温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

桐と松

 盆の数日前、祖母が隣町から兄弟3人分の下駄を買ってきた。

 盆踊りに履く歯の短い下駄である。さっそく履いてみようと玄関に持っていくと、

「だめだ、新しい物は夜におろすものではない」

 迷信を信じる祖母に止められた。しかたない、明日の朝にするかと座敷の隅に3人分を並べて置いた。

「あれ、この下駄軽いな」

 長兄の下駄を持った僕が驚いた、長兄のは桐の下駄だったのだ。

 次兄と僕のは松材で作ったもので、ドッシリと重い。

「松の方が強い、お前らは乱暴に履くから松の方がいい」

 祖母が言った。

 長兄の分だけ値段の高い桐の下駄を買い、次兄と僕のは安価な松材だったのだ。今までずっとそうしてきたらしい。

 祖母はちょっとだけ気まずい顔をしたが僕はそれでもいいと思った、新しい下駄で盆踊りに行けるのだ。

 

 当時、雨の日にはゴム長靴を履いていたが、それ以外はゴム草履や下駄を使っていた。

 小学校でも上級生になると下駄で通学し、校舎の玄関でわら草履(ぞうり)の上履きに履き替え下駄は下足箱に入れて置いた。

 校庭で遊ぶときや体操も裸足だったから通学に下駄を履いても不自由はない。

 冬の雨や雪の日以外は黒足袋で下駄を履いた。

 正月にも新しい下駄を買ってくれることもあった。この下駄は足の指を寒さから守るためのカバーが付いていた。

 中学生になると上履きはズック靴に替わったが、男生徒は下駄で通学する者も多かった。

 僕も高下駄を履いて通学していた。高下駄になると台は桐材で歯は版画などに使う朴(ほうの)木(き)だった。またこの歯は摩耗するので下駄屋へ持っていくと安い値段で新しいのと交換してくれた。

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 製糖工場

 高校2年の春、国鉄の汽車で通学していた。

 学校があるのは僕の家の最寄り駅から三つ目の駅だったが、その一つ手前の駅裏手で造成工事が始まった。

 大きな工場が建つらしく、既存の町営住宅を別の場所に移し、さらに周辺の松林も切り開いて平地に造成した。

 この町営住宅に住んでいた同級生が「松などの材木からショ糖を造る工場だ」と言った。

 僕が通っているのは工業高校の工業化学科である。木材はブドウ糖グルコース)が直線状に結合したセルロースからできていることは知っていたから、面白いと思った。

工場の完成は僕らが卒業する頃だ。

―ひょっとして、多くの社員を募集するかもしれない、特に工業化学科卒業生は優遇されるだろう。

 大いに期待した。

 ところが造成が終ったところで工事が止まった。

―どうしたのか。

 僕の期待を裏切る様に工事は止まったままである。

 造成地には草木が生い茂った。

ーどうなったんや。

 3年のとき同級生に聞いた。

「安価な砂糖が大量に輸入されるようになったので、工場を造っても採算に合わないらしい」

 同級生は言った。

―そんなこと、計画段階で分かっていたことだろう。

 僕はひどくガッカリした。

兄弟おじさん

 小6から新聞配達をしたアルバイト先は40代と30代のおじさん2人で地域の中継配送を受け持っていた。おじさんたちは午前3時に出発して30キロほど離れた町まで当日の朝刊を受け取りに行き、受け持ち地区内に配送していた。

 そのために自動車やオートバイが必要である。当時は、やっと庶民の乗る国産乗用車が出てきたばかりで、僕が初めて見たのは大型オートバイを三輪にしたようなオート三輪であった。

 運転者はオートバイと同じようにイスを跨いで座り、オートバイと同じ横棒式のハンドルで運転していた。運転席にドアはなかったので雨や雪の日には旧陸軍のゴム合羽を着ていた、兄さんは帝国陸軍の軍曹だったのだ。

 僕の家では、女性の日雇い仕事の2日分しかない僕のアルバイト料も家計に組み込まれるほど貧乏をしていたので、当時は村に数台しか自動車のない時代に次々と新車を手に入れる兄弟おじさんには驚きだった。

  僕がアルバイトをしていた3年の間に、国産第一号のスクーター「ラビット」、大型バイク、現在のような丸いハンドルでドア付のオート三輪と次々に替わっていった。

 バイクは映画で視るドイツ軍のバイクのように大型で、エンジンから後輪への伝動はチェーンではなく太いシャフトであった。

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温泉津町福光・遥かなるふるさと(追補版)

 よもやま物語

聴聞

 僕の家から見える位置に3軒のお寺があり、それぞれ真言宗、浄土宗と禅宗であった。

 これらのお寺では数年ごとに法会が行われていた。

 ある日曜日、真言宗のお寺で法会(ほうえ)があった。数年にいちど行われる法要(ほうよう)で読経と説教がある、そのうえお斎(とき)がある。

「今日は偉いお坊さんがきて説教をしてくれる」

 おばあちゃんに誘われてお寺へ行った。村中の子供たちも集まって遊んでいた。

 だが、僕は祖母の横に座って長い時間続く読経が終わるのを待っていた。その間はじっと我慢して座っているだけである。

 他の子供たちは本堂の外で遊んでいたが僕はいつの場合も祖母の横で静かにしていた。

 やがて、あちこちから咳払(せきばら)いが聞こえ、正座していた足を崩す人がいた。読経が終わったのである。

「かしこかったの、次は説教やで」

 おばあちゃんが退屈している僕を慰めるように、小さな声で教えてくれた。

「説教が始まるで」

 外で遊んでいる子供たちを座敷の前の方に座らせた、僕は祖母の横のままである。

「昔、あるところに水太郎(みずたろう)、火太郎、石太郎という男の子の三兄弟がいたとな。この兄弟は他人からは見分けのつかないほどよく似ていたそうな」

 お坊さんの説教がはじまった。それまで長々と続く読経にうんざりしていた僕は目を輝かせて聞き入った。

「あるとき、三兄弟の住む村に大きな鬼がやってきて村人を苦しめたので、三兄弟が鬼退治に行くことになった」

「鬼ぐらい、おれ一人でいいや」

ということで火太郎がひとりで出て行った。

山や谷をいくつも越えて行くと突然鬼が前を遮(さえぎ)った。

「おーおー、これは丸々と太って美味(おい)しそうな男の子だ、よし、お前を煮(に)て食べてやろう」

 と、鬼は大きな釡に水をいっぱい溜(た)めてぐらぐら煮たてた。

「鬼さん、俺(おれ)は食べられる前にいちど家へ帰ってかあさんに別れを行ってきたい」

 と、頼むと

「そうだの、それぐらいは許してやろう、早く帰ってこいよ」

 鬼さんは火太郎を家へ帰らせた。

 家へ帰った火太郎は「水太郎、お前の番だ」

 と言って水太郎を行かせた。

「鬼さん待たせたね」

「おーおー待った、さあ煮てやるから釡の中に入れ」

 水太郎は鬼にせかされるままに熱湯の中に飛び込んだ。

「鬼さん、いい湯だけどちょっとぬるいよ、もう少し焚(た)いてください」

「なに、ぬるいとな、どれどれ、あちちち」

 熱湯に手を突っ込んだ鬼は飛び上がった。

「煮てだめなら焼いて食べよう」

 鬼は木を集めて火を熾(おこ)す支度を始めた。

「鬼さん、俺はおっかさんに煮て食べられる。と別れてきた。焼かれるのならそのように言って別れを言いたい」

 と鬼さんにお願いして家へ帰らせてもらった。

「火太郎、お前の番だ」

 火太郎は水太郎に代わって、なにくわぬ顔で鬼の所に行った。

「鬼さん、おそくなったね、さあ焼いてください」

 男の子はゴーゴーと燃え盛る炎の中に入っていった。

「鬼さん、気持ちいいよ、でも、もう少し木をくべてください」

「えい、焼いてもだめなら叩き潰して食べてやる」

 鬼は大きな石の上に火太郎を寝かせて石で叩(たた)こうとした。

「鬼さん、俺は焼かれると言っておっかさんと別れてきたから石で潰(つぶ)されるならそのように言って別れてきたい」

 と鬼さんにお願いして家へ帰らせてもらった。

 今度は石太郎の出番である。

「鬼さん遅(おそ)くなりました」

 石太郎は自分から石の上に横になりました。

 鬼が石を持っていくら叩いても潰(つぶ)れません。

「おかしいな、なんで潰れないのだ」

 鬼が必死になっているとき、兄弟が三人そろいました。

「俺たちは、水から生まれた水太郎と、火から生まれた火太郎、石から生まれた石太郎の三兄弟だ、今までの悪事を懲らしめてやる」

 火太郎の体から発する炎が、めらめらと立ち上って鬼を包み込みました。

「あちちち」

 鬼はあわてて川のなかに飛び込みました。

 すかさず水太郎が鬼の足をつかんで深いところに引きずり込んだので、

「あっぷあっぷ」

 したたか水を飲んで溺(おぼ)れそうになった鬼が、必死になって岸に這い上がったところへ石太郎が背中にどんと座(すわ)ったので鬼は動きがとれません。

「降参(こうさん)、降参、もうけっして悪いことはしません」

 鬼は、ほうほうのていで逃げ去ったということです。めでたしめでたし。

 

 このような説教(せっきょう)だった。この物語は記憶に基づくもので実際には30分ほども続いた。

 法要が終わると檀家(だんか)が集まって作ったお斎(とき)(いわゆる昼食)のふるまいを受けて家に帰った。

 漆塗りのお椀で食べる精進料理のほとんどは家でも食べる程度のものだったが、小さなサイコロ形に切った豆腐の味噌汁は、このときだけだった。家では豆腐を味噌汁に入れることは大変な贅沢だったのだ。

 当時は、テレビもラジオもない時代である。僕ら子供は説教のある聴聞(ちょうもん)を心待ちしていた。

 

 

 百葉箱

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 小学校の前庭に百葉箱と雨量計があった。百葉箱の中には気温と湿度を測る乾湿計が置いてあった。

 百葉箱の周辺は芝生になっていて、その中に雨量計が半分土中に埋められた状態で設置してある。

 授業で使うのは高学年になってから1回だけであとは放置状態だった。

 5年の夏休みのとき、ある生徒の発案により期間中の気温と雨量を、日割りで担当者を決めて記録したことがあった、午後3時の測定だ。

 僕の当番日、測定を開始すると雨量が多いことに気づいた。昨日の午後3時から今まで晴れて夕立も無かったのに1リットル以上ある。メスシリンダーに移すと黄色の色が付いていた。

「オシッコだ」

 僕は測定をやめて前の小川で器具を洗い元の設置場所に収めた。

 さて、百葉箱に置いてある記録簿に何と記入するか迷った。空白では怠けて測定に行かなかったと思われる。結局、該当日の枠に「オシッコ」と書いた。

 2学期が始まって理科の時間だった。記録簿を出してきた担任の男先生が黒板に数値を写していたが、ふと、手を止めて該当日の担当は誰だと聞かれた。

 僕が手を上げると先生から一言、

「ふざけんな」

 と怒られた。でも本気で怒ってはいない、どちらかと言えば笑いながらである。そのとき数人の女生徒が自分のときもオシッコだった、と言った。

「それでどうしたんや」

 先生が言った。

「測りました」

 女生徒たちは、通常通り計測して記録簿にも記入していた。

「だって、オシッコだとは思うけどするところを見たわけでもないし」

 女生徒は口をそろえた。

「色を見れば分かるやろ、臭いもするやろし」

「どうしたんや」

 僕の言葉をさえぎって先生が言った。

「測らずに捨てて前の小川で洗いました」

 僕の返事は無視して先生は該当日を黒板の端の方に記録した。「〇月〇日は雨降ったか」と皆に聞いていたが、そのうち職員室に行って宿題になっていた絵日記を数冊持ってきた。

 誰の絵日記かは分からなかったが、不審な日を絵日記の天気欄と対査していった。いずれの日も晴れだった、3回あった。

 いつも学校の庭や校庭で遊んでいる近所の幼い男の子数人がイタズラしたようだということになった。夏休み前の日曜日だったがオシッコしている男の子を見たという女生徒が僕を援護してくれたのだ。

 幼い子が雨量計にオシッコを入れたことは無理ないと僕は思っていた。

 きれいに刈り取られた芝生の中から径20数センチの受水口が出た形は、幼児ばかりではなく小学生だった僕でもやってみたいという衝動にかられるツボであった。もちろん実行する勇気はなかったが…。

先生は黒板に書いた該当日の数値に斜線を入れた。

 以後数日間、同級生の男の子は僕に「ふざけんな」と冗談を言った。

 この年、気温は32度、33度という日は続いたが、現在のような35度を超えることはなかった。

 梅雨が開けて10日間ほどは晴天が続き、8月に入ると雷雨がたびたび発生した。

 ある日午後3時ごろ、ものすごい雷雨に襲われていた。今日の担当者は計りに行けないだろうと思っていたら計測はちゃんとできていた。その日は女生徒の担当で母親が行ってくれたのだった。これには驚いた。当時、子のするべき用事を親が代わってするという発想が僕にはなかった。わが家では絶対ありえないのである。

「行くな」とは言っても「行ってやる」なんて言う親ではなかった。

 

 中学校は体育館の裏側に設置してあったが放置状態だった。

 小中学校とも風力計もあったはずだが、どこにあったのか記憶がない。

オルガン

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 小学校の1年から6年までの各教室にオルガンが1台ずつあった。

 オルガンはアコーディオンやハーモニカのようにリードを風で振動させて音を出すもので、足踏み式のフイゴを動力源としていた。

 1年から4年生までは女先生がクラス担任になり、音楽を含むすべての教科を受け持っていた。5年と6年の担任は男先生になり、音楽も音大を出た女先生が担当していた。

先生は足でペダルを踏みながら鍵盤を弾いて、バフバフとペダルを踏む音とともに楽音を出していた。

講堂兼体育館の舞台横にはグランドピアノが置いてあり、時々移動してピアノの前で授業を受けることがあった。

中学校になると体育館の舞台の裏に、残響を防ぐ吸音壁と吸音天井の付いた本格的な音楽室が出来たので音楽の授業はすべてこちらで行われた。

各クラスにオルガンはなかった。

 

寄合(よりあい)

 午後7時を過ぎているのに祖母は家の中にいる。

「おばあちゃん、もう7時を過ぎとるで、今夜は寄合だろ」

 寄合と言っている集落の会合場所は集落の外れ近くにある寺だ、祖母の足では10分はかかる。

「そんなに、待ってましたというように早く行くものではない」

 祖母は時間調整をしていたのだ。

「まだ、誰も来ていない」

 平然と構え、家を出て行ったのは20分を過ぎていた。

「時間どおりに始めるから」

 と連絡はあったのに誰ひとりとして定めた時間までに集まる人はいなかった。

大阪

 中学1年の夏休みに大阪の叔母の家へ遊びに行った。

 夏休みが始まるとすぐに従兄が遊びに来て、8月14日までを僕の家で遊び、後半を大阪へ行くことにした。

 8月14日早朝、すっかり夜は明けていた。田舎の朝は早い。近所のおばさんが、もう田んぼに入って稲の草取りをしている。

「おはようございます」

 あいさつをしながら村道を歩いて駅に向かっている。

「どこへ行きんさるかね」

 四つん這いになって草取りをしていたおばさんが腰を伸ばしながら、新しいカッターシャツとズックを穿き、ボストンバッグを持っている僕を見た、中には着替えと二人分のオニギリが入っている。

「大阪」

 僕は誇らしげに言った。初めての旅行である、今まで汽車に乗るのは小学6年の修学旅行で松江へ行ったのが一番遠かった。今日は一日中汽車に乗って大阪まで行くのだ。朝5時30分発の大阪行きに乗れば乗り換えなしで大阪には夜の9時ごろ着く。気分は最高潮だ。

「ほう、遠くへ行きんさるな、気をつけてや」

 おばさんに送られて駅へ急いだ。

 当時は蒸気機関車だった。客車は大阪まで変わらないが機関車は、米子、鳥取、福知山などで交換しながら走っていた。

 各駅停車だ、大阪までいったい何十か所の駅があるかは分からない、

― 百か所近いぞ。

 僕は思った、それだけ長く乗ることがうれしい。

 のんびりと走っていく車窓を飽くこともなく見つめている。

 弁当は母が作ってくれた大きなおにぎりだ。夏の暑い日だから腹痛を起こしてはいけないと焙烙(ほうろく)鍋で両面をこんがりと焼いてくれている。おにぎりをほおばり、指でつまんだタクアンをポリポリかじっている。

 宝塚を過ぎたころには日はとっぷり暮れていた。沿線の街灯や民家の灯、工場の明かりが増えている。

 9時過ぎに大阪駅へ着いた。従兄の兄さんがホームまで迎えに来てくれていた。

 環状線の電車に乗り、立って車窓を見ていた僕に「どうや、人が多いやろ」

 兄さんが言った。阪急百貨店の前を大勢の人がせわしなく動いていた。ちょうど横断歩道を大勢の人が渡り始めたときだ。両側から集団が向かっていく、映画でみる合戦のようだ。

 大阪はこんなところだと想像していたから別に驚いてもいなかったが、「祭りみたいや」と応えた。

「そうやろ、どこへ行ってもこんなんやで」兄さんは得たり顔で言った。

 

♫月が出た出た 月が出た(ヨイヨイ)三池炭鉱の上に出た・・・

 町中に響く拡声器の音が流れている。煌々と電燈の灯に照らし出された広場に行くと大勢の人が輪になって踊っていた。周りを囲むように立っている人もいっぱいいる。

「すごい」

 僕は圧倒された。僕の村では裸電球一つの薄暗い寺の庭でせいぜい2,30人しか集まらない。さすが大阪だと圧倒された。

 

「夜8時からテレビでプロレス中継がある」と、従兄と近所の食堂に行った。

「ソフトクリームをプロレスが終わるまでゆっくり食べるんだよ」

 従兄は無理なことを言ったが、当時一般家庭にテレビのある家は少なく、従兄の家にも無かった。中継が始まると狭い食堂の中は皆がテレビの方を見て食事をしている者はいない。

 水を張ったプールの中に特設したリングの中で女子プロが闘っている。

 初めて見る女子のプロレスだった。相手選手を肩車してリング外に放り出す。投げられた選手は大きな水しぶきをあげて水の中に沈んだ、浮かび上がった選手をリングに引っ張りあげようと手を差し伸べたレフリーを水の中に引き落とした。

 食堂の外まで人があふれて「ソレソレ」と声援を送っていた。

 

 雨の日、市電の一番前で前方を見ていた。

   5年生のとき、同級生のM君が大阪へ旅行に行ってきたとき、「大阪は駅から駅の間の距離が短い、今停まっている駅から次の駅が見えている」と言っていたことを思い出した。

 僕の村を通っている山陰本線は、そんな短い距離の駅はない、次の駅へ行くまでに5分はかかっている。M君の言うことが分からなかったが、市電の駅なら次の駅が見えている。M君は市電の駅のことを言っていたのだと気づいた。

 向こうから線路の上をオート三輪がこちらに走って来る。

― 勢いよく走っているな。

 と思ったとき、かのオート三輪が急ハンドルを切ってレールから外れたところで転んだ。

「あー」

 と声をあげたのは僕だ、完全に車輪が上になって裏返ったオート三輪の横を、市電は何事もなかったように通り過ぎた。

 裏返しになった運転席では男の人が地に足をつけて立っていた。

 ふしぎに思った。

 当時のオート三輪は大型バイクを三輪にして後部に荷台を付けたようなものだった。

 運転者は運転席にまたがって座り横棒式のハンドルで勇ましく運転していた。

 安定も悪く今回のような転覆事故を多く起こしていた。

 

 ある日、従兄は僕を連れて映画を観に行った。映画館に入ると最前列席に行ったがそこはもう多くの人が座っていたので左横から三番目の席だった。二列目以降は空いている。

 映画が始まった。ところが映画をこんな位置からみると画像はひずんでまともな画になっていない。

― なんでこんなところで見るんだろう。

 なにがなんやら分からないまま一本目が終わったとき、パッと舞台に照明が当たり、

横から前の人の肩に両手を載せた女性が一列になって入ってきた。

ワーと歓声があがった。

 初めて見るラインダンスだった。

 横一列で音楽に合わせて踊りながら、片足を思い切り上げて踊っている。

 僕の目前のダンサーが足を思い切り上げたとき、網タイツを穿いている太ももの裏に大きな穴が開いているのを僕の目は捉えた。(この項は、前述の映画と重複)

 

 日曜日、従兄の兄が僕と従兄を奈良へ連れて行ってくれた。

「大仏さんを見たい」という僕の希望をいれてくれたのだ。

 大仏はあまり大きくないと思った。

「掌に人間が載れるんやで」

 兄さんが教えてくれても「そんなもんかな」としか思わない、大きな大仏殿が大仏さんを小さく見せているのだ。

 興福寺五重の塔の一般公開をしていた。

「すごいぞ、こんなことめったにない、この塔の一般公開はほとんどない」

 兄さんは興奮して料金を払っていた。

 中に入ると大きな一本柱(心柱)が地から上に直立しており、その柱を支柱にして階層ができていた。各階には部屋があると思っていたのに部屋は無い。

「この塔は全国にある塔のなかでも古い形だ、心柱から直接階を作っているのはここだけだ」

 兄さんの言うことがよく理解できなかったが日本にある多くの塔の心柱は建物とつながっていないということだった。

 これまで僕は五重の塔のような細長い建物は台風が来たら倒れると思っていた。ところがこれなら風に強いはずだと気づいた。

 最上階の狭い窓をくぐって外にでるとすぐそこに大仏殿が見えていた。

 大仏殿もまた僕の想像していたものより小さく見えた。

「大きい」と聞いて、こんなに大きいのかなと想像していたものがはるかに大きいものだったので現物が小さく見えたのだ。

 

 大阪環状線の京橋から森ノ宮の間に大きな廃工場が放置してあった。茶色に錆びついた屋根には無数の穴が開いていた。

「戦争中陸軍の砲兵廠があったところや、終戦の前の日に米軍の爆撃によって多くの犠牲をだしたが、その多くは若い女性だったらしい」

 従兄の兄さんが教えてくれた。

「不発弾が多いため今でも手をつけられないらしい」

 従兄が付け加えた。

 

 従兄と2人で海水浴へ行った。市電を乗り継いで到着したのは堺の出島海水浴場だった。多くの人が泳いでいた。

 海の水は濁り、油が浮いている、こんな汚いところが海水浴場かと驚いた。水に顔をつけるのが気持ち悪い。それでも水温が高いのでなん時間でも泳ぐことができそうだ、僕の村の海水は綺麗だが冷たい、10分も水の中にいたら歯はガチガチと鳴り、唇も真っ青になってしまう。

 

 8月25日、田舎へ帰る日が来た。もう少し大阪に居たいが、僕の地域には「行くな7日、帰るな9日」といって旅を嫌う日があった。7のつく日に旅にでるな、9のつく日に帰って来るな」と言っていた。迷信だと分かっていても極力これを避けた。だから25日にしたのだ。それに夏休みの宿題を全然していなかった。

帰りは、京都駅を23時に出発する夜行列車にした。従兄と従兄の兄さんが京都駅まで送ってきてくれた。0番線ホームに浜田行各停夜行列車はすでに入線している。

夜行と言っても寝台車ではなく2人ずつ向かい合って座るボックス席だった。それでも客が少なかったから2人分を1人で占有できた。

僕の向かいの席は松江へ帰るという20代の女性だった。

発車と同時に横になった。2人分を占有していても長さは短いので腰を90度に曲げて足を折りたたまなければならなかった。

 窮屈な姿勢で寝ているから、夜中に何回かは目は覚めたが、それでもよく寝ることができた。

 目が覚めると前の席にいるお姉さんがいない。あれ!と思ったら、すでに松江をすぎていた。

 夜が明けた。あとは僕の村の最寄り駅に着いたときに降りればいい。

 初めての一人旅だったが心細くはなかった。

 

 

 高校2年のときだった。朝、教室は重苦しい雰囲気に包まれていた。あちらこちらで集まって小声で話している。

「どうしたんや」。

「Yが死んだ」

「Y君か、どうして」

「自殺らしい」

 一番前の列にある自殺した彼の席は空いていた。

 同じ中学出身のO君も事情は知らないようであった。O君は自宅から1時間かけて通学していたが、駅から遠いY君は学校近くで下宿していた。

 教壇に立った担任が鎮痛な面持ちで話し始めた。

「皆も承知のことと思うが、昨夜Y君が自ら命を絶った。警察の話によると彼は下宿先の近くに置いてあった単車を無断で乗っていたらしい。昨夜も乗っていて谷に落ちたようだ。普通では決して持ち上げられない急な谷の底から単車を一人で引っ張り上げて、彼はそのまま山に入ったようだ。彼は自分の肩ベルトで首を吊っていた」

「何も死ぬようなことではないと皆は思うであろうが、責任感の強い彼は死を選んでしまった。本当に残念だ」

 気のやさしい担任は泣いていた。男ばかりの教室でもあちこちですすり泣きの声が漏れていた。

 下宿しているY君は放課後学校の近くにある大判焼きを食べに連れて行ってくれることがよくあった。自殺したという前日も5人ほどで食べに行った、僕もその中にいた。

「遠慮するなよ」

 彼の口癖だった。性格温厚だが男気のあるさっぱりした性格だった。だから、大判焼きを食べに行こうかと言えばついて行った。

 その夜、彼は自殺した。

  僕の心に受けた衝撃は大きかった。

「葬儀出席の許可は出さない」

 と学校から達しがでた。

 同級生が大勢で押しかけたら親御さんが困るだけだ、という理由だった。それでも数人は学校を休んで出席した。僕は行かなかった。学校では通常通りの授業があった。

 次の日曜日、O君の案内で同級生10人ほどとY君の実家へ行ったが家の人は出てこなかった。僕らは家の裏山にあるY君の土葬場所にお参りして帰った。

 翌年、Y君の命日は日曜日に当たるのでお参りに行こうかという話が同級生の間ででたが、

「家の人は喜ばない」

 とO君は制した。彼はこれまで何回かお参りしてきたが家の人には迷惑だったようだと彼は言った。

 親御さんの気持ちを思い、そっとしておく方がいいと思った。

   特に久しくしていた友というわけではないのに、僕の受けたショックは大きく数か月にわたり鬱な日がつづいた。後々考えると友を失ったということもあったが、死に対する恐怖からであった。

 当時、僕は死を一番恐れていた。死ねば二度とこの世には帰れない、数百年、数千年いや数億年経っても帰れない、それが恐ろしかった。

「無い、無い、無い・・・」

 恐怖心から精神が狂いそうになって、あわてて妄念を打ち払い、死のことは考えないようにしていた。

 それを彼はやってしまった。かえすがえす残念だった。 

 彼の冥福を祈った。

青酸カリ

 もう50数年前の話になる。

 当時僕は工業高校の工業化学科3年だった。

 ある日、担任が神妙な面持ちで教室に入ると「皆、よく聞いてほしい」

 いつもニコニコして愛想のいい先生だから皆が親しみを持っている担任だった。こんな神妙な顔を見るのは初めてだった。

「皆、心して聞いてほしい、昨日放課後に実験室の試薬を調べたら青酸カリが1瓶紛失していた」

 化学実験室は別棟の一戸建てになっている。実験の無いときには部屋へ立ち入ることはできないし、青酸カリのような劇薬の保管棚には鍵もかかっている。

実験で必要なときには生徒誰でも自由に持ち出して使うことができた。

「あるいは収納するのを忘れたのかもしれないと思い、教室の隅々まで探したがなかった。君たちには悪いが個人の器具収納箱も調べさせてもらった」

 生徒も自分の使用するビーカーやフラスコ、試験管などを保管しておく木箱を持っているが、個人それぞれが鍵をかけている。スペアキー1個は先生に渡してあるからこれを使って開けたのだろう。

― それにしても大げさな。どうせ誰かのいたずらだろう。

 このとき僕は事の重大さに気づかなかった。

「この中の誰かが、いたずらで持ちだしたのだろう。だが、青酸カリはものすごい毒薬だ。あれを1本、市の貯水池にでも放り込んだら3万人の市民が死んでしまう」

― ヘエーそんなに強いんか。

 僕には先生の切羽詰まった心情が分からなかった。

「どうか、元の場所に戻してくれ部屋も保管棚も鍵は開けたままにしておく、誰がしたのかは一切問わない」

 担任の態度が大げさにしか見えなかった。

 翌日、青酸カリは元の場所に戻っていた。

 担任は親しみのある笑顔を取り戻していた。

「あのなー、あんまり驚かすなよ」

 担任は一言だけ言って一件落着となった。

 

 数十年後、どこかの学校で青酸ナトリウムが紛失し、持ち出した生徒が逮捕されたというニュースを視た。

 

 僕の学校の担任がとった処理方法は良かったのか、あの時、直ちに警察に通報して探すべきではなかったかという疑問はある。だが、生徒を信じた担任の温情は一人の生徒を助けたことにもなる。

 

 

 

 

 

映画

「今晩映画に行くから昼寝しときや」

 野良仕事に出かける母が言った。

「やったー」

 僕は飛び上がって喜んだ、4歳の頃の思い出だから昭和23年頃のことだ。

当時、村に映画館は無く、年に数回公会堂(芝居小屋)に巡回映画が来ていた。

さっそく枕を出して畳の上に横になったが興奮して眠れない、それでも一生懸命目をつむって寝ようとしていた。

ゴザを敷いた公会堂の観客席に多くの村人が胡坐(あぐら)をかいている。

映画の内容は覚えていない、ほとんど寝ていたようである。

映画が終わって外にでると夏とはいえ寒々とした星空があった。

― 家まで歩いて帰るのか。

 歩いて30分かかる家までは遠い。

 嫌だな。と思ったが仕方ない、母に手を引かれて歩き出した。

そのとき、「おんぶしてやろうか」と母がバッグに入れていたおんぶひもを取り出した。僕に内緒で持っていたのだ。

おんぶなんてもうとっくに忘れていた。

「重いな」と言いながら僕を背に載せた。 母の背中は暖かく気持ちいい、いつの間にか寝入っていた。今でも忘れることのない母の背中である。

 

 小学4年のとき、高学年全生徒が学校の行事として公民館に集まり映画「山椒大夫」を視た。

年に数回しか視ることのない映画だ、楽しみにしていた。

始まって30分もすると頭痛がしてきた。

1階フロアいっぱいに生徒が座っているし、光を遮断するためすべての窓は黒く分厚いカーテンで閉め切っているから、酸欠になってくる。僕は特に弱く頭痛はひどくなり、やがては吐き気までしてきた。

ついに映画を諦めて外に出た。厨子王丸を逃がして安寿は入水する場面だった。この続きを視たのは僕が大人になってからである。

 

 中学1年の夏休み、大阪の親戚へ遊びにいった。

 ある日、映画に行ったのに従兄は1番前列の中央に座った。

映画が始まると画面が歪んで見える。なんでこんなところへ座るのか分からないまま1本が終わると舞台が明るくなり、派手な音楽に合わせて20人ほどのダンサーがでてきた。舞台の先端で横1列になって片足を交互に、思い切り上げるラインダンスであった。

圧倒されて見上げる僕の目は、正面で踊るダンサーの網タイツが、腿の裏側で大きく破れているのをとらえた。このときの映画の記憶はない。

 

 中学2年のとき、中学校の体育館で「オズの魔法使い」を視た。これまでの映画は白黒映画だったが初めて視る天然色映画(カラー)だ。

映画が始まると白黒だった、がっかりして視ている。

オズの魔法使いは「アメリカの草原で大竜巻に家ごと巻き上げられた少女が辿りついたのは魔法の国だった。そして草原の家に帰るための冒険をしていく、いろいろと冒険してやっと草原の家に帰り着いたとき目を覚ました」という物語だった。

気を失った瞬間から目を覚ますまでが天然色映画に変わっていた。誰もが初めて視るカラー映画であった。カラーに変わったとき「おー」と会場からどよめきが上がった。

「きれいだ」僕も声をあげていた。

 当時、現在では当たり前になっているカラー映画のことを天然色映画と言った。

 そして映画は総天然色映画に変わっていった。

 

 中学3年生のとき隣町に映画館が出来た。これまでは公会堂や体育館にゴザを敷いて視ていたが映画館はイス席だった。

それも一つの街に2か所もできたものだから値下げ競争に入り150円で視ることができた。

この程度の金額なら僕でもなんとか支払うことができたからよく視に行った。

小林旭の「ギターを持った渡り鳥」シリーズは欠かさず視た。

「ギターを持って流しをしている小林旭が見知らぬ土地に来て、そこに在住する女性と知り合い、その街に暗躍する黒幕をやっつけて、また別の街へと旅立っていく」という物語で西部劇の酒場のようなアクションが続いた。

 

 武者小路実篤の「愛と死」を映画化した、石原裕次郎浅丘ルリ子共演の「世界を賭ける恋」を視たのもこのころである。小説「愛と死」を読んで間の無いころであったし浅丘ルリ子の初々しい美しさに憬れ、僕を文学青年に仕立て上げた。

 

 高校生のころになると巡回映画はなくなり、映画館での上映になっていた。

これまでの映画の画面は正方形に近い形であったものが横に広いシネマスコープが出てきた。

ある日曜日、シネマスコープの「十戒」を視に行くと言って長兄が町の映画館へ行った。新しいその映画館はシネマスコープを放映できるスクリーンを備えていた。

「長かった」

 夕方、帰ってきた長兄はポツリとつぶやくとすぐに寝てしまった。かなり疲れたようだ。

 

 高校3年の二学期、高校の文化祭があった。

 工業高校だったから機械、電気、工業化学、建築、窯業の各科ごとに「どのような勉強をしているのか展示を行った。僕の属している工業化学科ではいろいろな化学実験を展示した。

 だが、展示発表に参加するのは「成績の良い順に15人だ」と担任が言い、名前を発表された。45人中15人だ、僕は漏れた。

「選考されなかった者は運動場でソフトボールでもしていろ」

 担任は言い切った。

「あほらしい」

 僕といつも一緒にいる2人と示し合わせて、学校の裏から抜け出て駅近くにある映画館へ行った。ちょうどそのとき、伊藤左千夫の「野菊の墓」を映画化した「野菊の如き君なりき」を上映中だったのだ。

 映画が終わって校庭に帰ると知らぬ顔してソフトボールを見学した。

「どこかへ行っていたやろ」

 同級生の一人が小さな声で言ったが「うん」僕らはうなずいただけだった。

 学校にはばれなかった。

 

炬燵(コタツ)

堀コタツ

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ネココタツ

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湯タンポ

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コタツ櫓

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 中学2年の11月、朝から冷たい雨が降っていた。

 祖母と母は近所へ葬式の手伝いに行って、家には長兄と僕だけが座敷に寝転んで本を読んでいた。日曜日というのに雨だから外では遊べない。

「寒い」と思ったがまだコタツを出すような時期ではないので我慢していた。

「コタツ出そうか」

 長兄は本を伏せて立ち上がると台所へ行って七輪で炭火を熾した。そして物置からネココタツを出し雑巾で埃をぬぐい取ってから炭火を入れた。

 僕は見ているだけだ。親の留守中に勝手にコタツを出すことなんてもっての外だ、長兄だから許されることだった。

 長兄は鼻歌を歌いながらセッセと動いている。

 座布団の上にネココタツを置いて、敷布団は敷かずに掛布団だけを押し入れから出して掛けた。

 さっそく足を突っ込みネココタツに足を付けると、まだ冷たかったコタツが徐々に温まり、やがて布団の中全体に行き渡ってきた。

 長兄は教科書を再び読み始めた。

 僕は何回も読んでシミの位置まで知っている少年雑誌を閉じて布団に首まで潜った。

 寒さで凝り固まっていた全身の緊張が解けていく。

 いつの間にか寝入っていた。

 当時、家庭にストーブはなく、暖房はコタツだけであった。雪は降り積もっても気温が氷点下になることはほとんどない地域だから、綿入れハンテンを着てコタツがあれば十分に寒さをしのぐことができた。

 夜は、座敷に家族全員がメザシのように並んで寝ていた。寒くなるとそれぞれがネココタツを足元に入れていたが、幼児のころには寝相が悪くコタツをけ飛ばす恐れもあったため湯タンポを入れてくれていた。

 12月下旬、いよいよ寒さが本格的になると納戸の堀コタツを出して、四方から足を突っ込んで寝ていた。

 

 

七輪(シチリン)

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かき餅

 外はみぞれ交じりの雨が降っている。

 せっかくの日曜日だというのに外で遊べない、近所の友達も家から出てこない。長兄や次兄はどこかへ行っている。

「退屈だなー」

 僕はこたつの中から外を眺めているだけだ。

「勉強しいや」

 祖母は言うが僕にその気はない。

「よいしょっと」

 祖母が意を決したようにこたつから出た。

「なにするん」

 僕の言葉を無視して黙々と動いている。無視するということは出来上がりを楽しみに待てと言うことだ。

 祖母は七輪に炭を入れて火を熾し、金網を置いてかき餅を載せた。しばらくするとかき餅がプーっと膨らんできた。左手に持った一本の箸でかき餅を押さえ右手の箸でせっかく膨らんだのをつぶし伸ばしていく。

かき餅は徐々に分厚くなり大きく広がっていった

 焼く前の三倍ほどにもなったかき餅を祖母が箸でつまんで「ほいっ」と僕に渡した。

「ほいっ」と手で受けとった僕は「アチチ」とかき餅を畳の上に放った。しばらくしてから手に取り、口に運んで「ポリッ」と折った。甘みがジワーっと口に広がる。ポリポリと食べながら、次のかき餅に手を出すと、「だめだ」と取り上げられた。

 皆で分けるのがわが家の鉄則だ。全員がそろっているときに等分にする、それまでは食べさせてくれない。

 夜、祖母が出してきたかき餅は冷めて固くなっていたが、焼くときにじっくり時間をかけて伸ばし、芯が残らないようにしているからセンベイのように食べやすかった。

 

 魚スキ

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「スキヤキするから黒ヤイ(グレ、メジナ)を買いに行ってくれるか」

「よっしゃ」

 魚屋は自転車で峠を越えて隣町まで行かなければならないがスキヤキはごちそうだ。

「どんなんがいいか」

「大きいほうがいい、30センチより大きいのを買って、もし魚がなかったらクジラ肉でもいいからな」

「よっしゃ」

 自転車を抱えて前の道まで下した。

 往復で1時間かかって買ってきた黒ヤイは30センチを超えていた。

「いいのがあったの」

 祖母が僕をねぎらった。

 すでに七輪の上のスキヤキ鍋には野菜が一杯入れてある。さっそく鱗と内臓を取り払った黒ヤイを丸ごと1匹鍋に載せた。

 三畳の下(しも)の間で家族5人が七輪を囲んだ。

「ここは僕の城だぞ」

 鍋で僕の前に小さな場所を確保して、ゴボウや豆腐を集めた、次兄もやっている。

「そんなことせんでもいっぱいある」

 祖母の小言もなんのその、あちこち手を伸ばして、煮あがった野菜を城に移す。

 魚は身だけを箸でつまんで食べていく。

 グレ・メジナは他の地方では「青臭い」と言ってあまり食べないが、僕の地方では魚スキとしてよく食べ、黒鯛だと思っていた。

 冬の寒い夜はスキヤキが一番のごちそうだった。

 

 金魚(緋女魚・ヒメジ)

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「七輪に火を熾してくれや」

 冬休みのある日昼前、母に言われた。

「金魚焼くんか」

 観賞用の金魚ではない、海の魚ヒメジのことを僕らの地域では金魚といっていた。今朝行商のおばさんから買っていたのを見ている。

「そうや」

 母は体長5~7センチの金魚を大きな皿に出した。一夜干しだから半渇きで頭も内臓も付いている。

 台所横の畳の部屋で家族が七輪を囲んで円座になり、自分で焼きながら食べていく。普段はアジ、サバ、イワシなどを母が一気に焼いて食べているが金魚や笹カレイのときは自分で焼きながら食べるのだ。

「熱いほどうまいで」

 焼きたてを自分の小皿に取って素早く醤油をかけるとチンと音がした。

  頭から一気に口にいれて噛むと内臓の苦味がわずかに広がった。

「うまいな」

 皆が黙々と食べている。

 

焼きマツタケ 

 今日はめずらしくマツタケが大量に採れた。七輪に円座になってマツタケを自分で焼きながら食べるのだ。

「アチチチ」

 嬉しそうに声をあげ、焼きあがったマツタケを手で割いて醤油に付けながら食べていた。

 数年に一度のぜいたくだった。

 

 現在でもホームセンターには売っている七輪だが、気密性の良くなった今の家屋では室内で使うことができず、ニクロム線の電気コンロや電磁コンロが普及してからはほとんど使われなくなった。

 

焙烙(ほうろく)

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 秋になると集落の中ほどにある大きな椎(シイ)の木の実が落ちていた。

 服のポケット一杯になるほど拾って持ち帰ると、祖母が焙烙鍋で炒ってくれた。小さいが香ばしくて美味い実だった。

 焙烙とは分厚い素焼きの土鍋である。油を使わないからゴマや大豆などを炒るのに適していて重宝した鍋だった。

 祖母は、メリケン粉に砂糖とタマゴを入れて固く練ったものを焙烙で焼いてくれた。油を使っていないので固焼きのような菓子ができあがった。

 寒の日に搗くアラレもこの鍋で炒った。アラレは砂糖入りカキモチをさらに細くサイコロ状に切ったものである。

    ☆          ☆          ☆

  数年前、この鍋が欲しいと思い陶器店で探したが見つからないので店員に聞くと、

「ガスを使うようになってから火力が強すぎて素焼き鍋は割れてしまう。もう、20年ほども前に鍋の底に金網を付けて火力を弱めるものも出たが、今では完全に無くなってしまった」と返事が来た。

 消えてしまった鍋である。