温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

オルガン

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 小学校の1年から6年までの各教室にオルガンが1台ずつあった。

 オルガンはアコーディオンやハーモニカのようにリードを風で振動させて音を出すもので、足踏み式のフイゴを動力源としていた。

 1年から4年生までは女先生がクラス担任になり、音楽を含むすべての教科を受け持っていた。5年と6年の担任は男先生になり、音楽も音大を出た女先生が担当していた。

先生は足でペダルを踏みながら鍵盤を弾いて、バフバフとペダルを踏む音とともに楽音を出していた。

講堂兼体育館の舞台横にはグランドピアノが置いてあり、時々移動してピアノの前で授業を受けることがあった。

中学校になると体育館の舞台の裏に、残響を防ぐ吸音壁と吸音天井の付いた本格的な音楽室が出来たので音楽の授業はすべてこちらで行われた。

各クラスにオルガンはなかった。

 

寄合(よりあい)

 午後7時を過ぎているのに祖母は家の中にいる。

「おばあちゃん、もう7時を過ぎとるで、今夜は寄合だろ」

 寄合と言っている集落の会合場所は集落の外れ近くにある寺だ、祖母の足では10分はかかる。

「そんなに、待ってましたというように早く行くものではない」

 祖母は時間調整をしていたのだ。

「まだ、誰も来ていない」

 平然と構え、家を出て行ったのは20分を過ぎていた。

「時間どおりに始めるから」

 と連絡はあったのに誰ひとりとして定めた時間までに集まる人はいなかった。

大阪

 中学1年の夏休みに大阪の叔母の家へ遊びに行った。

 夏休みが始まるとすぐに従兄が遊びに来て、8月14日までを僕の家で遊び、後半を大阪へ行くことにした。

 8月14日早朝、すっかり夜は明けていた。田舎の朝は早い。近所のおばさんが、もう田んぼに入って稲の草取りをしている。

「おはようございます」

 あいさつをしながら村道を歩いて駅に向かっている。

「どこへ行きんさるかね」

 四つん這いになって草取りをしていたおばさんが腰を伸ばしながら、新しいカッターシャツとズックを穿き、ボストンバッグを持っている僕を見た、中には着替えと二人分のオニギリが入っている。

「大阪」

 僕は誇らしげに言った。初めての旅行である、今まで汽車に乗るのは小学6年の修学旅行で松江へ行ったのが一番遠かった。今日は一日中汽車に乗って大阪まで行くのだ。朝5時30分発の大阪行きに乗れば乗り換えなしで大阪には夜の9時ごろ着く。気分は最高潮だ。

「ほう、遠くへ行きんさるな、気をつけてや」

 おばさんに送られて駅へ急いだ。

 当時は蒸気機関車だった。客車は大阪まで変わらないが機関車は、米子、鳥取、福知山などで交換しながら走っていた。

 各駅停車だ、大阪までいったい何十か所の駅があるかは分からない、

― 百か所近いぞ。

 僕は思った、それだけ長く乗ることがうれしい。

 のんびりと走っていく車窓を飽くこともなく見つめている。

 弁当は母が作ってくれた大きなおにぎりだ。夏の暑い日だから腹痛を起こしてはいけないと焙烙(ほうろく)鍋で両面をこんがりと焼いてくれている。おにぎりをほおばり、指でつまんだタクアンをポリポリかじっている。

 宝塚を過ぎたころには日はとっぷり暮れていた。沿線の街灯や民家の灯、工場の明かりが増えている。

 9時過ぎに大阪駅へ着いた。従兄の兄さんがホームまで迎えに来てくれていた。

 環状線の電車に乗り、立って車窓を見ていた僕に「どうや、人が多いやろ」

 兄さんが言った。阪急百貨店の前を大勢の人がせわしなく動いていた。ちょうど横断歩道を大勢の人が渡り始めたときだ。両側から集団が向かっていく、映画でみる合戦のようだ。

 大阪はこんなところだと想像していたから別に驚いてもいなかったが、「祭りみたいや」と応えた。

「そうやろ、どこへ行ってもこんなんやで」兄さんは得たり顔で言った。

 

♫月が出た出た 月が出た(ヨイヨイ)三池炭鉱の上に出た・・・

 町中に響く拡声器の音が流れている。煌々と電燈の灯に照らし出された広場に行くと大勢の人が輪になって踊っていた。周りを囲むように立っている人もいっぱいいる。

「すごい」

 僕は圧倒された。僕の村では裸電球一つの薄暗い寺の庭でせいぜい2,30人しか集まらない。さすが大阪だと圧倒された。

 

「夜8時からテレビでプロレス中継がある」と、従兄と近所の食堂に行った。

「ソフトクリームをプロレスが終わるまでゆっくり食べるんだよ」

 従兄は無理なことを言ったが、当時一般家庭にテレビのある家は少なく、従兄の家にも無かった。中継が始まると狭い食堂の中は皆がテレビの方を見て食事をしている者はいない。

 水を張ったプールの中に特設したリングの中で女子プロが闘っている。

 初めて見る女子のプロレスだった。相手選手を肩車してリング外に放り出す。投げられた選手は大きな水しぶきをあげて水の中に沈んだ、浮かび上がった選手をリングに引っ張りあげようと手を差し伸べたレフリーを水の中に引き落とした。

 食堂の外まで人があふれて「ソレソレ」と声援を送っていた。

 

 雨の日、市電の一番前で前方を見ていた。

   5年生のとき、同級生のM君が大阪へ旅行に行ってきたとき、「大阪は駅から駅の間の距離が短い、今停まっている駅から次の駅が見えている」と言っていたことを思い出した。

 僕の村を通っている山陰本線は、そんな短い距離の駅はない、次の駅へ行くまでに5分はかかっている。M君の言うことが分からなかったが、市電の駅なら次の駅が見えている。M君は市電の駅のことを言っていたのだと気づいた。

 向こうから線路の上をオート三輪こちらに走って来る。

― 勢いよく走っているな。

 と思ったとき、かのオート三輪が急ハンドルを切ってレールから外れたところで転んだ。

「あー」

 と声をあげたのは僕だ、完全に車輪が上になって裏返ったオート三輪の横を、市電は何事もなかったように通り過ぎた。

 裏返しになった運転席では男の人が地に足をつけて立っていた。

 ふしぎに思った。

 当時のオート三輪は大型バイクを三輪にして後部に荷台を付けたようなものだった。

 運転者は運転席にまたがって座り横棒式のハンドルで勇ましく運転していた。

 安定も悪く今回のような転覆事故を多く起こしていた。

 

 ある日、従兄は僕を連れて映画を観に行った。映画館に入ると最前列席に行ったがそこはもう多くの人が座っていたので左横から三番目の席だった。二列目以降は空いている。

 映画が始まった。ところが映画をこんな位置からみると画像はひずんでまともな画になっていない。

― なんでこんなところで見るんだろう。

 なにがなんやら分からないまま一本目が終わったとき、パッと舞台に照明が当たり、

横から前の人の肩に両手を載せた女性が一列になって入ってきた。

ワーと歓声があがった。

 初めて見るラインダンスだった。

 横一列で音楽に合わせて踊りながら、片足を思い切り上げて踊っている。

 僕の目前のダンサーが足を思い切り上げたとき、網タイツを穿いている太ももの裏に大きな穴が開いているのを僕の目は捉えた。(この項は、前述の映画と重複)

 

 日曜日、従兄の兄が僕と従兄を奈良へ連れて行ってくれた。

「大仏さんを見たい」という僕の希望をいれてくれたのだ。

 大仏はあまり大きくないと思った。

「掌に人間が載れるんやで」

 兄さんが教えてくれても「そんなもんかな」としか思わない、大きな大仏殿が大仏さんを小さく見せているのだ。

 興福寺五重の塔の一般公開をしていた。

「すごいぞ、こんなことめったにない、この塔の一般公開はほとんどない」

 兄さんは興奮して料金を払っていた。

 中に入ると大きな一本柱(心柱)が地から上に直立しており、その柱を支柱にして階層ができていた。各階には部屋があると思っていたのに部屋は無い。

「この塔は全国にある塔のなかでも古い形だ、心柱から直接階を作っているのはここだけだ」

 兄さんの言うことがよく理解できなかったが日本にある多くの塔の心柱は建物とつながっていないということだった。

 これまで僕は五重の塔のような細長い建物は台風が来たら倒れると思っていた。ところがこれなら風に強いはずだと気づいた。

 最上階の狭い窓をくぐって外にでるとすぐそこに大仏殿が見えていた。

 大仏殿もまた僕の想像していたものより小さく見えた。

「大きい」と聞いて、こんなに大きいのかなと想像していたものがはるかに大きいものだったので現物が小さく見えたのだ。

 

8月25日、田舎へ帰る日が来た。もう少し大阪に居たいが、僕の地域には「行くな7日、帰るな9日」といって旅を嫌う日があった。7のつく日に旅にでるな、9のつく日に帰って来るな」と言っていた。迷信だと分かっていても極力これを避けた。だから25日にしたのだ。それに夏休みの宿題を全然していなかった。

帰りは、京都駅を23時に出発する夜行列車にした。従兄と従兄の兄さんが京都駅まで送ってきてくれた。0番線ホームに浜田行各停夜行列車はすでに入線している。

夜行と言っても寝台車ではなく2人ずつ向かい合って座るボックス席だった。それでも客が少なかったから2人分を1人で占有できた。

僕の向かいの席は松江へ帰るという20代の女性だった。

発車と同時に横になった。2人分を占有していても長さは短いので腰を90度に曲げて足を折りたたまなければならなかった。

 窮屈な姿勢で寝ているから、夜中に何回かは目は覚めたが、それでもよく寝ることができた。

 目が覚めると前の席にいるお姉さんがいない。あれ!と思ったら、すでに松江をすぎていた。

 夜が明けた。あとは僕の村の最寄り駅に着いたときに降りればいい。

 初めての一人旅だったが心細くはなかった。

 

 

 高校2年のときだった。朝、教室は重苦しい雰囲気に包まれていた。あちらこちらで集まって小声で話している。

「どうしたんや」。

「Yが死んだ」

「Y君か、どうして」

「自殺らしい」

 一番前の列にある自殺した彼の席は空いていた。

 同じ中学出身のO君も事情は知らないようであった。O君は自宅から1時間かけて通学していたが、駅から遠いY君は学校近くで下宿していた。

 教壇に立った担任が鎮痛な面持ちで話し始めた。

「皆も承知のことと思うが、昨夜Y君が自ら命を絶った。警察の話によると彼は下宿先の近くに置いてあった単車を無断で乗っていたらしい。昨夜も乗っていて谷に落ちたようだ。普通では決して持ち上げられない急な谷の底から単車を一人で引っ張り上げて、彼はそのまま山に入ったようだ。彼は自分の肩ベルトで首を吊っていた」

「何も死ぬようなことではないと皆は思うであろうが、責任感の強い彼は死を選んでしまった。本当に残念だ」

 気のやさしい担任は泣いていた。男ばかりの教室でもあちこちですすり泣きの声が漏れていた。

 下宿しているY君は放課後学校の近くにある大判焼きを食べに連れて行ってくれることがよくあった。自殺したという前日も5人ほどで食べに行った、僕もその中にいた。

「遠慮するなよ」

 彼の口癖だった。性格温厚だが男気のあるさっぱりした性格だった。だから、大判焼きを食べに行こうかと言えばついて行った。

 その夜、彼は自殺した。

  僕の心に受けた衝撃は大きかった。

「葬儀出席の許可は出さない」

 と学校から達しがでた。

 同級生が大勢で押しかけたら親御さんが困るだけだ、という理由だった。それでも数人は学校を休んで出席した。僕は行かなかった。学校では通常通りの授業があった。

 次の日曜日、O君の案内で同級生10人ほどとY君の実家へ行ったが家の人は出てこなかった。僕らは家の裏山にあるY君の土葬場所にお参りして帰った。

 翌年、Y君の命日は日曜日に当たるのでお参りに行こうかという話が同級生の間ででたが、

「家の人は喜ばない」

 とO君は制した。彼はこれまで何回かお参りしてきたが家の人には迷惑だったようだと彼は言った。

 親御さんの気持ちを思い、そっとしておく方がいいと思った。

   特に久しくしていた友というわけではないのに、僕の受けたショックは大きく数か月にわたり鬱な日がつづいた。後々考えると友を失ったということもあったが、死に対する恐怖からであった。

 当時、僕は死を一番恐れていた。死ねば二度とこの世には帰れない、数百年、数千年いや数億年経っても帰れない、それが恐ろしかった。

「無い、無い、無い・・・」

 恐怖心から精神が狂いそうになって、あわてて妄念を打ち払い、死のことは考えないようにしていた。

 それを彼はやってしまった。かえすがえす残念だった。 

 彼の冥福を祈った。

青酸カリ

 もう50数年前の話になる。

 当時僕は工業高校の工業化学科3年だった。

 ある日、担任が神妙な面持ちで教室に入ると「皆、よく聞いてほしい」

 いつもニコニコして愛想のいい先生だから皆が親しみを持っている担任だった。こんな神妙な顔を見るのは初めてだった。

「皆、心して聞いてほしい、昨日放課後に実験室の試薬を調べたら青酸カリが1瓶紛失していた」

 化学実験室は別棟の一戸建てになっている。実験の無いときには部屋へ立ち入ることはできないし、青酸カリのような劇薬の保管棚には鍵もかかっている。

実験で必要なときには生徒誰でも自由に持ち出して使うことができた。

「あるいは収納するのを忘れたのかもしれないと思い、教室の隅々まで探したがなかった。君たちには悪いが個人の器具収納箱も調べさせてもらった」

 生徒も自分の使用するビーカーやフラスコ、試験管などを保管しておく木箱を持っているが、個人それぞれが鍵をかけている。スペアキー1個は先生に渡してあるからこれを使って開けたのだろう。

― それにしても大げさな。どうせ誰かのいたずらだろう。

 このとき僕は事の重大さに気づかなかった。

「この中の誰かが、いたずらで持ちだしたのだろう。だが、青酸カリはものすごい毒薬だ。あれを1本、市の貯水池にでも放り込んだら3万人の市民が死んでしまう」

― ヘエーそんなに強いんか。

 僕には先生の切羽詰まった心情が分からなかった。

「どうか、元の場所に戻してくれ部屋も保管棚も鍵は開けたままにしておく、誰がしたのかは一切問わない」

 担任の態度が大げさにしか見えなかった。

 翌日、青酸カリは元の場所に戻っていた。

 担任は親しみのある笑顔を取り戻していた。

「あのなー、あんまり驚かすなよ」

 担任は一言だけ言って一件落着となった。

 

 数十年後、どこかの学校で青酸ナトリウムが紛失し、持ち出した生徒が逮捕されたというニュースを視た。

 

 僕の学校の担任がとった処理方法は良かったのか、あの時、直ちに警察に通報して探すべきではなかったかという疑問はある。だが、生徒を信じた担任の温情は一人の生徒を助けたことにもなる。

 

 

 

 

 

映画

「今晩映画に行くから昼寝しときや」

 野良仕事に出かける母が言った。

「やったー」

 僕は飛び上がって喜んだ、4歳の頃の思い出だから昭和23年頃のことだ。

当時、村に映画館は無く、年に数回公会堂(芝居小屋)に巡回映画が来ていた。

さっそく枕を出して畳の上に横になったが興奮して眠れない、それでも一生懸命目をつむって寝ようとしていた。

ゴザを敷いた公会堂の観客席に多くの村人が胡坐(あぐら)をかいている。

映画の内容は覚えていない、ほとんど寝ていたようである。

映画が終わって外にでると夏とはいえ寒々とした星空があった。

― 家まで歩いて帰るのか。

 歩いて30分かかる家までは遠い。

 嫌だな。と思ったが仕方ない、母に手を引かれて歩き出した。

そのとき、「おんぶしてやろうか」と母がバッグに入れていたおんぶひもを取り出した。僕に内緒で持っていたのだ。

おんぶなんてもうとっくに忘れていた。

「重いな」と言いながら僕を背に載せた。 母の背中は暖かく気持ちいい、いつの間にか寝入っていた。今でも忘れることのない母の背中である。

 

 小学4年のとき、高学年全生徒が学校の行事として公民館に集まり映画「山椒大夫」を視た。

年に数回しか視ることのない映画だ、楽しみにしていた。

始まって30分もすると頭痛がしてきた。

1階フロアいっぱいに生徒が座っているし、光を遮断するためすべての窓は黒く分厚いカーテンで閉め切っているから、酸欠になってくる。僕は特に弱く頭痛はひどくなり、やがては吐き気までしてきた。

ついに映画を諦めて外に出た。厨子王丸を逃がして安寿は入水する場面だった。この続きを視たのは僕が大人になってからである。

 

 中学1年の夏休み、大阪の親戚へ遊びにいった。

 ある日、映画に行ったのに従兄は1番前列の中央に座った。

映画が始まると画面が歪んで見える。なんでこんなところへ座るのか分からないまま1本が終わると舞台が明るくなり、派手な音楽に合わせて20人ほどのダンサーがでてきた。舞台の先端で横1列になって片足を交互に、思い切り上げるラインダンスであった。

圧倒されて見上げる僕の目は、正面で踊るダンサーの網タイツが、腿の裏側で大きく破れているのをとらえた。このときの映画の記憶はない。

 

 中学2年のとき、中学校の体育館で「オズの魔法使い」を視た。これまでの映画は白黒映画だったが初めて視る天然色映画(カラー)だ。

映画が始まると白黒だった、がっかりして視ている。

オズの魔法使いは「アメリカの草原で大竜巻に家ごと巻き上げられた少女が辿りついたのは魔法の国だった。そして草原の家に帰るための冒険をしていく、いろいろと冒険してやっと草原の家に帰り着いたとき目を覚ました」という物語だった。

気を失った瞬間から目を覚ますまでが天然色映画に変わっていた。誰もが初めて視るカラー映画であった。カラーに変わったとき「おー」と会場から声が上がった。

「きれいだ」僕も声をあげていた。

 当時、現在では当たり前になっているカラー映画のことを天然色映画と言った。

 そして映画は総天然色映画に変わっていった。

 

 中学3年生のとき隣町に映画館が出来た。これまでは公会堂や体育館にゴザを敷いて視ていたが映画館はイス席だった。

それも一つの街に2か所もできたものだから値下げ競争に入り150円で視ることができた。

この程度の金額なら僕でもなんとか支払うことができたからよく視に行った。

小林旭の「ギターを持った渡り鳥」シリーズは欠かさず視た。

「ギターを持って流しをしている小林旭が見知らぬ土地に来て、そこに在住する女性と知り合い、その街に暗躍する黒幕をやっつけて、また別の街へと旅立っていく」という物語で西部劇の酒場のようなアクションが続いた。

 

 武者小路実篤の「愛と死」を映画化した、石原裕次郎浅丘ルリ子共演の「世界を賭ける恋」を視たのもこのころである。小説「愛と死」を読んで間の無いころであったし浅丘ルリ子の初々しい美しさに憬れ、僕を文学青年に仕立て上げた。

 

 高校生のころになると巡回映画はなくなり、映画館での上映になっていた。

これまでの映画の画面は正方形に近い形であったものが横に広いシネマスコープが出てきた。

ある日曜日、シネマスコープの「十戒」を視に行くと言って長兄が町の映画館へ行った。新しいその映画館はシネマスコープを放映できるスクリーンを備えていた。

「長かった」

 夕方、帰ってきた長兄はポツリとつぶやくとすぐに寝てしまった。かなり疲れたようだ。

 

 高校3年の二学期、高校の文化祭があった。

 工業高校だったから機械、電気、工業化学、建築、窯業の各科ごとに「どのような勉強をしているのか展示を行った。僕の属している工業化学科ではいろいろな化学実験を展示した。

 だが、展示発表に参加するのは「成績の良い順に15人だ」と担任が言い、名前を発表された。45人中15人だ、僕は漏れた。

「選考されなかった者は運動場でソフトボールでもしていろ」

 担任は言い切った。

「あほらしい」

 僕といつも一緒にいる2人と示し合わせて、学校の裏から抜け出て駅近くにある映画館へ行った。ちょうどそのとき、伊藤左千夫の「野菊の墓」を映画化した「野菊の如き君なりき」を上映中だったのだ。

 映画が終わって校庭に帰ると知らぬ顔してソフトボールを見学した。

「どこかへ行っていたやろ」

 同級生の一人が小さな声で言ったが「うん」僕らはうなずいただけだった。

 学校にはばれなかった。

炬燵(コタツ)

堀コタツ

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ねここたつ

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湯たんぽ

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こたつやぐら

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 中学2年の11月、朝から冷たい雨が降っていた。

 祖母と母は近所へ葬式の手伝いに行って、家には長兄と僕だけが座敷に寝転んで本を読んでいた。日曜日というのに雨だから外では遊べない。

「寒い」と思ったがまだコタツを出すような時期ではないので我慢していた。

「コタツ出そうか」

 長兄は本を伏せて立ち上がると台所へ行って七輪で炭火を熾した。そして物置からネココタツを出し雑巾で埃をぬぐい取ってから炭火を入れた。

 僕は見ているだけだ。親の留守中に勝手にコタツを出すことなんてもっての外だ、長兄だから許されることだった。

 長兄は鼻歌を歌いながらセッセと動いている。

 座布団の上にネココタツを置いて、敷布団は敷かずに掛布団だけを押し入れから出して掛けた。

 さっそく足を突っ込みネココタツに足を付けると、まだ冷たかったコタツが徐々に温まり、やがて布団の中全体に行き渡ってきた。

 長兄は教科書を再び読み始めた。

 僕は何回も読んでシミの位置まで知っている少年雑誌を閉じて布団に首まで潜った。

 寒さで凝り固まっていた全身の緊張が解けていく。

 いつの間にか寝入っていた。

 当時、家庭にストーブはなく、暖房はコタツだけであった。雪は降り積もっても気温が氷点下になることはほとんどない地域だから、綿入れハンテンを着てコタツがあれば十分に寒さをしのぐことができた。

 夜は、座敷に家族全員がメザシのように並んで寝ていた。寒くなるとそれぞれがネココタツを足元に入れていたが、幼児のころには寝相が悪くコタツをけ飛ばす恐れもあったため湯タンポを入れてくれていた。

 12月下旬、いよいよ寒さが本格的になると納戸の堀コタツを出して、四方から足を突っ込んで寝ていた。

 

 

七輪(シチリン)

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かき餅

 外はみぞれ交じりの雨が降っている。

 せっかくの日曜日だというのに外で遊べない、近所の友達も家から出てこない。長兄や次兄はどこかへ行っている。

「退屈だなー」

 僕はこたつの中から外を眺めているだけだ。

「勉強しいや」

 祖母は言うが僕にその気はない。

「よいしょっと」

 祖母が意を決したようにこたつから出た。

「なにするん」

 僕の言葉を無視して黙々と動いている。無視するということは出来上がりを楽しみに待てと言うことだ。

 祖母は七輪に炭を入れて火を熾し、金網を置いてかき餅を載せた。しばらくするとかき餅がプーっと膨らんできた。左手に持った一本の箸でかき餅を押さえせっかく膨らんだのをつぶして、右手の箸で伸ばしていく。かき餅は徐々に分厚くなり大きく広がっていった

 焼く前の三倍ほどにもなったかき餅を祖母が箸でつまんで「ほいっ」と僕に渡した。

「ほいっ」と手で受けとった僕は「アチチ」とかき餅を畳の上に放った。しばらくしてから手に取り、口に運んで「ポリッ」と折った。甘みがジワーっと口に広がる。ポリポリと食べながら、次のかき餅に手を出すと、「だめだ」と取り上げられた。

 皆で分けるのがわが家の鉄則だ。全員がそろっているときに等分にする、それまでは食べさせてくれない。

 夜、祖母が出してきたかき餅は冷めて固くなっていたが、焼くときにじっくり時間をかけて伸ばし、芯が残らないようにしているからセンベイのように食べやすかった。

 

 魚スキ

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「スキヤキするから黒ヤイ(グレ、メジナ)を買いに行ってくれるか」

「よっしゃ」

 魚屋は自転車で峠を越えて隣町まで行かなければならないがスキヤキはごちそうだ。

「どんなんがいいか」

「大きいほうがいい、30センチより大きいのを買って、もし魚がなかったらクジラ肉でもいいからな」

「よっしゃ」

 自転車を抱えて前の道まで下した。

 往復で1時間かかって買ってきた黒ヤイは30センチを超えていた。

「いいのがあったの」

 祖母が僕をねぎらった。

 すでに七輪の上のスキヤキ鍋には野菜が一杯入れてある。さっそく鱗と内臓を取り払った黒ヤイを丸ごと1匹鍋に載せた。

 三畳の下(しも)の間で家族5人が七輪を囲んだ。

「ここは僕の城だぞ」

 鍋で僕の前に小さな場所を確保して、ゴボウや豆腐を集めた、次兄もやっている。

「そんなことせんでもいっぱいある」

 祖母の小言もなんのその、あちこち手を伸ばして、煮あがった野菜を城に移す。

 魚は身だけを箸でつまんで食べていく。

 グレ・メジナは他の地方では「青臭い」と言ってあまり食べないが、僕の地方では魚スキとしてよく食べ、黒鯛だと思っていた。

 冬の寒い夜はスキヤキが一番のごちそうだった。

 

 金魚(緋女魚・ヒメジ)

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「七輪に火を熾してくれや」

 冬休みのある日昼前、母に言われた。

「金魚焼くんか」

 観賞用の金魚ではない、海の魚ヒメジのことを僕らの地域では金魚といっていた。今朝行商のおばさんから買っていたのを見ている。

「そうや」

 母は体長5~7センチの金魚を大きな皿に出した。一夜干しだから半渇きで頭も内臓も付いている。

 台所横の畳の部屋で家族が七輪を囲んで円座になり、自分で焼きながら食べていく。普段はアジ、サバ、イワシなどを母が一気に焼いて食べているが金魚や笹カレイのときは自分で焼きながら食べるのだ。

「熱いほどうまいで」

 焼きたてを自分の小皿に取って素早く醤油をかけるとチンと音がした。

  頭から一気に口にいれて噛むと内臓の苦味がわずかに広がった。

「うまいな」

 皆が黙々と食べている。

 

焼きマツタケ 

 今日はめずらしくマツタケが大量に採れた。七輪に円座になってマツタケを自分で焼きながら食べるのだ。

「アチチチ」

 嬉しそうに声をあげ、焼きあがったマツタケを手で割いて醤油に付けながら食べていた。

 数年に一度のぜいたくだった。

 

 現在でもホームセンターには売っている七輪だが、気密性の良くなった今の家屋では室内で使うことができず、ニクロム線の電気コンロや電磁コンロが普及してからはほとんど使われなくなった。

 

焙烙(ほうろく)

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 秋になると集落の中ほどにある大きな椎(シイ)の木の実が落ちていた。

 服のポケット一杯になるほど拾って持ち帰ると、祖母が焙烙鍋で炒ってくれた。小さいが香ばしくて美味い実だった。

 焙烙とは分厚い素焼きの土鍋である。油を使わないからゴマや大豆などを炒るのに適していて重宝した鍋だった。

 祖母は、メリケン粉に砂糖とタマゴを入れて固く練ったものを焙烙で焼いてくれた。油を使っていないので固焼きのような菓子ができあがった。

 寒の日に搗くアラレもこの鍋で炒った。アラレは砂糖入りカキモチをさらに細くサイコロ状に切ったものである。

    ☆          ☆          ☆

  数年前、この鍋が欲しいと思い陶器店で探したが見つからないので店員に聞くと、

「ガスを使うようになってから火力が強すぎて素焼き鍋は割れてしまう。もう、20年ほども前に鍋の底に金網を付けて火力を弱めるものも出たが、今では完全に無くなってしまった」と返事が来た。

 消えてしまった鍋である。

 

ふるさと

 

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       うさぎ追いし かの山

     こぶな釣りし かの川

     ゆめは今も めぐりて

     わすれがたき ふるさと

          童謡・ふるさと

わが家

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       写真・わが家(昭和35年3月撮影)

 

 今は昔、思い起こすと60数年前の話になる。
 昭和19年(1944)5月、島根県の静かな山村にぼくは生まれた。
 海岸近くを走っている山陰本線石見福光駅から東へ、山に向かって2キロメートル、歩いて30分ばかり入ったところに集落があり、山に囲まれて胃袋のように曲がっている狭い土地に50戸ほどが点在していた。
 そのうち、3分の1は墓石や石灯ろうなどの石材製造業を営んでいるが、1戸当たり3反ほどの田んぼとわずかな畑を持つ零細農家がほとんどだった。
 村は、城山を要(かなめ)とした扇状に広がる典型的な城下の面かげを残していた。
 城山には南北朝時代から戦国時代にかけての城跡があり、「不言城(ふげんじょう)」という名がついていた。

 ぼくの先祖は南北朝時代から戦国時代にわたって堅確な武位を誇る武士だった。特に室町時代には室町幕府御家人であった石見小笠原家の家臣で城持ち武将のひとりであった。
 その戦歴をみると、東は小田原の北条氏攻めに従軍し、西は九州の宮崎、そして朝鮮半島にまで遠征しているが、3代はあえなく討ち死にという憂き目にもあっている。
 あげくの果ては関ヶ原合戦に敗れた西軍に属していたため、武士を捨て百姓になった。
 ともあれ群雄割拠の一員として文字どおり身命を賭して戦い、その武功も数々の軍書および古文書にでている。

 生家は城山を正面に望む低い山を背にした南向きにあり、250坪に及ぶ屋敷は道から高さ2メートルの石垣上に広がっている。
 下の道から10段の石段を上がった正面に母屋がある。西側には別棟の風呂と便所があり、東側は畑を隔てて納屋があった。
 母屋は明治35年(1902)11月30日に棟上したという記録が残っている。
 藁葺屋根で土の外壁は風雨にさらされ、いたるところがひび割れ剥離してボロボロになっていた。建材は栗の木で梁や柱などは曲がったものが多く使ってあり、建てた大工の技量に驚くばかりだ。
 栗の木は杉や檜より粘りがあって強いということだった。そのためか、築60年を過ぎているのに襖や障子の開け閉めは比較的滑(なめ)らかだった。
 夜になると、入口の板戸に心張棒(しんばりぼう)をかけて戸締まりをした。上(かみ)の座敷も雨戸を閉めたが、この戸もいたるところが欠けて穴が開き、見るも無残な板戸だった。
 8畳の『上(かみ)座敷』と3畳の『下(しも)座敷』が表側(おもてがわ)にあり、その後ろに3畳の『納戸(なんど)』と『台所』があった。上(かみ)の座敷の南側には半間幅の縁側がついていて、ここは吹きさらしであったが深い屋根の下になっていたから濡れることはなく風の通る気持ちいい場所だった。昼間の遊び場所であり夏の夕涼みにも最適だった。東側には床の間と朽ちた一間幅の仏壇それに押入れが並んでいる。
 仏壇の天井裏に一振(ひとふ)りの日本刀が隠してあった。長さが80センチほどの小太刀(こたち)といわれるもので「山城國大塚源國重(みなもとのくにしげ)」という銘が彫られていた。鞘(さや)には手裏剣を収納する溝(みぞ)もついていたが、手裏剣は次兄が持ち遊んで紛失し、鍔(つば)は10年ほど前に売ったということだった。
 戦後すぐに、警察から刀剣類を提出するようにとの達しがでたが、ぼくの家では「城主であったころに武功があり、小笠原の殿様から拝領したもの」と言い伝えがあったので手放すことができなかった。これはあきらかに「銃砲刀剣類所持法」違反であり、当然のことながら警察に見つかれば叱られる。それでもぼくには、そういう意識もなく、中学生のころから秘(ひそ)かに裏山へ持ち込んで竹を切って遊んだ。ずしっと重く、テレビの時代劇にでるようなかっこいい殺陣なんて、とうていできるものではない。片手で振りまわすことなど不可能だ。かの有名な『関が原合戦図屏風』に描かれている武士は抜き身の刀を肩にかついで走っている。あれが本当の姿であろうと思った。直径3センチ程度の竹なら袈裟懸け(斜めに切り下すこと)にすれば切ることもできたが、刃はぼろぼろに欠けて柄(つか)は割れてしまった。
 昭和55年(1980)の夏、大阪の百貨店で展示されている同銘の刀を見つけた。刀身も輝いており鍔(つば)も手裏剣もついた新品同様の物だった。250万円の値がついていた。このとき源國重という刀工は江戸時代の人だということが判明した。「殿様からの拝領品」という言い伝えは、もろくも崩くずれ去ったのだ。
 この刀はぼくら兄弟が成人してから「持っていたらまずいな」ということになり裏山に埋めた。

「上(かみ)の座敷」の天井にツバメの巣を取り払った跡が残っていた。部屋の真ん中で、いつもぼくらが寝ている真上だ。大人が立って手を伸ばせば届きそうな低い場所だ。こんなところへ巣を作ることが理解できない。
「おじいさんは風流な人だった。ツバメを可愛がっていたな。それに家のなかにツバメが巣を作ることは縁起の良いことだと言われていた」
「毎年春に、わが家で育ったツバメが姿を現すと『おーお、よう帰って来たのう』と言って障子の一角を繰り抜き、いつでも出入りできるようにしていた」
 祖母は、なつかしそうに天井を見上げた。
「夜、雨戸はどうするんだよ」
「雨戸は閉めないさ、電気も消さないさ。でも、家の者が寝たら、ツバメも寝ていた」
「下で寝ていたら、うんちが落ちてこないか」
「ツバメも賢(かしこ)いよ、絶対にうんちは落とさない、自分で銜(くわ)えて外に捨(す)てていた」
「へえー」
「でもな、羽虫(はねむし)が多くて困ったな」
 羽虫(はねむし)はツバメの目には見えないから仕方ないが、掃除が大変だったと祖母は言った。

 同じ「上(かみ)の座敷」の床下には、周囲を厚い土壁で囲(かこ)ったひと坪の「イモ室(むろ)」があり、籾殻(もみがら)を厚く敷いて、その中にサツマイモが入れてあった。その形が炭焼き窯や瀬戸物を焼く窯に似ていることから「イモ窯(がま)」と呼んでいた。この地方で発見した保存方法で江戸時代から続いているものなのだ。
 サツマイモの栽培を全国に広めたのは江戸時代の青木昆陽だとされているが、それよりも3年も前に日本全国を襲った大飢饉のとき、石見銀山領代官井戸平左衛門が薩摩国から取り寄せて、領内に広めたというものだ。サツマイモは、畳と床板を取り除いてから窯の中に入って取り出した。

 台所は板敷きになっていて、二つの竈(クド=カマド)が西向きに据(す)えられていた。

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藁葺き屋根の家だからカマドに煙突は無く、煙は天井裏から屋根へと吸い取られるように拡散していった。
 食事をとる場所に畳はなく、ムシロとゴザが重ねて敷いてあった。 そこには、家族5人がゆったりと食事できるほどの大きな円卓(ちゃぶだい)があった。窓がないため昼でも暗い部屋だった。

 暗い天井をよく見ると、1本の梁(はり)が部屋の真ん中を通っている。この真下に、祖母が嫁に来たころには囲炉裏があったという。梁(はり)から孟宗竹(もうそうちく)がぶら下がっていて、その中を桑(くわ)の木が通って一番下に鉤手(かぎて)と松の木で作った鯛がついていたという。
「末代(まつだい)まで食(く)わせ申(もう)そう)という意味があるんだよ」(松鯛まで桑せ孟宗)
 祖母が教えてくれた。
 その囲炉裏も、ぼくが物心ついたころには、すでに無くなっていた。

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 天井は、煙が屋根裏へ行きわたるように丸竹を並べただけのものだったから、食事中に天井裏で鼠(ねずみ)が走ると埃(ほこり)が落ちてきた。そんなとき、ぼくは「ニャオー」と猫のまねをした。効果は絶大で瞬時に静かになった。
「鼠をいじめてはだめだ。鼠が怒ったら火の点いた小枝を銜(くわ)えてきて、家を燃やしてしまう」
 祖母がたしなめた。昔、隣村のある家が火事で消失してしまった。この直前、「火のついた小枝をくわえた鼠が麦藁葺(むぎわらぶ)屋根の天まどから屋内に入るのを見た人がいる」と小さな声で話した。天井裏にいる鼠に聞かれないためだった。
 黒く煤(すす)けた壁に、体長3センチほどもある大きなゴキブリが走りまわっていた。
 捕(つか)まえうよとしても、すばしこく逃げまわって、あっという間に壁の隙間にもぐりこんでしまう。
逃げ場を失ったゴキブリは、つややかな羽根を羽(は)ばたいて天井に逃げた。ちょろちょろと逃げ回り、あまりにもすばしこいので「チョロ」と呼んでいた。

 

電灯

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 絵・白熱電球

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 家に電燈は1灯しかなかった。
上(かみ)の座敷に40ワットの裸電球が長いコードを付けてぶら下がっていた。
 食事のときには台所へ、寝るときには納戸へと、コードを伸ばし移動して、その部屋の天井に取り付けたフックに掛ける。
 電灯を上の座敷で使えば他の部屋は暗い。足りない明りを補うため、台所の柱に取り付けた棚の上に灯油を燃やすカンテラが置いてあった。灯油は農協で売っていたから年に数回、空(から)の1升びんを持って買いに行った。当時は灯油のことを「石油」と呼んでいた。

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  絵・カンテラ

 料金は定量契約で、いくら使用しても電気代は変わらなかったから寝るときも灯したままだった。だから、一晩中、部屋が明るい。

ただし、電灯一灯だけが許された契約だったので、ラジオなどの電気製品は一切使うことを許されていなかった。

 そのころの電球はフィラメントがよく切れた。定量契約に限り切れたものは電力会社の駐在所へ持っていくと無料で交換してくれた。
 駐在所まで歩いて往復すると1時間かかった。自転車を買ってからは片道15分、田舎の地道を右手でハンドルを持ち、左手で電球を持って往復した。
 ある日の夕方、自転車で電球の交換に走っていた。自転車のブレーキレバーは左手が後輪のブレーキにつながり、右手は前輪となっている。ぼくは右利きだから右手でハンドルを持ち、左手で電球を持って走っていた。かなりスピードがでていたとき、急ブレーキをかけた。瞬間、ぼくは前方にもんどりうって転倒していた。幸い電球は割れなかったがぼくは泥まみれになった。
 未舗装の田舎道のことだから、どうしても電球が揺れる。振動によって新しい電球のフィラメントが切れることもあった。フィラメントは電球の中で明るく光る部分だ。
当方の落ち度で切れても交換してくれない。
「家で点けてみたら、ぱっと光って切れた」
 と嘘を言う。駐在所では、電球を客に渡すときに、必ず客の前で点灯することを確認している。
「そんなに簡単に切れるものではない」とでも言いたそうに不審な顔をしながらも黙って交換してくれた。
 その当時、電気の定量契約で一灯だけという家は、村のなかで数軒だけになっていた。

納屋

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    絵・唐臼(からうす)

 屋敷の東側に納屋がある。ある日、父が牛を買ってきて、みかんの木に繋(つな)いでおいてから3日間で建てたというものだ。
 それでも、奥行き2間、横3間の2階建てであった。
 建材は裏山の桧(ひのき)で藁葺(わらぶ)き屋根だった。壁は、当初、笹の枝だったが、落ち着いてから土壁に塗り替えたという。
 南側半分は土間付の座敷になっていて、天井は丸竹を簾(すだれ)のように並べて吊り下げてあった。だから、屋根裏に上がると、ぐらりと揺(ゆ)れた。そこには莚(むしろ)の材料の藁(わら)が山積みになっていた。
 土間の南側に横1間、奥行き半間の米蔵があり、叺(かます)に入れた玄米が積み上げられていた。玄米を取り出すときは出し入れ口の蓋(ふた)になっている20センチ幅の横板を1枚ずつ取り外した。倉は、ネズミが入らないように厚い土壁と厚板で作られていたが、中にはいつも鼠(ネズミ)の糞が散らばっていた。
 倉から取り出した玄米は納屋の軒下にある『唐臼(からうす)』という足踏み式の臼(うす)で精米した。
 石臼(いしうす)の中に玄米を入れて4メートルほどもある杵(きね)の端を踏んで「ごっとん、ごっとん」と精米していった。玄米が精米になるまでには1、2時間かかる。だから雨のため野良仕事の出来ない日の日課になっていた。
 納屋の北側半分は牛小屋になっていた。
 そこには敷藁(しきわら)も残っており、いつでも牛を入れることのできる状態だったが、いつも空(から)だった。
 ぼくが小学生のとき荷馬車のおじさんに頼まれて4、5日間だけ厩(うまや)として貸したことがあったが、それ一度だけだった。
 納屋といっても座敷は6畳の広さがあり竈(かまど)もついていたので戦争中に大阪の叔母一家が疎開で住んでいたこともあった。そのときのことを、
「牛小屋の蝿が多くて困った」
と言っていた。
 座敷の隅に縦型で足踏み式の莚(むしろ)織機と縄編み機が据えてあり、母がいつも莚を織っていた。

 

風呂と便所

 

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 ぼくがまだ5、6歳のころ、大工をしている湯里の伯父さんが風呂と便所を建ててくれた。
 それまでの風呂がどのようなものだったのかは記憶にないが、便所は深い大きな穴に2枚の厚板を渡しただけのものだったから、
「子供が便所に落ちたらかわいそう」
 と、建ててくれたものだった。板敷きになっていたから土足を脱(ぬ)いで上がった。

   当時の村には、広く深い肥ツボに厚板2枚を渡しただけの便所も多く、子供が落ちたという噂を聞くことがあった。そして「肥ツボに落ちた子は名前を変えなければいけない」と言われていた。

  風呂はガラス窓のある当時としては近代的な建物だった。

  浴槽は五右衛門(ごえもん)風呂で焚(たき)口は外の軒下にあり、雑木を燃やして湯をわかした。
 暗くなったらローソクを灯して入浴した。
 水道もなかったので、水は井戸から大きなバケツ2個を天秤棒で担ぐ棒手振りスタイルで入れていた、それでも何回も往復しなければならなかった。

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「ぬるいよ」
 と大声をあげたら、雑木を足して追い焚(だき)してくれる。このとき鋳物で出来ている浴槽は全体に熱くなってくるので背中と浴槽の間にタオルを挟まなければならなかった。
「熱い」
 と言えば、井戸から水を運んでくる。
 ある日「熱いよ」と言ったら、どさっと雪の塊が窓から飛び込んできた。
 頭から雪を被(かぶ)ったぼくが悲鳴をあげた。
長兄が外に積もっている雪をスコップで放り込んだのだ。
「うわー」
「まだ熱いか」
 スコップにいれた雪を持って入口から顔をだした。「まだ、熱いなら頭から雪を被(かぶ)せるぞ」という素振りだ。してやったりという顔をしている。
「いや、もういい」
ぼくはあわてて湯船に体(からだ)を沈めた。
焚き口の灰のなかにサツマイモを埋めて、残り火を被(かぶ)せておくと焼き芋ができた。
「フーフー」と灰を吹き飛ばしながら食べる焼き芋は最高にうまかった。

 

井戸

 前庭にある井戸は、昭和13年の大干ばつで飲み水にも困ったときに掘ったものだった。
 水面までの深さは7,8メートルほどだったが、幸い山の水脈に通じていたからいつも一定の水量を保っていた。
 水は物干し竿のような長い竹に取り付けた釣瓶で汲み上げていた。
 水温も一年中外気温に影響されることもなく、夏はガラスコップの外側に水滴が滲むほど冷たく、冬は湯気が立つほど温かい、いつも美味(うま)い水を提供してくれた。
 夏、外出から帰って井戸水を汲み、釣瓶に口をつけて一気に飲んだ。
「ごくごく」と喉を通り過ぎていく冷水が全身にこもった熱気を取り払ってくれる。
 至福の一杯だ。
 夏には長い縄を付けた篭(かご)にスイカやマクワウリなどの果物を入れて井戸水で冷やした。
 夕方、家族5人全員が縁側に座って、これら果物を等分に分けて食べた。夏の楽しみだった。
「全員がそろっているときに、同じ量に分けあって食べる」これが鉄則になっていた。ひとりでもいないときには決して食べない、分けることもしない、5人の眼前で分けることを徹底していた。
 ぼくの家では、長兄が極端に可愛いがられ、次兄および三男のぼくとの差別がひどかったことから、
「そんなに差をつけたら下の子がぐれるよ」
 と忠告してくれる人もいたようだが、食べ物については全然差別されなかった。ぐれなかった理由がここにあるのかもしれない。
 それに、祖母は長兄と次兄およびぼくとの差はつけたが、侮蔑とか虐待といったことは決してなかった。次兄とぼくに対しても愛情をもっていた。差をつけるとは溺愛と愛との違いだった。
 井戸のすぐ横まで畑になっていた。畑には糞尿をまかなければならない。まいた糞尿は井戸水に到達するまでに土で浄化されるから飲み水に影響を与えることはない、と信じていた。
 ある日、白衣を着た保健所のおばさんが1人で水質の検査にきた。井戸水を汲んで試験管にいれて視ていたが、突然、白い薬を井戸の中に放り込んでしまった。
「3日間この井戸水は使わないでください」
 小さい声で言って、隣の家へ向かった。何の説明もなかった。
 畑にまいた肥やしが井戸水に滲みこんだのだろうか、そんなことはない、井戸掃除のとき大量の山水が井戸の中を流れているのを見ているぼくには納得がいかなかった。
 隣の家は同級生М君の家だ。
 М君の家でも何も言わないで薬を井戸に落として行ったらしい。
 さあ困った。3日間も水なしでは生活できない。水を何処(どこ)かへもらいに行かなければならない。ところが保健所のおばさんは、村中の井戸に薬をいれたらしい。
「どこで水を確保するのだ」
 村のあちこちで「困った困った」となった。
 結局、М君の父さんが家の裏に掘っていた井戸は、保健所のおばさんに見つからなかったということが分かって「ほっ」とした。
 村のあちこちから、
「保健所もひと言、前もって言ってくれれば、水の溜め置きするのに」
 ぶつぶつ文句を言いながらМ君の家へもらい水に来ていた。
 これが現代なら、ただちに保健所へ文句を言う人もいるだろう。だが、この時代、お役所へ文句を言う人はだれもいなかった。
「お役所のすることだからしかたない」
 これでけりがついた。