温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

裸足

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 昭和二十六年(一九五一)四月、新しいランドセルを背負いズック靴を履いて村の小学校へ入学した。

 ズック靴は一年で破れ、後はゴム草履かワラ草履で通学した。高学年になると下駄での通学が多かったがいずれも素足である。

 ズック靴のときも素足に履いていた。

 学校に着くと上履きの草履に履き替えた。

 雨降りの日は素足のままゴム長靴を履いていた。

 大学を卒業したばかりの男先生は、二つ離れた駅から紺の背広を着て素足のまま高下駄で通勤していた。下駄も靴と同じように正装用として履くことの出来る履物であった。

 卒業記念の撮影でも先生は背広に下駄姿で写真に収まっている。

 冬は黒足袋(くろたび)を着けて長靴や下駄を履いていた。

 校内で先生は革靴を改造したスリッパを履いていたので底がぶ厚く、パタンパタンと大きな音がしていた。教室にいてこの音が近づいてくると皆が自分の席に着いた。

 当時はハンカチをポケットに入れる概念はなく、先生の腰の右後方ベルトに挟んだ手ぬぐいが長く垂れさがっていた。

 上級生になった男児は先生と同じように下駄で通学し、手ぬぐいを腰の後ろにぶら下げる者もいたが足が短いのだから似合わない、これは大人のスタイルであった。

 運動場で体操をするときは先生も生徒と同じ裸足になり、教室に上がるときは玄関脇の洗い場で足を洗った。

 体育館でも裸足だ。

 運動会も全員が裸足だった。

 家では真冬でも裸足だった。

 外に出るとき冷たい雨や雪の日はゴム長靴を履いたが、それ以外は黒足袋を着けて草履や下駄で遊んだ。

 夏、川の中で遊ぶときも草履を脱いで裸足で走り回った。それでも痛くもないしケガをすることもなかった。足の裏は草履を履いているごとく強靭だった。

 ただし、夏に田んぼへ行くときや山に入るには毒蛇のマムシに噛まれる危険があったので長靴を必ず履いて行った。田んぼへは畦道に長靴を置いて裸足で入った。

ライスカレー

 油で炒めた玉ねぎ、にんじん、ジャガイモを鍋でじっくり煮て、野菜それぞれの形が崩れてきたものにカレー粉を入れ、さらに水で溶いたカタクリ粉でトロミを付けて出来上がりだ。

 これがわが家のライスカレーだった。

 肉類は隣町まで峠を越えて買いに行かなければならないので入れない。

 現在のような固形のカレールーは売っていないからコクも粘りも少ない、シャブシャブのカレーだったが家族全員が好きだった。

 冬の寒い夜に、サラサラっとかき込む熱いカレーは体も温まった。

 

 わが家ではライスカレーと言っているのに世間ではカレーライスと呼ぶ。この疑問が解けたのは僕が大人になってからである。

 海軍はカレーライスと呼び、陸軍はライスカレーと呼んでいた。

 僕の父親は陸軍だった。

 

 

ヤギミルク

 中学生のころ、近所に来たお嫁さんの母乳が出ないため、ヤギの乳で赤ちゃんを育てているということを聞いた。

「ヤギの乳?飲めるんか」

 ヤギを飼っている同級生のH君に聞いた。

「牛乳より栄養があるんだぜ、俺の家(うち)でも乳を飲むために飼っているんや」

 意外だった。ヤギは犬や猫のようにかわいいから飼っているとばかり思っていたのに、乳を飲むためだったとは。

「粉ミルクがあるやろに」

「母乳が出ない人は昔からヤギの乳と甘がゆ(甘酒)を飲ませているんやで、粉ミルクなんか飲ませられるか危ないよ」

 当時は森永砒素ミルク事件が起きたばかりである。毒物の混入した粉ミルクを飲んだ赤ちゃんが大勢亡くなっていた。

「ヤギの乳の方が安全だ、ただ、ちょっと青臭いがな」

 H君も飲んだことがあるらしい。

「今度、持ってきてやろうか」

「いや、いらん」

 僕は飲んでみたいとも思わなかった、やはり牛乳の方がましだと思った。

遊び・ビー玉

「ビー玉」のことを僕らは「ラムネ」と言った。元来、清涼飲料水ラムネの栓として作られたもののB級品で栓に使えないものだから「ラムネ」と言うのが正しいと思っていた。

 ビー玉は祭りの日の出店で買った。

  少年らはビー玉でよく遊んだ。

 庭の土面に直径5センチほどで深さは3センチぐらいの穴(一の穴)を掘って、5メートル手前から指で弾き転がして穴に入れた。

 指で弾くと右に逸れたり左に逸れたり短かったりとなかなか難しい。

 一の穴に入ると右手2メートルの二の穴に入れ、そこから一の穴を狙って戻し、今度は左手2メートル先の三の穴に入れる。また一の穴へ戻し、最後に6、7メートル先の天の穴に入れて上がりだ。

 これで勝てば一位になった者は他の者から1個ずつビー玉を取り上げた。

 

 10メートル先に目印の棒を立て、僕らは立ったままビー玉を放ち、棒に一番近いところに寄せたものが勝ちで他者のビー玉を取り上げた。

 単純な遊びだったが取り上げたものは自分の物になるから真剣だ。

 ある日の夕方、遊びから帰った次兄が新しいきれいなビー玉を両手いっぱいになるほど持ち帰った。

「どうだ、こんなに取り上げたんやで」

 得意満面で自慢した。

 外はもう日暮れに近かくなったころ、僕の家へ上がる石段の中ほどで小学三年のK君が立っていた。不審に思った母が「なにか用事か」と聞いたがもじもじしていて何も言わない。

「どうしたのかな」

 と僕ら兄弟に聞いた、そのとき次兄が握りこぶしぐらいの袋を持って外に出た。中にはビー玉が入っている。

「あんな子から取り上げたのか」

 僕らは唖然とした。

 中学生の次兄が小学生と競技してビー玉を取り上げたのだ。

 K君は母親から「返してもらいなさい」と怒られたようだ。

 次兄は手ぶらで戻った、すべて返したのだ。

「勝負は厳しんやで」

 唖然としている僕らに次兄は照れ隠しの言葉を放った。 

 

 負けて取られたら無くなってしまうから僕は勝負はしなかった。それでなくても手元には5、6個しか持っていないのだ。僕と常に遊んでいる友だちもそんな程度だった。

勝った者は最後にそれぞれに返した。            

真っ赤な秋

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 まっかだな

 まっかだな

 つたの葉っぱが真っ赤だな

 もみじの葉っぱもまっかだな

 沈む夕日に照らされて 

 まっかなほっぺたの 君と僕

 まっかな秋にかこまれている

   童謡:真っ赤な秋

 

雪平鍋

 

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 現在の雪平鍋は蓋の無い片手鍋を言うようであるが、僕の幼少期は蓋の付いた土鍋の一種であったように思う。

 分厚い土鍋であったため、七輪の炭火でコトコトと長時間かけて煮たり煎じたりするものに適し、家族が病気になったとき薬草を煎じた。

 風をひけばキンカンと氷砂糖で喉薬や重湯(おもゆ)、白がゆを作ってくれた。

 現在ではあまり見なくなった鍋だ。

 

5勺の米

 勺(しゃく)は尺貫法の体積の単位である。1合(ごう)=約180ミリリットル)の10分の1が1勺になる。だから1合の半分が5勺だ。ちなみに「わんかっぷ大関」は1合らしい。

 まわりくどい説明をしてしまったが、僕が小中学校の修学旅行のとき1人1泊5勺ずつ白米を持参して旅館に渡した。6年のときと中2のときは1泊だったから白米5勺を自家製の木綿袋1袋、中3のときは旅館3泊だったから3袋を持って行った。要するに自分の食いぶちは自分で持参するというのが当時であった。

 旅行の前日、母は日本手ぬぐいで米を入れる袋を縫ってくれた。

 心躍らせて出来上がるのを待った。

僕らは1人1合は平気で食べていた元気ざかりだ、5勺では足りないはずだが旅館では腹いっぱい食べることができた。

 ただし、米を測るマス(升)は1合マスが最少単位で勺マスは無かったから母はいつの場合も1合を入れていた、こういう人も多かったかも。

 高校を卒業して京都へ就職したとき、米穀通帳を会社へ提出したが、いつのまにか必要なくなっていた。

紅葉のころ

 

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 生まれたときから住んでいる僕にとって春には桜が咲き、秋に山が紅葉するのは当たり前のことであって花や紅葉を愛でるという気は起きなかった。

 だが、年によっては土手に咲き誇った桜を、黄色に染まった山を見て「きれいだな」と思うことがあった。

 そんなとき僕は水彩画を描いた。

 

 

ヤキメシと茶わん蒸し

 高校でバスケット部に入っている長兄が遠征試合から帰った数日後、

「松江で焼き飯を食べたらうまかった」と初めて食べたヤキメシなるものをわが家でも作ってみることにした。

「何が入っていたか」

「玉ネギ、ニンジンにハムはあったな」

 長兄は具材を思い出している。

 ハムは食べたことがないし値段も高いのでソーセージを買ってきた。

 母と長兄が台所で相談しながらフライパンいっぱいに作ったヤキメシは、母のアイデアで入れたネギが多いため緑色の目立つものだったが、出来栄えは上々だった。

「初めてにしては上手くできたな」 

 母と長兄も満足そうに食べていた。

 以後、わが家のメニューに組み込まれた。

 

 またある日、長兄は松江の旅館で食べた茶碗蒸しの話をした。作り方を女中さんに聞いてきたらしい。

「卵なら沢山あるよな」

 ニワトリを飼っているから卵はある。

 長兄と台所に立った母は、かまどに火を熾し、水を入れた羽釜の上にセイロ(蒸籠)を載せた。

「器はないから、これにするか」

 と言って瀬戸物の汁茶碗を出し、長兄に聞きながら細かく切った具材と卵の溶いたのを入れた。

 セイロから出る湯気が天井まで上がっている。

「もういいだろう」

 母がセイロを下した。

 初めてにしては上手くできた。

「うん、この味だ」

 長兄も満足している。

「本物はイチョウの実が入っていたで」

 長兄が細かく切ったカマボコを箸でつまみながら言った。

 ギンナンなら秋に取っておけばいくらでもある。と思いながら僕も食べた。

なんでこんな簡単にできるのに今まで作らなかったのかなと思ったが、外食することのほとんどない母は茶碗蒸しを知らなかったのだ。

 

ラクダシャツ

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 冬になるとラクダ色の分厚い下着を着ていた。

 僕らはラクダシャツと言っていたが、実態はラクダの毛から造ったシャツをラクダシャツと言い高価であったため、僕らの着ていたのは表面がラクダ色、裏は白色の綿シャツだった。それでも分厚く裏はネル(表面が起毛されている生地)になっているので暖かく肌触りも良かった。特に新品のおろしたてのものは、どんなに寒い日でも寒さを感じない暖かさがあった。

村祭り

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村の鎮守の神様の

今日はめでたいお祭り日

ドンドンヒャララ ドンヒャララ

朝から聞こえる笛太鼓

 

   (童謡・村祭り)

桐と松

 盆の数日前、祖母が隣町から兄弟3人分の下駄を買ってきた。

 盆踊りに履く歯の短い下駄である。さっそく履いてみようと玄関に持っていくと、

「だめだ、新しい物は夜におろすものではない」

 迷信を信じる祖母に止められた。しかたない、明日の朝にするかと座敷の隅に3人分を並べて置いた。

「あれ、この下駄軽いな」

 長兄の下駄を持った僕が驚いた、長兄のは桐の下駄だったのだ。

 次兄と僕のは松材で作ったもので、ドッシリと重い。

「松の方が強い、お前らは乱暴に履くから松の方がいい」

 祖母が言った。

 長兄の分だけ値段の高い桐の下駄を買い、次兄と僕のは安価な松材だったのだ。今までずっとそうしてきたらしい。

 祖母はちょっとだけ気まずい顔をしたが僕はそれでもいいと思った、新しい下駄で盆踊りに行けるのだ。

 

 当時、雨の日にはゴム長靴を履いていたが、それ以外はゴム草履や下駄を使っていた。

 小学校でも上級生になると下駄で通学し、校舎の玄関でわら草履(ぞうり)の上履きに履き替え下駄は下足箱に入れて置いた。

 校庭で遊ぶときや体操も裸足だったから通学に下駄を履いても不自由はない。

 冬の雨や雪の日以外は黒足袋で下駄を履いた。

 正月にも新しい下駄を買ってくれることもあった。この下駄は足の指を寒さから守るためのカバーが付いていた。

 中学生になると上履きはズック靴に替わったが、男生徒は下駄で通学する者も多かった。

 僕も高下駄を履いて通学していた。高下駄になると台は桐材で歯は版画などに使う朴(ほうの)木(き)だった。またこの歯は摩耗するので下駄屋へ持っていくと安い値段で新しいのと交換してくれた。

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 製糖工場

 高校2年の春、国鉄の汽車で通学していた。

 学校があるのは僕の家の最寄り駅から三つ目の駅だったが、その一つ手前の駅裏手で造成工事が始まった。

 大きな工場が建つらしく、既存の町営住宅を別の場所に移し、さらに周辺の松林も切り開いて平地に造成した。

 この町営住宅に住んでいた同級生が「松などの材木からショ糖を造る工場だ」と言った。

 僕が通っているのは工業高校の工業化学科である。木材はブドウ糖グルコース)が直線状に結合したセルロースからできていることは知っていたから、面白いと思った。

工場の完成は僕らが卒業する頃だ。

―ひょっとして、多くの社員を募集するかもしれない、特に工業化学科卒業生は優遇されるだろう。

 大いに期待した。

 ところが造成が終ったところで工事が止まった。

―どうしたのか。

 僕の期待を裏切る様に工事は止まったままである。

 造成地には草木が生い茂った。

ーどうなったんや。

 3年のとき同級生に聞いた。

「安価な砂糖が大量に輸入されるようになったので、工場を造っても採算に合わないらしい」

 同級生は言った。

―そんなこと、計画段階で分かっていたことだろう。

 僕はひどくガッカリした。

兄弟おじさん

 小6から新聞配達をしたアルバイト先は40代と30代のおじさん2人で地域の中継配送を受け持っていた。おじさんたちは午前3時に出発して30キロほど離れた町まで当日の朝刊を受け取りに行き、受け持ち地区内に配送していた。

 そのために自動車やオートバイが必要である。当時は、やっと庶民の乗る国産乗用車が出てきたばかりで、僕が初めて見たのは大型オートバイを三輪にしたようなオート三輪であった。

 運転者はオートバイと同じようにイスを跨いで座り、オートバイと同じ横棒式のハンドルで運転していた。運転席にドアはなかったので雨や雪の日には旧陸軍のゴム合羽を着ていた、兄さんは帝国陸軍の軍曹だったのだ。

 僕の家では、女性の日雇い仕事の2日分しかない僕のアルバイト料も家計に組み込まれるほど貧乏をしていたので、当時は村に数台しか自動車のない時代に次々と新車を手に入れる兄弟おじさんには驚きだった。

  僕がアルバイトをしていた3年の間に、国産第一号のスクーター「ラビット」、大型バイク、現在のような丸いハンドルでドア付のオート三輪と次々に替わっていった。

 バイクは映画で視るドイツ軍のバイクのように大型で、エンジンから後輪への伝動はチェーンではなく太いシャフトであった。

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温泉津町福光・遥かなるふるさと(追補版)

 よもやま物語