温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

雪平鍋

 

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 現在の雪平鍋は蓋の無い片手鍋を言うようであるが、僕の幼少期は蓋の付いた土鍋の一種であったように思う。

 分厚い土鍋であったため、七輪の炭火でコトコトと長時間かけて煮たり煎じたりするものに適し、家族が病気になったとき薬草を煎じた。

 風をひけばキンカンと氷砂糖で喉薬や重湯(おもゆ)、白がゆを作ってくれた。

 現在ではあまり見なくなった鍋だ。

 

5勺の米

 勺(しゃく)は尺貫法の体積の単位である。1合(ごう)=約180ミリリットル)の10分の1が1勺になる。だから1合の半分が5勺だ。ちなみに「わんかっぷ大関」は1合らしい。

 まわりくどい説明をしてしまったが、僕が小中学校の修学旅行のとき1人1泊5勺ずつ白米を持参して旅館に渡した。6年のときと中2のときは1泊だったから白米5勺を自家製の木綿袋1袋、中3のときは旅館3泊だったから3袋を持って行った。要するに自分の食いぶちは自分で持参するというのが当時であった。

 旅行の前日、母は日本手ぬぐいで米を入れる袋を縫ってくれた。

 心躍らせて出来上がるのを待った。

僕らは1人1合は平気で食べていた元気ざかりだ、5勺では足りないはずだが旅館では腹いっぱい食べることができた。

 ただし、米を測るマス(升)は1合マスが最少単位で勺マスは無かったから母はいつの場合も1合を入れていた、こういう人も多かったかも。

 高校を卒業して京都へ就職したとき、米穀通帳を会社へ提出したが、いつのまにか必要なくなっていた。

紅葉のころ

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 生まれたときから住んでいる僕にとって春には桜が咲き、秋に山が紅葉するのは当たり前のことであって花や紅葉を愛でるという気は起きなかった。

 だが、年によっては土手に咲き誇った桜を、黄色に染まった山を見て「きれいだな」と思うことがあった。

 そんなとき僕は水彩画を描いた。

 

 

ヤキメシと茶わん蒸し

 高校でバスケット部に入っている長兄が遠征試合から帰った数日後、

「松江で焼き飯を食べたらうまかった」と初めて食べたヤキメシなるものをわが家でも作ってみることにした。

「何が入っていたか」

「玉ネギ、ニンジンにハムはあったな」

 長兄は具材を思い出している。

 ハムは食べたことがないし値段も高いのでソーセージを買ってきた。

 母と長兄が台所で相談しながらフライパンいっぱいに作ったヤキメシは、母のアイデアで入れたネギが多いため緑色の目立つものだったが、出来栄えは上々だった。

「初めてにしては上手くできたな」 

 母と長兄も満足そうに食べていた。

 以後、わが家のメニューに組み込まれた。

 

 またある日、長兄は松江の旅館で食べた茶碗蒸しの話をした。作り方を女中さんに聞いてきたらしい。

「卵なら沢山あるよな」

 ニワトリを飼っているから卵はある。

 長兄と台所に立った母は、かまどに火を熾し、水を入れた羽釜の上にセイロ(蒸籠)を載せた。

「器はないから、これにするか」

 と言って瀬戸物の汁茶碗を出し、長兄に聞きながら細かく切った具材と卵の溶いたのを入れた。

 セイロから出る湯気が天井まで上がっている。

「もういいだろう」

 母がセイロを下した。

 初めてにしては上手くできた。

「うん、この味だ」

 長兄も満足している。

「本物はイチョウの実が入っていたで」

 長兄が細かく切ったカマボコを箸でつまみながら言った。

 ギンナンなら秋に取っておけばいくらでもある。と思いながら僕も食べた。

なんでこんな簡単にできるのに今まで作らなかったのかなと思ったが、外食することのほとんどない母は茶碗蒸しを知らなかったのだ。

 

ラクダシャツ

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 冬になるとラクダ色の分厚い下着を着ていた。

 僕らはラクダシャツと言っていたが、実態はラクダの毛から造ったシャツをラクダシャツと言い高価であったため、僕らの着ていたのは表面がラクダ色、裏は白色の綿シャツだった。それでも分厚く裏はネル(表面が起毛されている生地)になっているので暖かく肌触りも良かった。特に新品のおろしたてのものは、どんなに寒い日でも寒さを感じない暖かさがあった。

村祭り

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村の鎮守の神様の

今日はめでたいお祭り日

ドンドンヒャララ ドンヒャララ

朝から聞こえる笛太鼓

 

   (童謡・村祭り)

桐と松

 盆の数日前、祖母が隣町から兄弟3人分の下駄を買ってきた。

 盆踊りに履く歯の短い下駄である。さっそく履いてみようと玄関に持っていくと、

「だめだ、新しい物は夜におろすものではない」

 迷信を信じる祖母に止められた。しかたない、明日の朝にするかと座敷の隅に3人分を並べて置いた。

「あれ、この下駄軽いな」

 長兄の下駄を持った僕が驚いた、長兄のは桐の下駄だったのだ。

 次兄と僕のは松材で作ったもので、ドッシリと重い。

「松の方が強い、お前らは乱暴に履くから松の方がいい」

 祖母が言った。

 長兄の分だけ値段の高い桐の下駄を買い、次兄と僕のは安価な松材だったのだ。今までずっとそうしてきたらしい。

 祖母はちょっとだけ気まずい顔をしたが僕はそれでもいいと思った、新しい下駄で盆踊りに行けるのだ。

 

 当時、雨の日にはゴム長靴を履いていたが、それ以外はゴム草履や下駄を使っていた。

 小学校でも上級生になると下駄で通学し、校舎の玄関でわら草履(ぞうり)の上履きに履き替え下駄は下足箱に入れて置いた。

 校庭で遊ぶときや体操も裸足だったから通学に下駄を履いても不自由はない。

 冬の雨や雪の日以外は黒足袋で下駄を履いた。

 正月にも新しい下駄を買ってくれることもあった。この下駄は足の指を寒さから守るためのカバーが付いていた。

 中学生になると上履きはズック靴に替わったが、男生徒は下駄で通学する者も多かった。

 僕も高下駄を履いて通学していた。高下駄になると台は桐材で歯は版画などに使う朴(ほうの)木(き)だった。またこの歯は摩耗するので下駄屋へ持っていくと安い値段で新しいのと交換してくれた。

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 製糖工場

 高校2年の春、国鉄の汽車で通学していた。

 学校があるのは僕の家の最寄り駅から三つ目の駅だったが、その一つ手前の駅裏手で造成工事が始まった。

 大きな工場が建つらしく、既存の町営住宅を別の場所に移し、さらに周辺の松林も切り開いて平地に造成した。

 この町営住宅に住んでいた同級生が「松などの材木からショ糖を造る工場だ」と言った。

 僕が通っているのは工業高校の工業化学科である。木材はブドウ糖グルコース)が直線状に結合したセルロースからできていることは知っていたから、面白いと思った。

工場の完成は僕らが卒業する頃だ。

―ひょっとして、多くの社員を募集するかもしれない、特に工業化学科卒業生は優遇されるだろう。

 大いに期待した。

 ところが造成が終ったところで工事が止まった。

―どうしたのか。

 僕の期待を裏切る様に工事は止まったままである。

 造成地には草木が生い茂った。

ーどうなったんや。

 3年のとき同級生に聞いた。

「安価な砂糖が大量に輸入されるようになったので、工場を造っても採算に合わないらしい」

 同級生は言った。

―そんなこと、計画段階で分かっていたことだろう。

 僕はひどくガッカリした。

兄弟おじさん

 小6から新聞配達をしたアルバイト先は40代と30代のおじさん2人で地域の中継配送を受け持っていた。おじさんたちは午前3時に出発して30キロほど離れた町まで当日の朝刊を受け取りに行き、受け持ち地区内に配送していた。

 そのために自動車やオートバイが必要である。当時は、やっと庶民の乗る国産乗用車が出てきたばかりで、僕が初めて見たのは大型オートバイを三輪にしたようなオート三輪であった。

 運転者はオートバイと同じようにイスを跨いで座り、オートバイと同じ横棒式のハンドルで運転していた。運転席にドアはなかったので雨や雪の日には旧陸軍のゴム合羽を着ていた、兄さんは帝国陸軍の軍曹だったのだ。

 僕の家では、女性の日雇い仕事の2日分しかない僕のアルバイト料も家計に組み込まれるほど貧乏をしていたので、当時は村に数台しか自動車のない時代に次々と新車を手に入れる兄弟おじさんには驚きだった。

  僕がアルバイトをしていた3年の間に、国産第一号のスクーター「ラビット」、大型バイク、現在のような丸いハンドルでドア付のオート三輪と次々に替わっていった。

 バイクは映画で視るドイツ軍のバイクのように大型で、エンジンから後輪への伝動はチェーンではなく太いシャフトであった。

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温泉津町福光・遥かなるふるさと(追補版)

 よもやま物語

聴聞

 僕の家から見える位置に3軒のお寺があり、それぞれ真言宗、浄土宗と禅宗であった。

 これらのお寺では数年ごとに法会が行われていた。

 ある日曜日、真言宗のお寺で法会(ほうえ)があった。数年にいちど行われる法要(ほうよう)で読経と説教がある、そのうえお斎(とき)がある。

「今日は偉いお坊さんがきて説教をしてくれる」

 おばあちゃんに誘われてお寺へ行った。村中の子供たちも集まって遊んでいた。

 だが、僕は祖母の横に座って長い時間続く読経が終わるのを待っていた。その間はじっと我慢して座っているだけである。

 他の子供たちは本堂の外で遊んでいたが僕はいつの場合も祖母の横で静かにしていた。

 やがて、あちこちから咳払(せきばら)いが聞こえ、正座していた足を崩す人がいた。読経が終わったのである。

「かしこかったの、次は説教やで」

 おばあちゃんが退屈している僕を慰めるように、小さな声で教えてくれた。

「説教が始まるで」

 外で遊んでいる子供たちを座敷の前の方に座らせた、僕は祖母の横のままである。

「昔、あるところに水太郎(みずたろう)、火太郎、石太郎という男の子の三兄弟がいたとな。この兄弟は他人からは見分けのつかないほどよく似ていたそうな」

 お坊さんの説教がはじまった。それまで長々と続く読経にうんざりしていた僕は目を輝かせて聞き入った。

「あるとき、三兄弟の住む村に大きな鬼がやってきて村人を苦しめたので、三兄弟が鬼退治に行くことになった」

「鬼ぐらい、おれ一人でいいや」

ということで火太郎がひとりで出て行った。

山や谷をいくつも越えて行くと突然鬼が前を遮(さえぎ)った。

「おーおー、これは丸々と太って美味(おい)しそうな男の子だ、よし、お前を煮(に)て食べてやろう」

 と、鬼は大きな釡に水をいっぱい溜(た)めてぐらぐら煮たてた。

「鬼さん、俺(おれ)は食べられる前にいちど家へ帰ってかあさんに別れを行ってきたい」

 と、頼むと

「そうだの、それぐらいは許してやろう、早く帰ってこいよ」

 鬼さんは火太郎を家へ帰らせた。

 家へ帰った火太郎は「水太郎、お前の番だ」

 と言って水太郎を行かせた。

「鬼さん待たせたね」

「おーおー待った、さあ煮てやるから釡の中に入れ」

 水太郎は鬼にせかされるままに熱湯の中に飛び込んだ。

「鬼さん、いい湯だけどちょっとぬるいよ、もう少し焚(た)いてください」

「なに、ぬるいとな、どれどれ、あちちち」

 熱湯に手を突っ込んだ鬼は飛び上がった。

「煮てだめなら焼いて食べよう」

 鬼は木を集めて火を熾(おこ)す支度を始めた。

「鬼さん、俺はおっかさんに煮て食べられる。と別れてきた。焼かれるのならそのように言って別れを言いたい」

 と鬼さんにお願いして家へ帰らせてもらった。

「火太郎、お前の番だ」

 火太郎は水太郎に代わって、なにくわぬ顔で鬼の所に行った。

「鬼さん、おそくなったね、さあ焼いてください」

 男の子はゴーゴーと燃え盛る炎の中に入っていった。

「鬼さん、気持ちいいよ、でも、もう少し木をくべてください」

「えい、焼いてもだめなら叩き潰して食べてやる」

 鬼は大きな石の上に火太郎を寝かせて石で叩(たた)こうとした。

「鬼さん、俺は焼かれると言っておっかさんと別れてきたから石で潰(つぶ)されるならそのように言って別れてきたい」

 と鬼さんにお願いして家へ帰らせてもらった。

 今度は石太郎の出番である。

「鬼さん遅(おそ)くなりました」

 石太郎は自分から石の上に横になりました。

 鬼が石を持っていくら叩いても潰(つぶ)れません。

「おかしいな、なんで潰れないのだ」

 鬼が必死になっているとき、兄弟が三人そろいました。

「俺たちは、水から生まれた水太郎と、火から生まれた火太郎、石から生まれた石太郎の三兄弟だ、今までの悪事を懲らしめてやる」

 火太郎の体から発する炎が、めらめらと立ち上って鬼を包み込みました。

「あちちち」

 鬼はあわてて川のなかに飛び込みました。

 すかさず水太郎が鬼の足をつかんで深いところに引きずり込んだので、

「あっぷあっぷ」

 したたか水を飲んで溺(おぼ)れそうになった鬼が、必死になって岸に這い上がったところへ石太郎が背中にどんと座(すわ)ったので鬼は動きがとれません。

「降参(こうさん)、降参、もうけっして悪いことはしません」

 鬼は、ほうほうのていで逃げ去ったということです。めでたしめでたし。

 

 このような説教(せっきょう)だった。この物語は記憶に基づくもので実際には30分ほども続いた。

 法要が終わると檀家(だんか)が集まって作ったお斎(とき)(いわゆる昼食)のふるまいを受けて家に帰った。

 漆塗りのお椀で食べる精進料理のほとんどは家でも食べる程度のものだったが、小さなサイコロ形に切った豆腐の味噌汁は、このときだけだった。家では豆腐を味噌汁に入れることは大変な贅沢だったのだ。

 当時は、テレビもラジオもない時代である。僕ら子供は説教のある聴聞(ちょうもん)を心待ちしていた。

 

 

 百葉箱

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 小学校の前庭に百葉箱と雨量計があった。百葉箱の中には気温と湿度を測る乾湿計が置いてあった。

 百葉箱の周辺は芝生になっていて、その中に雨量計が半分土中に埋められた状態で設置してある。

 授業で使うのは高学年になってから1回だけであとは放置状態だった。

 5年の夏休みのとき、ある生徒の発案により期間中の気温と雨量を、日割りで担当者を決めて記録したことがあった、午後3時の測定だ。

 僕の当番日、測定を開始すると雨量が多いことに気づいた。昨日の午後3時から今まで晴れて夕立も無かったのに1リットル以上ある。メスシリンダーに移すと黄色の色が付いていた。

「オシッコだ」

 僕は測定をやめて前の小川で器具を洗い元の設置場所に収めた。

 さて、百葉箱に置いてある記録簿に何と記入するか迷った。空白では怠けて測定に行かなかったと思われる。結局、該当日の枠に「オシッコ」と書いた。

 2学期が始まって理科の時間だった。記録簿を出してきた担任の男先生が黒板に数値を写していたが、ふと、手を止めて該当日の担当は誰だと聞かれた。

 僕が手を上げると先生から一言、

「ふざけんな」

 と怒られた。でも本気で怒ってはいない、どちらかと言えば笑いながらである。そのとき数人の女生徒が自分のときもオシッコだった、と言った。

「それでどうしたんや」

 先生が言った。

「測りました」

 女生徒たちは、通常通り計測して記録簿にも記入していた。

「だって、オシッコだとは思うけどするところを見たわけでもないし」

 女生徒は口をそろえた。

「色を見れば分かるやろ、臭いもするやろし」

「どうしたんや」

 僕の言葉をさえぎって先生が言った。

「測らずに捨てて前の小川で洗いました」

 僕の返事は無視して先生は該当日を黒板の端の方に記録した。「〇月〇日は雨降ったか」と皆に聞いていたが、そのうち職員室に行って宿題になっていた絵日記を数冊持ってきた。

 誰の絵日記かは分からなかったが、不審な日を絵日記の天気欄と対査していった。いずれの日も晴れだった、3回あった。

 いつも学校の庭や校庭で遊んでいる近所の幼い男の子数人がイタズラしたようだということになった。夏休み前の日曜日だったがオシッコしている男の子を見たという女生徒が僕を援護してくれたのだ。

 幼い子が雨量計にオシッコを入れたことは無理ないと僕は思っていた。

 きれいに刈り取られた芝生の中から径20数センチの受水口が出た形は、幼児ばかりではなく小学生だった僕でもやってみたいという衝動にかられるツボであった。もちろん実行する勇気はなかったが…。

先生は黒板に書いた該当日の数値に斜線を入れた。

 以後数日間、同級生の男の子は僕に「ふざけんな」と冗談を言った。

 この年、気温は32度、33度という日は続いたが、現在のような35度を超えることはなかった。

 梅雨が開けて10日間ほどは晴天が続き、8月に入ると雷雨がたびたび発生した。

 ある日午後3時ごろ、ものすごい雷雨に襲われていた。今日の担当者は計りに行けないだろうと思っていたら計測はちゃんとできていた。その日は女生徒の担当で母親が行ってくれたのだった。これには驚いた。当時、子のするべき用事を親が代わってするという発想が僕にはなかった。わが家では絶対ありえないのである。

「行くな」とは言っても「行ってやる」なんて言う親ではなかった。

 

 中学校は体育館の裏側に設置してあったが放置状態だった。

 小中学校とも風力計もあったはずだが、どこにあったのか記憶がない。

オルガン

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 小学校の1年から6年までの各教室にオルガンが1台ずつあった。

 オルガンはアコーディオンやハーモニカのようにリードを風で振動させて音を出すもので、足踏み式のフイゴを動力源としていた。

 1年から4年生までは女先生がクラス担任になり、音楽を含むすべての教科を受け持っていた。5年と6年の担任は男先生になり、音楽も音大を出た女先生が担当していた。

先生は足でペダルを踏みながら鍵盤を弾いて、バフバフとペダルを踏む音とともに楽音を出していた。

講堂兼体育館の舞台横にはグランドピアノが置いてあり、時々移動してピアノの前で授業を受けることがあった。

中学校になると体育館の舞台の裏に、残響を防ぐ吸音壁と吸音天井の付いた本格的な音楽室が出来たので音楽の授業はすべてこちらで行われた。

各クラスにオルガンはなかった。

 

寄合(よりあい)

 午後7時を過ぎているのに祖母は家の中にいる。

「おばあちゃん、もう7時を過ぎとるで、今夜は寄合だろ」

 寄合と言っている集落の会合場所は集落の外れ近くにある寺だ、祖母の足では10分はかかる。

「そんなに、待ってましたというように早く行くものではない」

 祖母は時間調整をしていたのだ。

「まだ、誰も来ていない」

 平然と構え、家を出て行ったのは20分を過ぎていた。

「時間どおりに始めるから」

 と連絡はあったのに誰ひとりとして定めた時間までに集まる人はいなかった。

大阪

 中学1年の夏休みに大阪の叔母の家へ遊びに行った。

 夏休みが始まるとすぐに従兄が遊びに来て、8月14日までを僕の家で遊び、後半を大阪へ行くことにした。

 8月14日早朝、すっかり夜は明けていた。田舎の朝は早い。近所のおばさんが、もう田んぼに入って稲の草取りをしている。

「おはようございます」

 あいさつをしながら村道を歩いて駅に向かっている。

「どこへ行きんさるかね」

 四つん這いになって草取りをしていたおばさんが腰を伸ばしながら、新しいカッターシャツとズックを穿き、ボストンバッグを持っている僕を見た、中には着替えと二人分のオニギリが入っている。

「大阪」

 僕は誇らしげに言った。初めての旅行である、今まで汽車に乗るのは小学6年の修学旅行で松江へ行ったのが一番遠かった。今日は一日中汽車に乗って大阪まで行くのだ。朝5時30分発の大阪行きに乗れば乗り換えなしで大阪には夜の9時ごろ着く。気分は最高潮だ。

「ほう、遠くへ行きんさるな、気をつけてや」

 おばさんに送られて駅へ急いだ。

 当時は蒸気機関車だった。客車は大阪まで変わらないが機関車は、米子、鳥取、福知山などで交換しながら走っていた。

 各駅停車だ、大阪までいったい何十か所の駅があるかは分からない、

― 百か所近いぞ。

 僕は思った、それだけ長く乗ることがうれしい。

 のんびりと走っていく車窓を飽くこともなく見つめている。

 弁当は母が作ってくれた大きなおにぎりだ。夏の暑い日だから腹痛を起こしてはいけないと焙烙(ほうろく)鍋で両面をこんがりと焼いてくれている。おにぎりをほおばり、指でつまんだタクアンをポリポリかじっている。

 宝塚を過ぎたころには日はとっぷり暮れていた。沿線の街灯や民家の灯、工場の明かりが増えている。

 9時過ぎに大阪駅へ着いた。従兄の兄さんがホームまで迎えに来てくれていた。

 環状線の電車に乗り、立って車窓を見ていた僕に「どうや、人が多いやろ」

 兄さんが言った。阪急百貨店の前を大勢の人がせわしなく動いていた。ちょうど横断歩道を大勢の人が渡り始めたときだ。両側から集団が向かっていく、映画でみる合戦のようだ。

 大阪はこんなところだと想像していたから別に驚いてもいなかったが、「祭りみたいや」と応えた。

「そうやろ、どこへ行ってもこんなんやで」兄さんは得たり顔で言った。

 

♫月が出た出た 月が出た(ヨイヨイ)三池炭鉱の上に出た・・・

 町中に響く拡声器の音が流れている。煌々と電燈の灯に照らし出された広場に行くと大勢の人が輪になって踊っていた。周りを囲むように立っている人もいっぱいいる。

「すごい」

 僕は圧倒された。僕の村では裸電球一つの薄暗い寺の庭でせいぜい2,30人しか集まらない。さすが大阪だと圧倒された。

 

「夜8時からテレビでプロレス中継がある」と、従兄と近所の食堂に行った。

「ソフトクリームをプロレスが終わるまでゆっくり食べるんだよ」

 従兄は無理なことを言ったが、当時一般家庭にテレビのある家は少なく、従兄の家にも無かった。中継が始まると狭い食堂の中は皆がテレビの方を見て食事をしている者はいない。

 水を張ったプールの中に特設したリングの中で女子プロが闘っている。

 初めて見る女子のプロレスだった。相手選手を肩車してリング外に放り出す。投げられた選手は大きな水しぶきをあげて水の中に沈んだ、浮かび上がった選手をリングに引っ張りあげようと手を差し伸べたレフリーを水の中に引き落とした。

 食堂の外まで人があふれて「ソレソレ」と声援を送っていた。

 

 雨の日、市電の一番前で前方を見ていた。

   5年生のとき、同級生のM君が大阪へ旅行に行ってきたとき、「大阪は駅から駅の間の距離が短い、今停まっている駅から次の駅が見えている」と言っていたことを思い出した。

 僕の村を通っている山陰本線は、そんな短い距離の駅はない、次の駅へ行くまでに5分はかかっている。M君の言うことが分からなかったが、市電の駅なら次の駅が見えている。M君は市電の駅のことを言っていたのだと気づいた。

 向こうから線路の上をオート三輪がこちらに走って来る。

― 勢いよく走っているな。

 と思ったとき、かのオート三輪が急ハンドルを切ってレールから外れたところで転んだ。

「あー」

 と声をあげたのは僕だ、完全に車輪が上になって裏返ったオート三輪の横を、市電は何事もなかったように通り過ぎた。

 裏返しになった運転席では男の人が地に足をつけて立っていた。

 ふしぎに思った。

 当時のオート三輪は大型バイクを三輪にして後部に荷台を付けたようなものだった。

 運転者は運転席にまたがって座り横棒式のハンドルで勇ましく運転していた。

 安定も悪く今回のような転覆事故を多く起こしていた。

 

 ある日、従兄は僕を連れて映画を観に行った。映画館に入ると最前列席に行ったがそこはもう多くの人が座っていたので左横から三番目の席だった。二列目以降は空いている。

 映画が始まった。ところが映画をこんな位置からみると画像はひずんでまともな画になっていない。

― なんでこんなところで見るんだろう。

 なにがなんやら分からないまま一本目が終わったとき、パッと舞台に照明が当たり、

横から前の人の肩に両手を載せた女性が一列になって入ってきた。

ワーと歓声があがった。

 初めて見るラインダンスだった。

 横一列で音楽に合わせて踊りながら、片足を思い切り上げて踊っている。

 僕の目前のダンサーが足を思い切り上げたとき、網タイツを穿いている太ももの裏に大きな穴が開いているのを僕の目は捉えた。(この項は、前述の映画と重複)

 

 日曜日、従兄の兄が僕と従兄を奈良へ連れて行ってくれた。

「大仏さんを見たい」という僕の希望をいれてくれたのだ。

 大仏はあまり大きくないと思った。

「掌に人間が載れるんやで」

 兄さんが教えてくれても「そんなもんかな」としか思わない、大きな大仏殿が大仏さんを小さく見せているのだ。

 興福寺五重の塔の一般公開をしていた。

「すごいぞ、こんなことめったにない、この塔の一般公開はほとんどない」

 兄さんは興奮して料金を払っていた。

 中に入ると大きな一本柱(心柱)が地から上に直立しており、その柱を支柱にして階層ができていた。各階には部屋があると思っていたのに部屋は無い。

「この塔は全国にある塔のなかでも古い形だ、心柱から直接階を作っているのはここだけだ」

 兄さんの言うことがよく理解できなかったが日本にある多くの塔の心柱は建物とつながっていないということだった。

 これまで僕は五重の塔のような細長い建物は台風が来たら倒れると思っていた。ところがこれなら風に強いはずだと気づいた。

 最上階の狭い窓をくぐって外にでるとすぐそこに大仏殿が見えていた。

 大仏殿もまた僕の想像していたものより小さく見えた。

「大きい」と聞いて、こんなに大きいのかなと想像していたものがはるかに大きいものだったので現物が小さく見えたのだ。

 

 大阪環状線の京橋から森ノ宮の間に大きな廃工場が放置してあった。茶色に錆びついた屋根には無数の穴が開いていた。

「戦争中陸軍の砲兵廠があったところや、終戦の前の日に米軍の爆撃によって多くの犠牲をだしたが、その多くは若い女性だったらしい」

 従兄の兄さんが教えてくれた。

「不発弾が多いため今でも手をつけられないらしい」

 従兄が付け加えた。

 

 従兄と2人で海水浴へ行った。市電を乗り継いで到着したのは堺の出島海水浴場だった。多くの人が泳いでいた。

 海の水は濁り、油が浮いている、こんな汚いところが海水浴場かと驚いた。水に顔をつけるのが気持ち悪い。それでも水温が高いのでなん時間でも泳ぐことができそうだ、僕の村の海水は綺麗だが冷たい、10分も水の中にいたら歯はガチガチと鳴り、唇も真っ青になってしまう。

 

 8月25日、田舎へ帰る日が来た。もう少し大阪に居たいが、僕の地域には「行くな7日、帰るな9日」といって旅を嫌う日があった。7のつく日に旅にでるな、9のつく日に帰って来るな」と言っていた。迷信だと分かっていても極力これを避けた。だから25日にしたのだ。それに夏休みの宿題を全然していなかった。

帰りは、京都駅を23時に出発する夜行列車にした。従兄と従兄の兄さんが京都駅まで送ってきてくれた。0番線ホームに浜田行各停夜行列車はすでに入線している。

夜行と言っても寝台車ではなく2人ずつ向かい合って座るボックス席だった。それでも客が少なかったから2人分を1人で占有できた。

僕の向かいの席は松江へ帰るという20代の女性だった。

発車と同時に横になった。2人分を占有していても長さは短いので腰を90度に曲げて足を折りたたまなければならなかった。

 窮屈な姿勢で寝ているから、夜中に何回かは目は覚めたが、それでもよく寝ることができた。

 目が覚めると前の席にいるお姉さんがいない。あれ!と思ったら、すでに松江をすぎていた。

 夜が明けた。あとは僕の村の最寄り駅に着いたときに降りればいい。

 初めての一人旅だったが心細くはなかった。