帰り長い竹で竿を作って再び、その松の木に上った。こんどはぼくもトンビを警戒しているし、長い竹竿を持っているのでトンビは高い位置でぐるぐる回っているだけだ。
 竹竿が巣にとどくところまで上り、長い時間かかって巣を叩き落とした。巣の中にはトンビのヒナがいたはずである。ぼくはあえて落とした巣を確認することもなく家へ帰った。
「可哀そうなことをして」
 意気揚々と敵(かたき)をとったことを祖母に報告すると、
「トンビだって子に食べさそうとして獲ったのに、あまり殺生はするものではない」
 とたしなめられた。
「いや、ヒヨコを獲りやがったら絶対に許さない」
 ぼくは言い切った。
 
 ヒヨコが体長20センチ程度になると鶏小屋へ放した。畳1枚分ほどの新しい小屋にはスクモ(コメのもみがら)と藁(わら)を敷いている。
 ヒヨコたちはスクモや藁をくちばしでつついたり、足で後方へ掻きだして遊んでいた。
 夜になると、止まり木にまだ飛び乗れないヒヨコたちは部屋の隅に集まって寝ていた。
 ある夜8時ごろ、鶏小屋の異変を察知した長兄が家を飛び出したときにはすでに遅かった、5羽が殺されて小屋から山の方に向けて点々と転がっていた。異変に気付くのが早かったから持ち去る途中だったのだ。
 小屋の金網に5センチほどの丸い穴が開けてあり、茶色の毛が数本こびりついていた、イタチにやられたのだ。
 悔しがったがどうしようもない、死んだヒヨコは明朝埋めてやろうと、その夜は籠をかぶせて置いていたら朝にはすべて持ち去られていた。
「これはかなわん」ということで犬を飼うことにした。
 同級生のS君が、すでに2歳になっているオスの成犬をくれた。
 ペスという名がついていた。
 こげ茶色の汚い犬ではあったが、耳は直立し中型で精悍な賢い犬だった。秋田犬の雑種であろうとぼくは思っていた。虐待ともいえるほど厳しくしつけてあったから、おとなしくて人間に従順だった。
 ぼくの家へ初めて連れてきた日、たくさんのエサを食べさせた。そして鶏小屋近くに新しい犬小屋を置いて「ここがお前の寝るところだよ」と言い聞かせた。その頃は犬を繋いで飼うことはしなかったから、はじめの2、3日は我が家で晩ごはんを食べて夜にはS君の家に帰っているようだった。
 4日目の夜中、犬小屋から吠える声がした。ペスはりっぱに我が家の番犬になったのだ。翌朝、ペスの体をていねいになでてやりエサを多く与えた。以後ペスはS君の家へはいかなくなった。
 母は1日中、納屋で商売にしているムシロを織っていた。土間はワラの切屑で敷きワラのようになっていたから、ドッタンバッタンと足踏み式の織機を動かしている納屋の入り口近くでペスが昼寝をしていた。
 夜も犬小屋に入らず納屋で寝ていることを知った母は、仕事を終えて納屋を出るとき犬が出入りできる程度に戸を開けたままにしていた。
 ある朝、母が納屋に入ると土間にニワトリの頭だけが転がっていた。てっきり我が家のをやられたと思った母は40羽のニワトリを一羽ずつ数えたが減っていない。おそらく夜の間に他家のものを獲ったらしいということで納得した。それから何回もニワトリの頭だけが転がっていて、その都度我が家のを数えたが一羽も減っていない。不思議にもニワトリを獲られたという噂もたたなかった。
 母はニワトリの頭を山際に埋めるため、幅広い火箸でつかみながら、
「たまには一羽まるごと置いてくれてもいいのにな」
 ペスに冗談を言っていたがいちどもそのようなことはなかった。
 火箸はいつも納屋の入り口に置いてあった。
 数か月後、「近所のおじさんはタマゴを産まなくなったニワトリを食べるため、柿木に足をくくって逆さ吊にしておいてから、草刈り鎌でスポッと首を切り落としていることを思い出した。残酷なやり方だが、こうすればニワトリを苦しめることなく殺すことができ、しばらくそのまま放置しておくと体内の血が抜けるため好都合だと言って、この方法をとっている人も多いらしい。 
 ペスはこの首を持ち帰っていたようだ。

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 ペスが納屋の土間で昼寝をしているとき、母はヒヨコを納屋の土間で遊ばせた。屋内といっても土間の奥にはネズミがおり蛇の危険性も皆無とはいえないがペスがおれば安心だ。
 ヒヨコはペスを親と思っているのかまったく安心しきっている。
 昼寝をしているペスの背に載ったり腹をつついたりして遊んでいる。
 ペスは顎を地につけたまま目だけを動かしてヒヨコを見ているだけだ。食べようと思えば一口で食べることができるし、好物だと思うがペスの目にはやさしさがあった。
 数羽がペスの温かい腹にピタリと寄り添って昼寝をはじめてもペスはしばらくじっとしていた。そのうち、ゆっくり動いて移動し別の場所で寝そべった。
 ヒヨコを庭に放しているときは誰かが番をしていたがそれでもトンビや野良猫に狙われた。そんなことからぼくは野良猫を見つけると石を投げつけていた。ある日敷地の端にいる野良猫に石を投げた。そのときペスが猛烈なダッシュで猫に襲いかかった。以後は敷地に一歩も寄せ付けなかった。
 トンビはしたたかだった。獲物を獲るときは掴(つか)むまでいっさい音を立てない、気が付いたときは空へ飛び立つときであり、もはや手後れだ。
 ある日、ヒヨコを庭で遊ばせていると、ヒヨコを狙って突入してくるトンビにぼくは気付かなかったが、近くで昼寝していたペスが猛ダッシュしたのに驚いてそちらを見るとトンビを押さえつけていた。ヒヨコは横に転がっていたが無事だった。ペスはまったくの無言で吠え声ひとつあげずに跳びかかっていた。
トンビは押さえられたのが尾っぽであったため羽を二本抜かれたのみで命拾いして空に逃れた。
「よくやった、賢いぞ」
 頭をなで褒めてやった。
 それからはペスがいつも番をしており、トンビも野良猫も近寄らなくなった。
 
 朝、ニワトリ小屋の戸を開け放すと待ってましたとばかりに先を競って外に出てくる。羽根をバタバタと羽ばたいて走り出すのもいる。
 ニワトリは屋敷内を自由に動き回って、畑や野菜に取り付く虫を食べていた。だからわが家の野菜は無農薬、有機肥料の野菜だ。
屋敷の外に出ることはなかった。また、野菜を食べれば叱られるということを知っているのか、栽培しているものは食べなかった。
だが、ニワトリにも自制の利かないものがあった。
秋、脱穀(だっこく)の終わった籾(もみ)を庭いっぱいに広げた莚(むしろ)の上で天日干をする。籾は鶏の大好物だ、いつの間にか莚にのって食べている。
「こんな破(やぶ)れ鶏(どり)が」
 大きな声で祖母が追い払う。
「ケッケッケ」
 悲鳴をあげ、必死に羽ばたいて逃げる。
 家の前を通りかかった人が声をだして笑っていた。

 春になると母子本能でタマゴを温(あたた)めようとする。未受精のものをいくら温めてもヒヨコは生まれない。それでも、5、6個のタマゴを腹の下に抱えて座り込む。そうするとタマゴが腐る。これには母も困った。母はニワトリをつかまえて池の水に腹を浸けた。20分、30分と我慢強く母も水の中に入ってニワトリを押さえつけていた。
ある日、遊びに来ていた同級生のK君が小さな声でぼくに聞いた。
「あれはなにしているの」
 じーっと無言で池の中にいる母の姿が異様に見えたのだ。
―そんなことで効くのかな。
 ぼくには理解できなかったが、数日後、タマゴを抱かなくなった。
 それでも効果がないときは、農協からセメントで作った偽(にせ)卵を買ってきて、すりかえておいた。ニワトリはセメントのタマゴを一所懸命になって温めるが生まれるはずがない。そのうちあきらめていた。
 ある日、柿木によじ登った蛇が地に落下していた。1メートルほどもある大きな青だいしょうだ。なんども繰り返し登っては落ちている。よくみると腹が大きく腫(は)れている。偽卵を呑んだようだ。本物なら消化されるが、セメントの偽卵は消化しない。蛇も苦しいから腹の中にある偽卵を潰そうとしているのだ。
 翌日、その蛇は柿木の枝に巻きついて死んでいた。
 その下は、隣の家へ行く通路になっているので死骸を放置するわけにいかない。困ったことになった。それでも取り除く勇気がわかないまま手をつけないでいた。3日後、勇気を振り絞って取り除こうと現場に行ってみると死骸が無くなっていた。トンビが取っていったのだろう、「ほっ」と胸をなでおろした。
そのままにしておけば、日ごとに無残な姿になり、気持ち悪くてしかたないところであった。

 毎日1回の給餌(じ)はぼくの役割になっていた。細く切ったカンランと糠(ぬか)を混ぜ合わせ、わずかの水を加えて、手でにぎればかたまる程度の固さに練った。カンランとはキャベツのことであるが結球せず、葉も厚く硬いので春の若葉を野菜炒めにして食べることしかせず、ニワトリのエサとして使用する方が多かった。
「トートートー」
 と呼び寄せると、あちこちで遊んでいるニワトリがいっせいに集まってきた。みなが駆け足で、羽ばたいて走ってくるのもいる。
 ときどき、貝殻の破片を入れてやった。貝殻はチップ状にしたものを農協で売っている。
これを怠(おこた)ると殻の弱い卵を生んでしまう。
魚粉を混ぜ合わせることもあった。鶏にとってはごちそうなのだろう、飛びついて「クークック」と喉を鳴らしながら一心不乱に食べていた。
 夕方にはニワトリ小屋の戸を開けておくと、自分で小屋に入って止り木に行儀よく並んで寝ていた。
  
 高校2年を終わった春休み、燃料にする「割り木」を山の上から運び出すアルバイトをした。
 山の奥に通じる道筋に竹林に囲まれた一軒家がある。
ぼくの後になり前になりしながらついてきていたペスが、その家の前でぱっと突然ダッシュした。その先の竹林でニワトリが放し飼いにしてあったのだ。
「やめろペス」
 ぼくの制止も、すでに全神経を獲物に集中しているペスには届かなかった。1羽に的を絞ると前足をそろえ飛び上がる格好を付けてハッシと地を踏んだ。ニワトリは危険を察知して飛び上がった。ペスはニワトリがあまり飛べないのを知っていた、じっとして動かず目で追い、ニワトリが着地するのと同時にニワトリの首に噛みついた。すべてが一瞬のことで寸分の無駄な動きはなかった。ニワトリはキュンとも声をだすことなく絶命していた。
 ニワトリをくわえて誇らしそうに持ってきたペスを叱る気にもならなかった。そのニワトリを飼い主に渡し、ぼくの家ので弁償することで了解してもらった。
「竹林にいたのではしかたないな」
 母も家のニワトリで弁償することを認めた。

 ぼくが家にいるときはぼくの近くで昼寝をしているペスも、留守には納屋で仕事をする母のもとで寝ころんでいた。
 春になると新しいヒヨコが来て、ペスにまとわりつきニワトリもペスの周りをうろうろしていた。
 ペスは相変わらず我が家のヒヨコやニワトリを大切に見守っていた。

 高校生の夏休み、ニワトリ小屋を作ることを思いついた。横3メートル、奥行き2メートルの広さをもち、小屋の後ろ側に棚を作って、タマゴを小屋の後ろから取り出せるようにした。
 古い小屋を解体して製作にかかったが1日で終わらなかった。夕方、外で遊んでいるニワトリを何所(どこ)へ入れようかと思案したが40羽ものニワトリを入れる場所がない。
日暮れは近付いてくる。困ったと思っていたら、ニワトリは1羽ずつミカンの木に飛び上がった。ミカンの木の高い枝をねぐらとしたのだった。猫でさえも寄り付くことのできない高い場所の小さな枝にとまっていた。
 3日後小屋が完成した。棚でタマゴを産むとタマゴだけが小屋の後ろに出る仕掛けを作ったがニワトリに無視された。竹でつくったため居心地が悪かったのだろう。タマゴは藁(わら)を敷き詰めた室内の隅にかたまっていた。
 棚に柔らかい藁を敷くと棚に産み出した。ひとまず成功なのだがタマゴを取り出すには小屋の後ろから手を突っ込み、手探りで取り出さなければならなくなった。
 雪の夜、ドサッと音がした。ニワトリ小屋が雪の重みで押しつぶされたのだ。3羽が圧死していた。素人作りの小屋は、見た目には上手く出来ていても、わずか20センチの積雪にも耐えることの出来ないものだったということを曝(さら)け出してしまった。
 病死とは違うので食べればいいのだが、ヒヨコのときから育てかわいがってきたニワトリだ。
「食べるのはかわいそうだ」
 家族の意見は一致して埋葬してやることになった。このとき、ぼくは近所のあるおばさんのことを思い出した。ニワトリが死んだとなれば欲(ほ)しいと言って来るに違いない。
「そうはさせるもんか」 
 ただちに深い穴を掘って埋めた。
 はたして、昼前にそのおばさんがやってきて「病気と違うから食べればいいのに」と欲しそうに言った。
「もう、何時間も前に埋めてしまった」
 ぼくは冷たく言い放った。
 埋めた後を残念そうに見ていたが、さすがに掘り出すことはしなかった。
 常に40羽のニワトリが居るように補充していたので、タマゴは毎日40個とれるはずだが、現実には、10個ほどしか産まなかった。歳をとればタマゴを産まなくなる、それでも処分することもせず、老衰で死ぬまで飼っていた。どのニワトリがタマゴを産まなくなったのか、詮索もしなかった。
 農協から買うヒヨコは雌(メス)ばかりだったが、たまに雄(オス)が混ざっていることがある。雄はタマゴを産まないのでなんの役にもたたない。それでも皆と一緒に大きくなり老衰するまで飼っていた。飼料の米ぬかは近所の精米所へ行けば無料でくれたからタマゴを産まないニワトリを飼っていても負担にならなかったことも一因だが、殺すことなどかわいそうでできなかったのだ。
 鶏肉を食べたくなったら隣町まで買いに行った。
 だが、「食べるのはかわいそうだ」と埋葬するのは我が家ぐらいなもんだろう。

 

軍鶏(シャモ)

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「隣の家へ、これを持って行って」
 母が回覧板を、ぼくに渡そうとした。
「いやや」
 即座(そくざ)に拒否した。その家にはシャモという恐いニワトリがいるのだ。小さな子供と見れば攻撃してくる。一羽しかいないが普通のニワトリより首が極端(きょくたん)に長く足も長い。体の羽根はほとんど抜け落ちて、見るからに精悍(せいかん)で戦闘的だ、鋭(するど)い目でにらまれたら足がすくんで動けなくなる。
「なんでや」
「恐いニワトリがいる」
「なんや、ニワトリが恐いんか、来たら追い払え」
 けっきょく回覧板を持たされて追い出された。
「やだな」
 ぶつぶつ言いながら、その家の前まで行った。
 じーっと庭を探したがシャモは見えない。裏庭にでも行っているのだろう。
―よし、今だ。
 玄関に走りこんだ。
「回覧板です」
 大きな声で、おばちゃんを呼んだ。
「賢(かしこ)いね、ありがとう」
 奥から、おばちゃんの声が聞こえた。
―よし、おつかいは終った。
 外を見回したが、近くにはいない。
「よし」
 ぼくは走った。そのとき、家の横からシャモが飛び出してきた。  

「はっ」として振り向いたら鋭い目つきでじろっと睨(にら)まれた。
 ぼくは懸命に走った。シャモが羽ばたきながらとっとっと走ってきて、後ろからぼくの両肩に飛び乗った。
 コツンコツン
 くちばしで、ぼくの頭を突いて飛び下りた。強烈な痛みが頭に響いた。
「だからいやなんだ、二度と行かないぞ」
 母に言っても笑っているだけだ、ニワトリに襲われることなんてあり得ないと思っているのだ。

 まもなく、このシャモもいなくなった、食べたということだった。
 ほっとした。これで遊びに行くことができる。
 それにしても、あんな痩(や)せっぽちの鳥を食べて美味(うま)かったのだろうか。

 

木炭自動車(もくたんじどうしゃ)

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    絵・木炭自動車

「グオーン、グオーン」
 聞きなれない音が聞えてきた。
 100メートルほど先の大道(県道)に止まっているバスの後部で、男の人が何かを回転させていた。
真っ黒な煙がもうもうと立ち上っている。
木炭自動車だった。
 太平洋戦争の影響で手に入らなくなったガソリンの代用燃料として、木炭を燃やして発生させた一酸化炭素や水素などの可燃性ガスを、送風機でエンジンに送り込んで動かすのだ。
男の人が回しているのが送風機だ。
 大量の煙はバスの後部を覆(おお)いながら空に舞い上がっている。

 木炭自動車は1、2時間も走ると力が弱くなるので、また、釜(かま)に木炭を足して再び走り出したという。
 やがて、まっ黒な煙の中から、のろのろとバスが動き出した。
「あれは、だめだ」
 隣町の温泉津へ買い物に行くため、家をでてきた祖母が言った。
「このまえ、温泉津へ行くのにあのバスに乗ったら、坂道で降ろされた」
「なんで」
「大雨の日だったから大勢の人が乗ったんだよ。バスの力が弱いから、坂道を、よう上らなかったんだ。おかげで、こっちは坂の上まで、ぬかるみ道を歩かされた」
 雨の日だから乗ったのに歩かされた。それが祖母の気が治まらない理由らしい。今日は隣町まで片道40分の峠道を歩いて往復するという。
 やっと動き出したバスの横を、進駐軍(しんちゅうぐん)のジープが猛スピードで追い越していった。
進駐軍とは、日本に駐留(ちゅうりゅう)しているアメリカ軍のことだ。
「ハロー」
 ぼくは、あらんかぎりの大声で手を振った。

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    絵・進駐軍ジープ


 このころ、進駐軍のジープが大道をよく通過した。

 ぼくは、いつも石段まで走り出て「ハロー」と手を振っていた。ぼくの茶碗には進駐軍のジープと手を振る少年の絵が描かれていた、この絵と同じことをしていたのだ。だが、進駐軍を見たら「ハローと言って手を振りなさい」と、ぼくに教えたのは母だった。
ぼくの父は沖縄でアメリカ軍と戦って戦死している。母は、「アメリカ軍に刃向(はむ)かった兵士の家」だと進駐軍に知られることを恐れたのかもしれない。

走り去った道の上に舞い上がった砂埃(ぼこり)が帯のように連なっていた。

 下り坂では自転車にも追い越され、平地でも時速40キロしかでない。そのうえ、雨降りの日には歩かされる木炭自動車、悪評ですぐ消えてしまった。

 3歳ごろの記憶だった。

 

爆撃機と戦闘機

 家を揺るがし吹き荒れていた木枯らしがピタリと止んだとき、上空を通過する飛行機の音が不気味に響いてきた。プロペラ機特有の低い音だ。
「アメリカ軍の編隊だ、朝鮮へ爆弾を落としに行くんだな」
 長兄が言った。
 当時は昭和25年に勃発した朝鮮戦争の真っ最中だった。それにしても真っ暗闇のなかどうやって朝鮮へ行っているのだろうか。
「夜の爆撃は恐いぞ、真っ暗闇の空から、ものすごい数の爆弾が落ちてくるんだ、逃げようがないぞ」
 次兄が友達から借りていた雑誌「少年倶楽部」を持ってきた。次兄が開いたページには真っ暗な空から湧くように落ちてくる爆弾と逃げ惑う人々の姿が描いてあった。
 火の海になった都会、恐怖のまなざしで空を見上げる人、絶叫をあげている人など凄惨な絵だった。
「ここは大丈夫か、爆弾は落ちてこないか」
 急に恐くなった。
「日本の戦争は終っているよ、戦争をしているのは朝鮮だ、落ちてくるはずがない」
 母がなぐさめてくれた。
「アメリカ人のきまぐれで落とすかもわからんぞ、爆撃に行ったのに暗いから目標が分からずに引き返す途中で捨てて帰ることだってあるらしいぞ」
 次兄がぼくをからかった。
「こんな田舎に落としたところでなんになる、せいぜい数人が死ぬだけだ、爆弾がもったいないよ」
 母のひと言に、それもそうだ。と納得して不安は消えた。

 この当時、村の上空を飛行機がよく通過した。なかでも井の字型をした双胴のアメリカ軍戦闘機・ロッキードが一番多かった。
 それらは低いうなり音を残して通りすぎて行った。

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   絵・米軍ロッキード戦闘機

 昭和27年ごろのことだった。

肥料(こやし)

 朝から粉雪が降っている寒い朝だった。
 近くで大きな話し声が聞えている。静かな村のことであり、ほとんど聞くことのない大声だ。
―なんだろう。
 ぼくは石段を下りて屋敷前の道に出た。
 100メートルほど下(しも)の道端で5、6人が電柱を交換していた。
 作業を見ようと、近くへ行った。
「危ないから近くへ来てはだめ」
 作業をしていたおじさんに追い返された。悪いことをして追い払われたような言い方だった。
 しかたなく、家(うち)の庭から見ていた。
 
 祖母が、せっせと家の掃除を始めた。竹箒(たけぼうき)で庭を掃除し、上(かみ)の座敷をきれいに掃いて、大きな火鉢に、かんかんに熾(お)きた炭火を入れた。火鉢もやかんも普段はしまってあるものだ。
 
 昼ごはんの時間が近づいたとき、
「工事をしている人に『お昼をどうぞ』と言って来て」
 祖母に言われるまま、工事をしている人に言って一目散に家へ帰った。もたもたしていたら、また追い返されると思ったからだ。
「さあ、昼ごはんにしようか」
 おじさんが大きな声で皆に合図をしていた。
「うちの家を教えてあげたか」
 祖母が言った。
―そんなこと言えと言われていない。
 ぼくの不服そうな顔を見て祖母が言った。
「言わなかったら、どこの家か分からないだろ」
 でも、その心配はなかった、ぼくの行方をしっかりと見ていたらしい。
「お世話になります」
 口々にあいさつしながら家の石段を上がってきた。
 井戸水で手を洗い、縁側から座敷に上がって火鉢の周りに集まっている。
 工事のおばさんが、お盆に載せて置いた湯のみにお茶をいれて皆に配っている。
 工事の人は、それぞれが持参した弁当を食べ始めた。
 祖母も母も、あいさつをしただけで、あとは何もしない、ぼくらは台所で昼ごはんを食べた。弁当を食べ終えるとめいめいに横になったり、たばこを吸ったりしながら世間話をしてくつろいでいた。
 ぼくらは納戸のこたつで静かにしているだけだ、祖母も母もおじさんらの話しに加わることもなく、こたつで寝転んでいた。
 外に舞う雪はいちだんとはげしくなっていた。

 1時になった。
「さあ、はじめようか」
 おじさんらは便所を使ったあと、めいめいに礼を言いながら作業場へ出ていった。
「今の人、知っていたんか」
 知っている人がいたから部屋を貸してあげたのだと、ぼくは思っていた。
「いいや、みぞれや雪が降っているこの寒い日に、外で弁当を食べたら寒いだろ、だから貸してあげたんだよ」
 それが、思いやりというものだと祖母が言った。
「あの人らは便所を使っただろ、あれが家(うち)へのお礼だよ」
「なんで」
「糞尿(ふんにょう)は畑に撒(ま)いて野菜の肥料(こやし)にするだろ、家(うち)は5人家族だから十分にとれるが、人数の少ない家では野菜の肥料(こやし)にも困っているんだ、昔、江戸では糞尿を買って歩く人もいたらしいよ」
 祖母が冗談(じょうだん)を言っている、と思っていたが、あながち冗談ではなく真実を言っていたのだろう。ぼくの記憶のなかに祖母が冗談を言ったことは、いちどもない。

 少し後年の話になるが・・
6年生のとき、この話を思い出して小学校や中学校の糞尿はどうしているのか疑問をもった。
村に、し尿処理場などは無い時代だ、ましてや小中学校合わせれば500人近い生徒だ。大量の糞尿はだれが処理しているのだろうか。さすがに、先生には聞けなかったから母に聞いた。
「周辺の百姓が自家用肥料として汲み取っている」
皆が欲しいから順番待ちをするほどだということだった。
「うちも、学校の近くなら欲しいくらいだ」
 
 ぼくにとっては見るのも気持ち悪い汚物でも母には貴重な肥料だったのだ。

 

灸(やいと)

6歳のとき、М君とY君が三輪車を買ってもらった。いつも3人で遊んでいるのに自分だけ三輪車がない。「買ってくれ」と母の後をつけまわし泣きわめいた。最初は黙っていたが、あまりのしつこさに堪忍袋の緒が切れた母は、うつ伏せにしたぼくの背に馬乗りになって灸(やいと)をすえた。背中の皮膚が焼ける激痛に逃れようとどんなに暴れても母の体が、でんと乗っているためどうしようもない。「ぎゃーぎゃー」と泣き叫ぶだけだった。
 灸は、三輪車を買ってほしいという欲望のすべてを消滅させた。
 M君とY君は父親が健在で経済的にも余裕があり、ぼくには父親がいない。貧乏していたため買うことができなかったのだ。
 それから、幼稚園までの1キロメートルを2人が三輪車、ぼくは歩いて通う日がつづいた。これには、さすがの母も心を痛めたらしく、あるとき、「なにも一緒に買わなくてもいいのに」
 と愚痴(ぐち)をこぼしていた。Y君とМ君の親が同時に三輪車を買ったことへの愚痴だった。
 ある日、いつの間にか2人が幼稚園からいなくなった。2人だけで示し合わせて家へ帰っていたのだ。いつも3人で帰る道を、とぼとぼと独りで歩きながら、自分が仲間はずれになったことを知った。
道の周辺に民家はなく、さびしくて半べそをかきながら歩いた。
 何ヵ月か過ぎたころ、
「いつも3人で遊んでいるのに1人だけ無いのはかわいそうだ」
 近所のおばさんが家の裏に放置してあった三輪車を見せてくれた。
「こんなんでもいいか」
 おばさんの言葉にぼくは二つ返事でOKした。
 あちこちが錆びており、ハンドルの握り部分のゴムとペダルが無くなっていたが、その家のおじさんが古い自転車のものを取り付けた。そしてワックスで磨いて機械油を注(さ)してくれた。
新品ではないがぼくにとっては夢のようなプレゼントになった。
 以後、その家に対する感謝の気持ちは消えることがなく、小学校6年のときに新聞配達を頼まれたおり、気持ちよく引き受けた。
アルバイト料は1ヵ月で500円しかなかったから、女性が日雇(ひやと)いの土方(どかた)仕事で稼(かせ)ぐ金額(かね)250円の2日分しかなかった。
 それでも、アルバイト料が安いという親の意見も無視して中学3年まで続けた。

 現在、灸は虐待として許されない行為になっているが、当時はしつけとして行われていた。海水浴などで裸になると背中に灸痕のある男児も多かった。ぼくを含む彼らに共通していえることは、どんなに粗暴な性格をしていても親に対しては従順であった。

 

春の小川

 

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        春の小川はさらさら流る
      岸のすみれやれんげの花に
      においめでたく色うつくし
      咲けよ咲けよとささやくごとく 

                    童謡・春の小川

小学校

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f:id:hidechan3659:20161005133501j:plain高学年用

f:id:hidechan3659:20161005133551j:plain低学年用

 昭和26年(1951)4月、福波村立福波東小学校に入学した。
 全校生徒280名、新入生は男児が18名、女児が25名だった。
 校舎は明治時代建築の木造平屋建てで、講堂は昭和の初めに講堂兼体育館として建てられていた。
 1年から5年生までの教室と職員室及び図書室が東西1列に並び、通し廊下の長さは記憶に基づく目側ではあるが60メートルほどもあった。 長い廊下の東端を左に曲がったところに高学年用玄関があり、さらに渡り廊下の先に6年生教室があった。
 校舎も講堂もすべて板敷きだったから、掃除は毎日ぞうきんがけをしていた。
 音楽室がないため講堂の舞台横にピアノが1台、各教室にオルガンが1台ずつあった。
 音楽の授業は各教室で行い、ピアノを必要とするときは講堂に集まった。
 講堂兼体育館は低学年用玄関の横を通って中庭(小校庭)に入る通路をまたぐ廊下の先にあった。この跨路橋部の隅に大きな木製のプロペラが片方のみ1個置いてあった。戦時中の飛行機のプロペラだと言われていたが、それにしてはあまりにも大きく、どの飛行機のものなのかは想像もできなかった。
 
 冬の暖房にはダルマストーブを使っていたので、各教室からブリキの煙突が窓から外へ出て屋根の上まで突き出ていた。
 5年のときまでは薪(まき)を燃やしていたが6年のときに石炭に替わった。
  

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  絵・ダルマストーブ

 始業、終業の合図は用務員をしているおばさんが鐘を「カンカン」と鳴らしていた。鐘の打音には限度があり1年生の教室ではかすかな音しか聞こえなかったが、数年後にはサイレンに変わった。
 
 ぼくが2年のころ、次兄は6年生で予備室を教室にしていた。予備室は学校の正面玄関裏側の中庭に建てられたもので2階建ての1階が6年の教室で2階は図書室になっていた。
 予備室にはストーブがなかったので、部屋の真(ま)ん中に一辺が1メートルほどもある大きな方形の石火鉢が置いてあり、炭火で暖をとっていた。これは小学校の創設期に福光石で作られたものということだった。ぼくの集落では石仏、灯ろう、墓石などの材料となる良質の石材が採れ、これを福光石といった。
 
 運動場で体操をするときは皆が裸足(はだし)だった。運動会も裸足だから前日に全校生徒で校庭の掃除を行い、小石をひろった。

 この小学校も昭和41年(1966)に取り壊された。

学生服

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   絵・冬の登校

 小学校には制服がなかった。
 女の子は私服を着ていたが男の子はほとんどが学生服だった。そのころは戦後で物資の乏しい時代だったから学校に限らず家でも来ていたのでぼろぼろの服になっていた。上着の肘とズボンの膝、それに尻にもお猿さんの尻のように、ハート型にカットした布を当てて繕(つくろ)ってある。
 冬の寒い夜などはズボンを穿(は)いたまま寝ることも多かったから、しわくちゃでアキレス腱のところが蛇腹(じゃばら)のようにめくれあがっていた。だから学校で男子生徒のアキレス腱のところを見れば、ズボンを穿いたまま寝ているかどうかが一目瞭然だった。
 寒い日には学生服の上に『袖(そで)なし』を着て、防寒ズキンをかぶって通学した。防寒ズキンは、戦時中防空ズキンとして使っていたものと同じ帽子で綿が入ってるので耳まで温かく気持ち良かった。
 そのころは『オーバーコート』を着るのはごく少数の生徒だけだった。
『袖なし』は、いわゆる『ちゃんちゃんこ』のことで、綿入袢纏(わたいれはんてん)の袖(そで)が無いものだ。温かくて動きやすい防寒着なのだ。
 男の子は紺絣(こんがすり)、女の子は赤色の絣(かすり)で作っていた。
 ぼくには、長兄が小さいときに着ていたオーバーはあったが、次兄もそれを着ていたため、かなり古くなっており、サイズも小さいので無理をして着ても案山子(かかし)のように両手を伸ばしておかねばならないというものだった。そんな窮屈なものを着るより『袖なし』のほうがよほどましだった。
 家では綿入袢纏を着ていた。これは袖があるからさらに温かい。
そのころ、家庭での暖房は炬燵(こたつ)しかなかったが、綿入袢纏で冬を越すことができた。

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   絵・綿入れハンテン


 風邪をひいたら鼻汁が出る。現在のような即効性の薬がなかったから、粘りのある青色の鼻汁が両方の穴からつららのようにぶら下がってくる。2センチ、3センチと伸びてくると勢いよく鼻の中に吸い込む。この繰り返しをして、ときどきそれを服の袖(そで)で拭くから、固まっててかてかに光っていた。男の子の多くがそうだ。

 入学式、卒業式、正月など、あらたまった日には一著羅(いっちょら)の服を着て学校へ行った。
 2年生も、もうすぐ終わりというある日、
「あした写真撮るよ」
 と先生が言った。当日は皆が新しい服を着ていた。ところが、ぼくは、すっかり忘れていた。だからいつものぼろぼろの服で写真を撮るはめになった。先生が写真機の前に皆を並ばせながら、ぼくの横を開けていた。そして横に座って写真に納まった。女先生(おなごせんせい)はとてもいい香水の匂いがしていた。
「こちらを見て、しっかり目を開けて、まばたきしたらだめだよ」
 写真屋のおじさんが言うので、しっかりと目を開けていたら「ボッ」と音をたてて強烈な光が目に飛び込んだ。一瞬、目の前が真っ白になり何も見えなくなった。視力を取り戻すと写真機の横に青白い煙が上がっているのが見えた。
 できた写真は、ぼろぼろに破れたぼくの肘(ひじ)を、先生がみごとに隠してくれていた。

 

履物(はきもの)

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   絵・わら草履

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    絵・布草履

 小学校の上履(うわば)きは藁(わら)草履(ぞうり)だった。
 女の子は赤い布、男の子は青い布を織り込んで、それぞれが工夫した草履だった。
 ぼくのは、祖母が藁の間に青い布きれをはさんで、きれいに作ってくれた。
 祖母は、ときどき筍の皮で草履を作った。筍の皮は硬くて造作がむずかしいので祖母しか作れなかった。学校に持っていくとめずらしがられ、また、羨(うらや)ましがられた。
 寒いときには黒足袋(くろたび)を履き、暖かいときには素足のまま履いていた。
 冬の黒足袋は内部が柔らかいネルになっていて、あたたかく履きここちもよかった。

 外ではゴム草履を履いていた。今では海水浴にいかなければ見ることもできなくなったが、ゴム草履が一番強いため通学にも履いていた。
 雨の日の通学にはゴム長靴があったが、冬以外は下駄(げた)やゴム草履を履いていた。
 冬はゴム長靴でも足が冷たいので、中に藁(わら)を詰めた。これが意外に暖かい。

 

教科書

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 教科書は有料だった。新学期がはじまる前、学校へ売りにきた。でも買うのは、いつも1冊か2冊だけだった、あとは古いのを使っていた。
 毎年、同じ村の1年先輩から譲ってもらった。それら教科書は汚れていた、落書きもあった。
ときには破れていることもある。
 3年生のとき、国語の時間だった。教科書を順番に数行ずつ読まされ、ぼくの番になった。
ところが、ぼくは立ち上がって読む態勢に入ったまま黙っていた。いつもは元気よく大きな声で読むのに黙っている。
先生が出だし部分を読んでくれた。ここからだよ、と教えてくれたのだ。
でも、ぼくは黙っていた。先生がぼくの席まで来て、黙ったまま指で出だしの部分を示そうとした。しかし、そのページは3分の2ほどが破れて脱落していたのだ。
「あら」
 先生の発した言葉はあまりにも短かった。通常であれば「教科書を破ってはだめですよ」と言うところなのだが、ぼくのは使い古した教科書であり、ぼくが破ったのではないことを瞬時に理解してくれたにちがいなかった。
先生が自分の教科書をぼくに持たせて、
「ここからよ」
 と言ってくれた。
 白いチョークがいっぱい付いた教科書だった。赤鉛筆で傍線を引いているところもあった。香水の匂いが、ほのかに漂っていた。
ぼくが読んでいるとき、先生はぼくの教科書を、ぱらぱらとめくっていた。ほかに脱落した箇所がないかどうかを点検してくれたようだ。
「はい、次」
 先生が次の生徒にバトンタッチしてから、ぼくの教科書を返してくれた。
 ぼくの指に白いチョークの粉が残った。
 古い教科書だからはずかしいという気持ちは湧いてこなかった。ごく自然に受け入れていた。ほかにも古い教科書を使っている生徒もいる。
 傷(いた)んで使い物にならない教科書のみ新しいものを買ってくれた。
 小学5年のとき、理科の教科書を1冊だけ買ってくれた。
 臨時の売り場になっている学校の教室は新しい本の匂いが充満していた。
学年ごとに分けられた列にぼくも並んだ。
教室は生徒でいっぱいだ。
国語、算数、社会、理科、音楽、図工と分けられている教科書の山から1冊ずつ取って渡してくれている。
 ぼくの番になった。
「理科」
 大きな声で言った。
「はい、201円」
 販売のおじさんが1冊を渡してくれた。
1円という設定が不思議だったが、200冊売れば200円になると納得した。
 新しい教科書は、とても良い匂いがした。
 鼻にくっつけて新しい本の匂いを楽しんだ。
 
 古い教科書は高校を卒業するまで続いた。