温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

定番

 

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 小中学校時代、夏休みの宿題でよく描いた絵である。

 当時の出来栄えがどのようなものだったかは、現物が残っていないので分からないが、浜辺で遊ぶ幼児、沖合に設置された飛び込み台、水平線上の入道雲と止まっているかのようにゆっくりと航行する船はいつも描いていた構図であった。

「中学生レベルやな」

 と揶揄する女房の評価から、当時の絵もこの程度かなと思ったりしている。

 

 追補:絵の場所は島根県の福光海水浴場です。右手に見えるのが蛇島、左手の松の生えている島が松島ですが松は枯れてしまい、今は岩の島だけになっています。

 この場所は、佐田啓二の「集金旅行」(1957年)及び渥美清の「男はつらいよ寅次郎恋やつれ」(1974年)のワンシーンに出ていました。

  

反抗

 

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「今日はクラシック音楽を聴きます」

 中学3年の3学期で音楽の時間だった。

 先生は壇上の奥にあるテーブルの上から蓄音機を持ち出して蓋を開けた。

 箱の横に付いているハンドルを数回まわしてから、箱の奥から伸びているアームの先に付いている、サウンドボックスと呼ばれる空飛ぶ円盤のようなものに2センチほどもある鉄の針を取り付けた。

竹串の先端のような形の針だった。

「ベートーベンの月光だよ」

 先生は慎重に、回転しているレコード盤の一番端に載せた。

 ザーという雑音のあと音楽が出てきた。

 静かな曲だった。

 目を瞑ってしばらく聞いていると眠くなった。

 ウトウトと聞いていると、後ろの方で男生徒が隣と話し始めた。

「静かになさい」

 陶酔しきったように聞き入っていた先生がたしなめた。蓄音機には増幅器が付いていないので大音量は出せない、聞き手が騒(ざわ)めけば誰もが聴きにくくなる。

「みんなに迷惑でしょ、静かになさい」

 もういちどたしなめた。

 しばらく静かにしていた生徒がまた話し始めた。

「○○君、ここへ来なさい」

 レコード針の付いた円盤を元に戻して先生が立ち上がった。

 ふて腐った態度で、呼ばれた生徒が先生の前に立った。先生は自分より首ひとつ背の高い男生徒の頬を平手で叩いた。バシッと派手な音がした、そのとき先生がドテッと倒れた。叩かれる瞬間生徒が先生に足払いをくわせたのだ。

 みごとに倒れた。

 先生は何も言わずに教室を出て行った。

 次は担任の男先生がやって来ることは明白だった。

「怒られるやろな」

 生徒が先生に暴力をふるったらただでは済まされない、男先生全員がやってきて徹底的に張り倒されるだろう。当時は教師によるどのような制裁を受けても暴力にはならず教育指導であった。

倒した本人は停学か退学になるかもしれない。

 僕らも全員が怒られると覚悟した。

「それにしてもみごとに倒れたな」

 これから起こるであろう恐怖にみえを張って、隣の生徒に小さな声で話し掛けた、返事は返って来なかった。わずかに複雑な笑顔を見せただけだった。

 担任がやって来た。僕らは首をすくめた。

「あのなー」

 意外な言葉が出た。

「あんまり怒らすなよ、先生も短気やからな」 

 担任は怒っておらず、女性教師の弁護をしなかった。先生を倒した生徒を見るでもなく全員に話した。

「授業時間が終わるまで、ここで静かに座っていろよ」

 担任はそれだけ言って出て行った。女先生に言われて仕方なしに来た風であった。

「自分より背の高い儂(わし)を叩くとき右足が浮いたからな、そこを蹴ったらいちころだ」

 先生を倒した生徒が小さな声で言った。してやったりという顔であった。

 彼に同調する者はいなかった。

 誰もが終業のチャイムが鳴るまで、ただ静かに座っていた。

 驚いた。今まで先生に反抗した生徒なんていちども見たことがない。

 もうすぐ卒業だということが男生徒の気を大きくし、担任も怒る気にならなかったのかもしれない。

 

クヌギ

 

 わが家の裏山は雑木林だったがクヌギの大木が多かった。

 クヌギのことをマキの木と呼んでいた、といっても高野マキなどの槇ではなく、風呂焚きや台所で使う薪のことで、燃料として使うと火力が強くて、他の雑木より格段の良さがあった。

 クヌギは木炭の材料でもあった。

 ただし、裏山の木は自然災害を防ぐ目的を持っているため伐採することはせず、燃料は村境近くにあるわが家の山から切り出していた。

 

 ある年、業者が裏山にあるクヌギの木の表皮を買いに来た。表皮だけを剥ぎ取って幹には傷つけないということなので売ることにした。

業者の人は5人ほどで山に入って、慣れた手つきで皮を剥いでいった。

「何にするのか」と聞いたら、「コルクの材料だ」と言った。

 

 小学校の各教室にあったストーブはクヌギの割り木を燃やしていた。

 

 6年のとき、隣村の人が裏山の木を「タキギにしたい」と買いに来た。

 25000円だというので祖母と母は売ることにした。当時、女性の日雇い仕事で10日分だった。

「薪に必要な木だけを切るだろう」と思っていたが、その人たちは1400坪ほどもある裏山を丸裸にしてしまった。

  これには祖母と母は驚いていた。

「そんな値段なら、うちでも欲しいよ、割り木にして売れば大儲けできたのに」

 同じ集落の人に言われて「しまった」と気づいたが後の祭りだった。雑木の値段で売ってしまったのだ。

 あれから60年、裏山はクヌギ生い茂る元の山に還っている。

中秋の名月

 

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    出た出た月が 

              まあるいまあるい まんまるい

    盆のような月が

 童謡・月

 

 祖母が月見だんごとサツマイモを縁側に置いて、母はススキを徳利型の白い花瓶に生けた、これがわが家の供え物だ。

 わが家ではサツマイモを中秋の名月に合わせて初めて3個だけ収穫し、お月さまへの供え物としていた。5月に植えたばかりだから、まだ実は太くなっていない、細く筋の入ったサツマイモだった。本格的な収穫は稲刈りが終った晩秋になる。

 縁側に座っている祖母が煌々と輝く月に向かって手を合わせ念仏を唱えた。

 祖母は太陽も月も崇め信仰していた。朝、お日様を拝むときは柏手を打って祝詞をあげ、月に対しては両手を合わせ念仏を唱えている。

 M君とY君、I君兄弟が遊びに来た。僕らは夜に集まって遊ぶことはなかった。盆と今夜だけが夜遊びしても親はなにも言わない。

「村の中を散歩しようか」

 灯なしで田んぼ道を歩いても何の支障もない。

 マムシ対策に皆がゴム長靴に履き替えて出発した。

 家を離れて田んぼ道にでると満月が一層大きくきれいに見えている。

「普段の満月より大きいな」

 確かに大きいと思った。

♫出た出た月が まあるいまあるいまん丸い♪

 皆ができる限りの大声で歌った。

              ☆        ☆

 2018年9月24日、今宵は中秋の名月である。でも満月は明晩らしい?!

 

ワラ(藁)ぶき屋根

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「夏涼しくて冬暖かい」と言われているワラぶき屋根の家に生まれて高校卒業まで育ったが、このメリットに気づいたのは離郷した翌年に、瓦屋根の家に建て替えてからだった。

 夏の休暇で帰省したとき、昼寝をしようと座敷に枕を出して横になった。

「暑い」

 部屋が暑い。

 扇風機をかけても生温かい風がくるだけだ。涼しい場所を探して結局納戸と座敷の間の薄暗い廊下に身を横たえた。

 夜になっても部屋の温度は下がらない寝苦しい夜があった。ワラぶき屋根と瓦の違いを知らされた。

   幼少年期、どんなに暑い日でも部屋の中は涼しかった。

 座敷に横になって昼寝しているとサワサワと涼しい風が流れ気持ちよかった。

 暑い日は隣のおばちゃんが枕を持って昼寝に来ていた。

 夜は寝具を掛けなければ寝冷えの恐れがあった。

 

 麦ワラで葺いた屋根は風に弱いと僕は思っていた。

 ある年の秋、僕の村を台風の目が通過した。

 山陰地方は台風が来てもかなり弱まっているがその時は勢力も衰えることなくやってきた。

一晩中暴風雨の音と建物のきしむ音に寝具のなかで耳をそばだてていた。

―いつ家が倒れるか。

 と恐れていた。

「倒れたらタンスの横へ逃げろ」

 祖母が言った。

「家の梁が崩れてもタンスで隙間ができる」

 祖母は家がつぶれると思っている。今ではタンスも倒れる危険があるとタブー視されているが当時は安全だとされていた。

 ポタ、ポタ、

 天井裏に置いているバケツに雨漏れが溜まっているようだ。

 そろそろ葺き替えの時期になっている。

 朝が来た。

 朝日が昇っていた。

 屋根の麦ワラは吹き飛ばされて、ほとんど無いだろうと思っていたが、西の角がわずかに飛ばされただけでほとんど被害はなかった。

 一時間後、また暴風になった、風だけだった。こんどは外が見えるので恐さはなかった。

 このとき、家の横にあった太さ20センチほどの桐の木が根元から折れただけでその他の被害はなかった。

 ワラぶき屋根も意外に強かった。

 後日、台風の目が村を通過したと学校で聞いた。

 

 ワラぶき屋根を維持するのは大変である。

 茅を材料とする茅ぶき屋根は20年から30年は寿命があると言われているが、麦ワラを使うワラぶき屋根はせいぜい5年ほどであった。その間に材料となる麦ワラを確保しなければならない。

 そのためわが家の三反(30アール)の田んぼすべてで麦を作った。それでも数年分を溜めなければ必要量に足りなかった。

 麦を食料にするのはわずかだったが麦わらを確保するための作付けであった。麦は農協へ出荷した。

 秋に稲を刈り取った田んぼを耕して種麦をまく、春5月に麦を刈り取ってから田んぼを耕して稲を作る。

 わが家だけではない。当時はワラぶき屋根の民家や納屋が多く、村中みんながこれら農作業をしていた。だから、6月の第一週には農繁期休暇があった。

 農繁期には早朝から家族総出で農作業に取り掛かり日が暮れるまで働いていた。

 農作業は単調な力仕事である、体力限界の力を振り絞って黙々と働く。頭を空白にして一心不乱に働らかなければ一日が長くてしかたない、すぐ嫌になって来る。

 僕は嫌いだった、野良仕事なんてしたくなかった。

 わが家の屋根の葺き替えは経費の問題から、いちどにすべてを葺き替えるのではなく、年を変え片面ずつ行った。今年は前面である。

 朝、職人のおじさんが手伝いの男の人を連れてやってきた。

 職人さんらは屋根に上って、足場となる太い孟宗竹を横に取り付けた。この竹は毎年秋に刈り取った稲を天日干しするための「はさがけ」用だから家の軒下に棚を組んで保存してある。

 屋根に4段の足場を取り付けると、古いワラを荒っぽくはぎ取って落としていく。たちまち真っ黒な埃が空にのぼっている。

 しばらくしたところで僕が職人さんに呼ばれた。はしごを上り、屋根に取り付けた足場に沿って上っていくと、

「これ何だか分かるか」

 職人さんが指で示した場所にはイクラの卵を小さくしたような黄色のきれいな卵が群れていた。

「ムカデだよ、このムカデは大きいやつだから大きくなったら10センチ以上になる」

夏の夜、寝ているときに体の上をモゾモゾと動き回った。爆睡している僕は無意識に手で掻こうとするからムカデに噛まれてしまう。噛むといっても口ではない、体の尻に付いているタガメのような鋭いツメで噛んで毒を入れるのだ。

「痛!」

 飛び起きると体長10センチほどもある黒い大きなムカデがいた。

「この野郎」

 新聞紙を丸めて叩き殺した。

 刺された患部が赤く腫れてきた、痛みは数時間で消えたが腫れは三日ほど引かない。

 蚊帳の中に寝ているのにムカデは潜り抜けて侵入してくるしまつの悪いやつだ。人間の体温を感知して寄って来るらしい。

「食べてみるか、うまいぞ」

 職人さんは冗談を言ったが、もちろん見るからに食欲の出るものではなかった。

 家の屋根に巣を作っていたとは驚きだ、わが家にムカデが多いのもこのせいだった。

 家族は総出で庭に落ちた煤だらけのワラを集めて300メートルほども離れた田んぼに背負っていく。

 取り除くのは早い、午前中の作業で屋根は木と竹の骨組みだけになった。

 午後は新しい麦ワラを載せていく。

 職人さんは載せたワラを固定するため、長い棒の先端に開けた穴に縄をかけて屋根に突き刺す、手伝いの男の人が屋根裏で待機し、入ってきた縄を梁や垂木に回して外に戻している。

 僕も屋根裏へ入ってみた。初めて見る屋根の骨組みはすべて縄で括っているだけだ。

 黒光りした材木や竹を結んでいる縄は意外なほど色が変わっていない。葺き替えの度に点検して補強、交換をしてきたからである。今年はその必要がないらしい。

 職人さんは屋根裏の人が見えないはずなのに、ピタリと受け手の人の前に突き刺した棒が出てきた。長兄がワラの束を上の職人めがけて放り上げる、「ほい」と投げ「ほい」と受け取って、束にした縄を解いて屋根に載せ葺いていく、手際がいい。

 夕方には、ほぼ葺き終わっていた。今日の作業はこれで終わりだ。

 二人の職人さんに風呂へ入ってもらい、夕食を勧めた。

 ほろ酔い気分の二人が帰ってから、僕らも風呂に入り夕食を済ませた。

 屋根はまだ未完のままである。雨が降れば大変なことになるが夏の今日明日は心配なさそうだ。

 翌日も二人の職人さんが来た。

 今日の作業は屋根の棟を葺くことから始まる。職人さんが長兄を連れて裏山に入り、棟の押さえに使える竹を選んで切った。僕と母は一本ずつ家の前まで運び出していく。

 職人さんが棟に上がり、手伝いの人は屋根裏へ入った。僕は屋根の中間に仮設している竹の足場で下から母が放り上げるワラを長兄に渡す中継ぎだ。

 屋根葺き作業は午前中で大方終わった。

 午後は職人さんが柄の長い剪定鋏で新しい麦ワラを切り揃えていった。

 屋根の棟から始め、切りそろえながら足場にした竹を取り払い下りてくる。徐々にきれいな屋根が増えてくる。

「散髪じゃー」

 ジョキジョキと快い鋏の音を発しながら職人さんが言った。

 散髪の終わった屋根は見違えるほどきれいになった。

 

 

七夕さま

 

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 ささのは さらさら

 のきばにゆれる

 おほしさま きらきら

 きんぎん すなご

   童謡・七夕さま

 

 幼少期、夜空の星はくっきりと見えていた。

 現在、夜空を見上げても一つか二つしか見えない、天の川も北斗七星も、もう数十年見ていない。

 7月のはじめに描き始めた七夕さん、なかなかイメージが浮かばないので今頃になって描き終えた。

 

ボベイとジージー(2)

 先日(7月12日)投稿した「ボベイとジージー」について「いいね」を頂き、「ボベイは地元のスーパーに売っていましたよ、水槽に張り付いていました」との貴重なコメントを頂戴した。

 「ほー」というのが僕の思いだった。ボベイという呼び名はわが家だけのものではなく、地域で流通している名だったこと、また、海岸の岩場へ行けば波打ち際でいとも簡単に獲れるボベイを売っていたことにもびっくりした。

 

 僕が30代の頃の春先、和歌山と大阪府の県境近くの海岸でボベイを獲って炊き込みご飯にしたところ、匂いはボベイ飯そのものだったが苦くて食べることができなかった。

 ボベイを食べることができるのは、地域性があるのか季節によるのかは分らなかった。

森の水車

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  緑の森のかなたから

陽気な歌が聞こえましょう

あれは水車のまわる音

「コトコトコットン ファミレドシドレミファ

 コトコトコットン コトコトコットン

 仕事にはげみましょう

 コトコトコットン

 コトコトコットン

 いつの日か

 楽しい春がやってくる」

 

 童謡・森の水車

 

 

   水車を見た記憶がある。

 五歳か六歳のとき、祖母と二人で村の外れになる集落から、さらに人が歩くだけの狭い道を水量の多い谷川に沿って入って行った。

 しばらく行くと太い丸太を渡しただけの橋があり、その先の森の中に水車があった。

 祖母は僕の手をとって橋を渡り、水車小屋の前へ出た。

 ザーゴットンゴットンと水車が回っている。開け放たれた戸口から室内を見ると、水車から出た太い丸太(芯棒)が部屋を貫き、その下土間に半分地に埋まった二つの石臼があった。その上に縦に取り付けられた丸太(杵)が芯棒の回転に合わせてグーッと上がり、ゴットンと石臼の中に落ちた。石臼には米が入っていた。

 初めて見る水車小屋を興味津々で見つめる僕を祖母は立ち止まって待っていた。

 記憶はここまでだった。

 こんな山奥に何の用事で来たのか忘れている。おそらくこの奥にある民家へ木炭を買いにきたのだろうと思うが、そのあたりの記憶がない。

 ただ、もう一つ。断片的に残っているのは、水車小屋からさらに歩いて行った道はそのまま民家の庭になり、縁側の前を通って玄関へ行ったこと、縁側は枯れた竹の葉の吹き溜まりになっていたこと、家は孟宗竹林の中にあり、放し飼いのニワトリが竹林の中にいたことである。

 この家を

「スズメのお宿」だと僕は思った。

 

 

 

ボベイとジージー

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                          サザエ(左がトゲのないもので僕らはトコナツと呼んでいた)

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「明日海へ行ってボベイの炊き飯を作ろうか」

7月も終わりに近いころ、晩御飯を食べているとき、めずらしく母が言った。

「行こう」

 誰も反対する者はいない。

 ボベイとはカサガイの一種、マツバ貝で大きさは1~2センチぐらいしかない小さな貝であるが炊き込みご飯にするとだしが良く出て美味い。ジージーも磯にいる小さな貝でイシダタミ貝だ。
 ボベイとジージー、この呼び方はおそらくわが家だけのものだっただろう、いずれも店にでることもなく売買のない貝だった。

 僕の家では炊き込みご飯を炊き飯と呼んで、兄弟3人の誕生日に作っていた。

 翌朝、母は海へ持参する米や道具を縁側に並べていた。

 米1升、醤油差しの瓶に入った醤油、笹切りにしたにんじん、ゴボウ、コオコ(たくあん)、1升炊きの羽釜、マッチ、茶碗人数分、1升瓶に入れた水。

「これでいいかな」

 母と長兄が最終チェックしてから3個の背負い籠に分散しながら入れて行った。

 母と長兄、次兄が背負い籠を負い、僕は1升瓶に入れた水を両手で持って出発した。次兄は3本刃のヤスを持っている、ゴムで射出するヤスだ。

 祖母は留守番だ。

 40分歩いて、いつも泳ぎに来る海岸の岩場に着いた。

 駅近くの海水浴場では数人が泳いでいたが、遠浅の浜なので僕らには面白くない、岩場で貝を取るのが僕らの海水浴だ。さらに10分ほど歩いて岩場にやってきたのだ。

 そこは小さな湾の奥に狭い浜がある。数軒しかない漁港だが、湾の入り口は大きな岩を積み重ねた防波堤が波を消している。舟の航路以外は浅い岩場が広がり、泳ぎの下手な僕らにとっては格好の遊び場だ。

 さっそく、長兄と僕は波打ち際の岩場に張りついている(密着)ボベイをマイナスドライバーで起こし採った。

泳ぎの得意な次兄は水中メガネをつけて海へ入った。

 母は、石を並べて造ったカマドで拾い集めた木を燃やして、羽釜で海水を沸かしている。

「これぐらいでいいかな」

 長兄が集めたボベイを母に見せた。

「それぐらいでいいな」

 長兄から受け取ったボベイを羽釜の中に放り込んだ。しばらくして貝と身が離れたことを確認した母が竹のザルに移して貝がらを捨て、身だけを残した。

 海水で洗ったコメとニンジンやササガキゴボウなどの具を羽釜に入れて真水を定量まで入れた。

「できたで」

 母が大きな声で僕らを呼んだ。

 次兄が寒さで紫色になった唇をガチガチと震わせながら上がってきた。腰に付けた網袋が大きく膨らんでいる。

「なにを獲った」

 受けとった袋が意外に重い。

「見てみろ」

 次兄は得意満面だ。

「うわ、タコだ」

「岩の陰でこっちを睨んでいたからヤスで突いたった」

 タコの頭は裏返しになっていた、こうするとおとなしくなる。

「ほい‼」

 と、トコブシを取り出した、トコナツもある。サザエでトゲのないものをトコナツと言っていたが、この地方の方言で一般的にはトゲはなくてもサザエである。

売買取引のない魚介類については地方独特の呼び名があった。

僕の地域では、グレのことをクロヤイ、チヌをチン鯛、ガシラはボッコと言っていた。トビウオをアゴと呼んでいるが、これは方言の域を脱しつつある。

「これはバアサン(祖母)の分だ」

 次兄が大きなサザエ2個を編み袋に戻して海水に浸けた。

 僕とは4歳年長で村でも評判のワンパク少年だったが心は僕や長兄とは遥かに優しかった。

「メシはちょっと待て」

 母が立ち上がって鍋に入れた海水を煮たてた。

 グラグラ煮えたぎっている鍋の中にタコを生きたまま入れた。瞬間、タコの足はすべて上にまくれ上がり赤くなった。

 鍋から上げたタコを母がブツ切りにした。

 ボベイ飯にゆでたタコに醤油を付けて食べ、タクアンをかじる。

 美味かった、来年も来たいと思った。

 腹いっぱいになった僕らは岩場の浅瀬に入ってジージー獲りだ。母もシュミーズ姿になって海に浸かっている。

 僕は海中の岩の上に立って呼吸すると、水中メガネで岩の隙間をさがしながら泳いで貝を獲っていった。苦しくなるとまた岩の上に立って呼吸する、この繰り返しだ。

 海中に顔を沈めるとメガネの中に水が入ってきた、僕が持っているのは目と鼻を覆う一体型で楕円形のメガネだが、横幅が狭い僕の顔に合う水中メガネはない。面倒だが呼吸で立ったときにメガネの中の水も外に出さなければならなかった。水中では耳に侵入した水を抜くため鼻をつまんで空気を耳から外にだす必要があるが、僕はこれができない、ツバ(唾液)で耳をふさいでも水が侵入した。

 広い岩場にあがって日射で熱くなった小石を耳に当て下に向けて飛び跳ねると、なま温かい水が流れ出た。

 その夜、次兄が七輪に火を熾してサザエ2個を生きたまま載せた。ブクブクと泡を出していたサザエの蓋の上に醤油を差し砂糖を少量入れた。

パクッと蓋が開いた。

「ほい、できたで」

 次兄が照れ隠しに乱暴な言い方で祖母に箸を渡した。

 祖母がうれしそうに2個をペロリと食べた。

 母がゆでたジージーを籠に入れて縁側に持って来た。祖母も加わって、針でジージーを貝から引っ張りだして食べた。磯の香と独特の味が口いっぱいに広がった。

「ヤドカリがいたで」

 針に突き刺したヤドカリを口に入れた。

「美味いな」

 皆が黙々と食べている。

植林

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 数年前に手に入れたわが家の山は元の持ち主が立木すべてを売り払って丸坊主になったままであったが、すでにシダや雑木が茂っている。

「このままではもったいない」

 ということで植林することにした、僕が高三の夏休であった。

 植林すると決めたのは母と長兄が春に計画し苗木を農協へ発注していたのを僕は知らなかった。

 植林する山は、昔からのわが家の山1町歩(1ヘクタール)の隣で2町歩の山だった。

杉、ヒノキ、松をそれぞれ150本ずつ植えることになっていた。

 農協から届いた苗木は、ひとまず家の横にある畑に仮植えしておいて植林作業に入った。

 まずはシダや雑木の伐採である。

 朝露に足元を濡らしながら弁当を持って山に入った。家から山までは徒歩で15分ぐらいだ。

 隣町へ通じている国道の右側に伸びる尾根の南側で、国道からは裏手になる谷沿いだった。

 谷には田んぼが一面ずつ縦に棚田となって、谷全体としても1町歩に満たない狭い谷で、道はそれら田んぼの横を上がっていた。

 山に着くと荷物を谷川の横に置いて斜面を登っていった。

 裾部から木こり鎌やノコギリでシダや雑木を伐採しながら上っていくのであるが、斜面を裸にするより楽な方法で1メートル幅で横に切り取り、1メートル幅の雑木を残して次の1メートル幅を切り払っていく横縞模様にしていった、こうすれば労力は半分で済むし、かなりの急斜面でも我々が転げ落ちる心配はない。

 僕は母と組み、母の4,5メートル先を進みながら鎌では切れない樹木をノコギリとナタで切り倒していった。長兄はすべてを1人でしながら、一つ上の列を作っている。

 ノコギリは近所の大工さんに頼んで目立てをしたばかりなので面白いほどよく切れる。鎌とナタは母が研いでいた。

 この年は猛暑が続いていた。山は乾燥して木々や草に付着した埃が舞い上がり、ムッとする草いきれに体はドロドロになっている。

 汗をかくから喉が渇く、ヤカンで持参した谷川の水をラッパ飲みする、大変な労働だった。

 それでも1週間で伐採は終わった。だが、山の土は乾燥しているので植え付け作業はできない。にわか雨や夕立が増えてくる8月下旬まで待つことにした。

 1日休養してから、伐採した雑木を一抱えずつ集めて1束とした。これを下の道に近い場所に集めていった。これらの雑木はわが家の風呂焚きや炊事の燃料にするのであるが、涼しくなる晩秋まで家へは運ばない。この暑いのに背負って運ぶことなどできないからだ。

 夜が涼しくなり雨の日も多くなってきた、植樹の開始だ。

 家の横の畑に仮植えしている苗木を負い籠にいれて山に入った。

 刈り取った山肌をクワで穴を掘り1本ずつ植えていく。石があればツルハシを使う。

 すべてを植え終わったのは夏休みも終わりに近いころになっていた。

 

 10年後、夏の帰省時に「あの木はどうなっているだろう」と思い、母と山へ入った。

 谷の入り口から奥まで1列に並んでいた棚田はすべて耕作放棄し、杉やヒノキが植えてあった。

 すでにかなりの大きさになっている。

 わが家の植えた樹木は枝おろしをせず放ったらかしにしているから材木としては使えない。太く成長した木の下に成長の遅れた木がいっぱいある、間伐もしていないからだ。

 山肌は草木がなくなり、小石がバラバラと転げ落ちるさまだ、完全に死の山になっている。

 

 20年目の夏、建材として出荷するには一番いい時期だが、放置してきた山だから売り物になる木は少ないだろう。それに松くい虫にやられて中国地方の松はすべて枯れてしまったから、わが家の松も全滅している。

「たとえ切ったとしても山から搬出するのに谷の道は狭くて車が入らないから、いちど尾根まで上げて、他人の山にロープを張って吊り降ろさなければならないが、とんでもない費用がかかる」

 母は諦めていた。

 当時は海外からの安い材木が大量に輸入されて、国産の材木は売れなくなっていた。

 今では谷に入る人もなくなり、谷の入り口の道はフェンスで遮断されている。

 猛暑のなかヒイヒイ言いながら植樹したあの苦しみはなにだったのだろう。