温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

ボベイとジージー

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                          サザエ(左がトゲのないもので僕らはトコナツと呼んでいた)

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「明日海へ行ってボベイの炊き飯を作ろうか」

7月も終わりに近いころ、晩御飯を食べているとき、めずらしく母が言った。

「行こう」

 誰も反対する者はいない。

 ボベイとはカサガイの一種、マツバ貝で大きさは1~2センチぐらいしかない小さな貝であるが炊き込みご飯にするとだしが良く出て美味い。ジージーも磯にいる小さな貝でイシダタミ貝だ。
 ボベイとジージー、この呼び方はおそらくわが家だけのものだっただろう、いずれも店にでることもなく売買のない貝だった。

 僕の家では炊き込みご飯を炊き飯と呼んで、兄弟3人の誕生日に作っていた。

 翌朝、母は海へ持参する米や道具を縁側に並べていた。

 米1升、醤油差しの瓶に入った醤油、笹切りにしたにんじん、ゴボウ、コオコ(たくあん)、1升炊きの羽釜、マッチ、茶碗人数分、1升瓶に入れた水。

「これでいいかな」

 母と長兄が最終チェックしてから3個の背負い籠に分散しながら入れて行った。

 母と長兄、次兄が背負い籠を負い、僕は1升瓶に入れた水を両手で持って出発した。次兄は3本刃のヤスを持っている、ゴムで射出するヤスだ。

 祖母は留守番だ。

 40分歩いて、いつも泳ぎに来る海岸の岩場に着いた。

 駅近くの海水浴場では数人が泳いでいたが、遠浅の浜なので僕らには面白くない、岩場で貝を取るのが僕らの海水浴だ。さらに10分ほど歩いて岩場にやってきたのだ。

 そこは小さな湾の奥に狭い浜がある。数軒しかない漁港だが、湾の入り口は大きな岩を積み重ねた防波堤が波を消している。舟の航路以外は浅い岩場が広がり、泳ぎの下手な僕らにとっては格好の遊び場だ。

 さっそく、長兄と僕は波打ち際の岩場に張りついている(密着)ボベイをマイナスドライバーで起こし採った。

泳ぎの得意な次兄は水中メガネをつけて海へ入った。

 母は、石を並べて造ったカマドで拾い集めた木を燃やして、羽釜で海水を沸かしている。

「これぐらいでいいかな」

 長兄が集めたボベイを母に見せた。

「それぐらいでいいな」

 長兄から受け取ったボベイを羽釜の中に放り込んだ。しばらくして貝と身が離れたことを確認した母が竹のザルに移して貝がらを捨て、身だけを残した。

 海水で洗ったコメとニンジンやササガキゴボウなどの具を羽釜に入れて真水を定量まで入れた。

「できたで」

 母が大きな声で僕らを呼んだ。

 次兄が寒さで紫色になった唇をガチガチと震わせながら上がってきた。腰に付けた網袋が大きく膨らんでいる。

「なにを獲った」

 受けとった袋が意外に重い。

「見てみろ」

 次兄は得意満面だ。

「うわ、タコだ」

「岩の陰でこっちを睨んでいたからヤスで突いたった」

 タコの頭は裏返しになっていた、こうするとおとなしくなる。

「ほい‼」

 と、トコブシを取り出した、トコナツもある。サザエでトゲのないものをトコナツと言っていたが、この地方の方言で一般的にはトゲはなくてもサザエである。

売買取引のない魚介類については地方独特の呼び名があった。

僕の地域では、グレのことをクロヤイ、チヌをチン鯛、ガシラはボッコと言っていた。トビウオをアゴと呼んでいるが、これは方言の域を脱しつつある。

「これはバアサン(祖母)の分だ」

 次兄が大きなサザエ2個を編み袋に戻して海水に浸けた。

 僕とは4歳年長で村でも評判のワンパク少年だったが心は僕や長兄とは遥かに優しかった。

「メシはちょっと待て」

 母が立ち上がって鍋に入れた海水を煮たてた。

 グラグラ煮えたぎっている鍋の中にタコを生きたまま入れた。瞬間、タコの足はすべて上にまくれ上がり赤くなった。

 鍋から上げたタコを母がブツ切りにした。

 ボベイ飯にゆでたタコに醤油を付けて食べ、タクアンをかじる。

 美味かった、来年も来たいと思った。

 腹いっぱいになった僕らは岩場の浅瀬に入ってジージー獲りだ。母もシュミーズ姿になって海に浸かっている。

 僕は海中の岩の上に立って呼吸すると、水中メガネで岩の隙間をさがしながら泳いで貝を獲っていった。苦しくなるとまた岩の上に立って呼吸する、この繰り返しだ。

 海中に顔を沈めるとメガネの中に水が入ってきた、僕が持っているのは目と鼻を覆う一体型で楕円形のメガネだが、横幅が狭い僕の顔に合う水中メガネはない。面倒だが呼吸で立ったときにメガネの中の水も外に出さなければならなかった。水中では耳に侵入した水を抜くため鼻をつまんで空気を耳から外にだす必要があるが、僕はこれができない、ツバ(唾液)で耳をふさいでも水が侵入した。

 広い岩場にあがって日射で熱くなった小石を耳に当て下に向けて飛び跳ねると、なま温かい水が流れ出た。

 その夜、次兄が七輪に火を熾してサザエ2個を生きたまま載せた。ブクブクと泡を出していたサザエの蓋の上に醤油を差し砂糖を少量入れた。

パクッと蓋が開いた。

「ほい、できたで」

 次兄が照れ隠しに乱暴な言い方で祖母に箸を渡した。

 祖母がうれしそうに2個をペロリと食べた。

 母がゆでたジージーを籠に入れて縁側に持って来た。祖母も加わって、針でジージーを貝から引っ張りだして食べた。磯の香と独特の味が口いっぱいに広がった。

「ヤドカリがいたで」

 針に突き刺したヤドカリを口に入れた。

「美味いな」

 皆が黙々と食べている。

植林

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 数年前に手に入れたわが家の山は元の持ち主が立木すべてを売り払って丸坊主になったままであったが、すでにシダや雑木が茂っている。

「このままではもったいない」

 ということで植林することにした、僕が高三の夏休であった。

 植林すると決めたのは母と長兄が春に計画し苗木を農協へ発注していたのを僕は知らなかった。

 植林する山は、昔からのわが家の山1町歩(1ヘクタール)の隣で2町歩の山だった。

杉、ヒノキ、松をそれぞれ150本ずつ植えることになっていた。

 農協から届いた苗木は、ひとまず家の横にある畑に仮植えしておいて植林作業に入った。

 まずはシダや雑木の伐採である。

 朝露に足元を濡らしながら弁当を持って山に入った。家から山までは徒歩で15分ぐらいだ。

 隣町へ通じている国道の右側に伸びる尾根の南側で、国道からは裏手になる谷沿いだった。

 谷には田んぼが一面ずつ縦に棚田となって、谷全体としても1町に満たない狭い谷で、道はそれら田んぼの横を上がっていた。

 山に着くと荷物を谷川の横に置いて斜面を登っていった。

 裾部から木こり鎌やノコギリでシダや雑木を伐採しながら上っていくのであるが、斜面を裸にするより楽な方法で1メートル幅で横に切り取り、1メートル幅の雑木を残して次の1メートル幅を切り払っていく横縞模様にしていった、こうすれば労力は半分で済むし、かなりの急斜面でも我々が転げ落ちる心配はない。

 僕は母と組み、母の4,5メートル先を進みながら鎌では切れない樹木をノコギリとナタで切り倒していった。長兄はすべてを1人でしながら、一つ上の列を作っている。

 ノコギリは近所の大工さんに頼んで目立てをしたばかりなので面白いほどよく切れる。鎌とナタは母が研いでいた。

 この年は猛暑が続いていた。山は乾燥して木々や草に付着した埃が舞い上がり、ムッとする草いきれに体はドロドロになっている。

 汗をかくから喉が渇く、ヤカンで持参した谷川の水をラッパ飲みする、大変な労働だった。

 それでも1週間で伐採は終わった。だが、山の土は乾燥しているので植え付け作業はできない。にわか雨や夕立が増えてくる8月下旬まで待つことにした。

 1日休養してから、伐採した雑木を一抱えずつ集めて1束とした。これを下の道に近い場所に集めていった。これらの雑木はわが家の風呂焚きや炊事の燃料にするのであるが、涼しくなる晩秋まで家へは運ばない。この暑いのに背負って運ぶことなどできないからだ。

 夜が涼しくなり雨の日も多くなってきた、植樹の開始だ。

 家の横の畑に仮植えしている苗木を負い籠にいれて山に入った。

 刈り取った山肌をクワで穴を掘り1本ずつ植えていく。石があればツルハシを使う。

 すべてを植え終わったのは夏休みも終わりに近いころになっていた。

 

 10年後、夏の帰省時に「あの木はどうなっているだろう」と思い、母と山へ入った。

 谷の入り口から奥まで1列に並んでいた棚田はすべて耕作放棄し、杉やヒノキが植えてあった。

 すでにかなりの大きさになっている。

 わが家の植えた樹木は枝おろしをせず放ったらかしにしているから材木としては使えない。太く成長した木の下に成長の遅れた木がいっぱいある、間伐もしていないからだ。

 山肌は草木がなくなり、小石がバラバラと転げ落ちるさまだ、完全に死の山になっている。

 

 20年目の夏、建材として出荷するには一番いい時期だが、放置してきた山だから売り物になる木は少ないだろう。それに松くい虫にやられて中国地方の松はすべて枯れてしまったから、わが家の松も全滅している。

「たとえ切ったとしても山から搬出するのに谷の道は狭くて車が入らないから、いちど尾根まで上げて、他人の山にロープを張って吊り降ろさなければならないが、とんでもない費用がかかる」

 母は諦めていた。

 当時は海外からの安い材木が大量に輸入されて、国産の材木は売れなくなっていた。

 今では谷に入る人もなくなり、谷の入り口の道はフェンスで遮断されている。

 猛暑のなかヒイヒイ言いながら植樹したあの苦しみはなにだったのだろう。

 

 

ホタル

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 ほう ほう ほたるこい

 あっちの水はにがいぞ

 こっちの水はあまいぞ

 ほう ほう ほたるこい

  童謡・ほたるこい

 

鯉のぼり

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いらかの波と 雲の波

かさなる波の なか空を

たちばなかおる 朝風に

高く泳ぐや 鯉のぼり

    文部省唱歌

 

福光城十無い淵伝説

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  3年前に投稿した「温泉津町福光・遥かなるふるさと」の大川の項で「とおない淵」伝説を記述していたところ、これについて読者の方から「姫路文学館で特別展示してある『怪談皿屋敷のナゾ』に出ていますよ」との貴重な御意見を頂いた。
 さっそく姫路文学館に行き展示を見学し「怪談皿屋敷のナゾー姫路名物お菊さんー姫路文学館編集発行」を購入した。
 これによると、
武家の女中が淵で皿を洗った際に、十枚揃いの皿の一枚を誤って紛失した。女中は悲しみ「十無い」と言って淵に身を投げた。その後、12日が満月にあたる夜、淵の底から「十無い」という声が聞こえるようになった」
 という記述があった。
 僕が幼いころ、祖母から聞いていた話は以下のとおり、
「昔、大川には十無淵(とおないぶち)という淵があった。そこは深く、いつも渦巻いていたという。不言城の奥女中が10枚あったという家宝の皿一枚を割ってしまった。
「とおない、とおない」と泣きながらこの淵に身を投じたという番町皿屋敷のお菊と似た伝説がある。ただし不言城の奥女中は幽霊にならなかった」

十無い淵は福光城(不言城)の前濠にあった。
福光城を最初に構えたのは1333年後醍醐天皇による建武の新政が行われたとき、石見の抑えとして派遣された楠木正成の一族楠判官であった。
 楠判官は、それまで荒れ山であった福光の谷山に「物石謂城」(ものをいうしろ)を構えた。この辺のことについては、
「都治慈雲寺に残っているという平田四郎二十一世の孫平田加賀入道道雲文書に、『宮方将軍方御合戦のとき石州は宮方を専らとす。宮方より新田、楠を指し下し福光物石謂城いまだ荒山にて有りしを、国の押さえの為取構えケル』と記述がある。(松江県立中央図書館蔵)
 楞厳寺記に、「古記曰く暦応年中楠判官開城時庶民挙而称不言城」とある。この時から「物不言城」(ものいわずのしろ)と呼ばれるようになった。なお、不言城の命名由来を古事記からきているという説もあるが、古事記に福光城にかかる記述はない。
物不言城という言葉は後年毛利元就の書状にも出てくることから福光氏が台頭した1330年代後半から呼ばれていたものと思われる。
 福光氏は元御神本氏を名乗っていたが福光郷を領有したことにより福光氏に改名したものである。福光城はその支配者により城名は替わっているので、十無い淵伝説がいつの時代のものかは不明である。
 福光城は山上に本丸、二の丸、三の丸と上の丸を配し、ふもとに東の壇屋敷、西の壇屋敷を持つ舘からなっていた。
 僕ら村の人が大川と呼んでいた福光川は大江高山火山群の一峰葛子山(つずらこさん)に源を発する全長4キロほどの川である。
昭和18年9月20日の台風九号襲来による豪雨で流出するまでは福光城の前濠になっていた。城へは高さ2メートルほどの土塁で隔てられていた。
ここより数百メートル上流で箱坂川と合流した福光川は弧を描くように福光城へ近づき、東の櫓を回り込むように土塁の前を西に流れていた。
 十無い淵は櫓の西側で土塁と櫓の付け根辺りにあった。
 淵は深く、いつも渦巻いていたという。ここにはエンコウ(この地方ではカッパのことをエンコウと言っていた)がいて子供を深みに引きずり込んでキモを食べるという伝説もある。
 僕の幼少期はすでに福光川も現在の位置に付け替えられて濠のあった一帯は畑になっていた。
 城の東端にある櫓跡と思われる方形の畑を僕の家で耕作しており、大門跡から入って左手に土塁、右手に屋敷跡のある谷間の底のような道を東に歩いて突き当りの高台にあるのが畑だった。
 その畑から下を見ると畑の側面は東、北、西側とも岩盤をほぼ垂直に削り取ってあった。高さは4、5メートルもあったと記憶している。城の防御として最も堅固な造りであった。
 畑作業をしているとき母や祖母は「落ちると危ないからあまり端に行くな」とよく言っていた。
 大水害のとき、上流から流れてきた激流はここでこの櫓跡にぶつかり向きを変えてわが家の方角へ押し寄せてきた。わが家は2メートルほどの石垣の上にあったから、被害はなかったものの10段ある石段の8段まで水が押し寄せてきたという。大人の背丈以上の水深になったのだ。
 城の前濠はすべて埋め尽くされ、十無淵も伝説上の地名だけになってしまった。
 現在ここら辺りは耕作放棄され山に還っている。

 

 

 

小魚のすり身

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母の言いつけで隣町の魚屋へスリ身を買いに行った。

隣町へ行くには片道3キロほどしか距離はないが、自転車に乗ったままでは越すことのできない坂道を往復しなければならない。

嫌だが行かなければ僕の好きな鍋ものを食べることができない、しぶしぶ自転車を走らせた。

「すり身をください」

 店内で他の客に売った魚を調理しているおばさんに言った。

「金魚しか無いがいいかね」

 金魚とはこの地方の方言で「ヒメチ」のことだ。

「鱗はどうするんですか」

「そのままでいいよ」

「それでいいです」

 支払いを済ませてから、皿に盛りつけた金魚を一皿とって店先に設置してあるスリ身器のところへ持って行った。祖母と何回か買ったことがあるのでやり方は分かっている。

「横に包みがあるからね」

おばさんは調理中の手を休めることなく僕のすることを見ている。

「一度にたくさん入れないでね」

体長5センチほどの金魚を手でつかんで、丸ごと内臓も入ったまま一匹頭から朝顔のような形をした投入口に入れてハンドルを手で回すと、前方の穴からムニュムニュとスリ身が出てきた。

受け皿に盛り上がったスリ身を、ヒノキを薄く剥いで作った経木の包みものに載せて、両端を折り曲げながら包み込んだ。おばさんは僕からそれを受け取り、新聞紙で包装して手首に撒いている輪ゴムを1本とって止めた。

 家へ帰り着くと鍋の用意が出来ていた。

「ヒメチしかなかったで」

アゴ(トビウオ)かイワシが良かったんやけどな、無いならしかたない」

母は包みをほどいて大さじで器用に丸だんごを作って鍋に入れた。

「鱗はどうしたんや」

 母がすり身のだんごを一つ口に入れて吟味していたが舌では分からないらしい。

「丸ごとそのままやで」

「焼いて食べるときも鱗はついたままやしな」

 母が納得し、

「うまいな」

 祖母も始めて食べる金魚のすり身を気に入ったようだ。

 

仰げば尊し

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 あおげば尊し わが師の恩

 教えの庭にも はや幾年

 思えば いと疾し この年月

 今こそ 分かれめ いざさらば

  童謡・あおげば尊し

おなご先生

 

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 女性教師のことを僕らはおなご先生と呼んでいた。これは蔑称ではなく男性教師をおとこ先生と呼ぶながれでおなご先生と呼ぶだけのことであった。

 若い先生は白のブラウスに地味な色のロングスカートを穿き白のズック靴スタイルが多かった。

 

 1954年(昭和29年)に壷井栄の小説「二十四の瞳」が映画化され、数年後、学校で観たときは、大石先生のことを生徒らが「おなご先生」と呼んでいたこともあって、僕らのおなご先生を大石先生と重ね合わせて親しみを持っていた。二十四の瞳は戦争の悲惨さを描いた作品であったが、当時の僕は分教場の大石先生と生徒たちの楽しい学校のシーンだけが心に残り生徒たちが大人になってからのことは見たくなかったという記憶がある。前半と後半のあまりにも違う物語に失望していた。

 およそ漁村には似つかわしくない際立った服装と当時にはまだめずらしい自転車でさっそうと走る大石先生がおてんば先生と言われ、地元のお年寄りに受け入れられなかったように、僕らのおなご先生も、野良仕事で日がな一日土と汗にまみれて生きている村人とはあきらかに違う都会スタイルで、近くに寄るとほのかな香水の匂いがただよった。

 当時にはあった農繁期休校のとき、田畑で手伝いをする生徒を見回る二人のおなご先生は、白のブラウスに派手な日傘をさして回ってきた。

「あんなチャラチャラした格好で」

 と祖母がつぶやいた。農繁期の村の服装にはなじめないものがあった。

 それでも僕はおなご先生を好きだった、おなご先生には都会の美しさがあった。

1年から4年生まではおなご先生が担任になった。

担任はすべての教科を受け持っている。教室での朝礼で「先生おはようございます、みなさんおはようございます」から帰りの「先生さようなら、みなさんさようなら」まで一緒だった。弁当も教室でみんなと食べた。

新学期を迎え新任のおなご先生とはじめて会うときの心のときめきは今でも忘れることのない思い出である。

そして5年生になったとき、おとこ先生が担任と聞いてひどくガッカリした。

 

 

カバン

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ランドセル

 秋祭りで帰省していた3人の叔母さんが、来年4月、小学校へ入学する僕にランドセルを買ってくれることになった。

 僕は叔母さんらに連れられて隣町の文房具店へ行った。

 店のおばさんが出してきた2個のランドセルを前にして「どれがいいか」と叔母さんは僕に選ばせてくれた。

「これがいい」

 僕は即座に決めた。ところがそのランドセルは厚紙を何枚も張り合わせてその上から塗装したものだった。見た目は革のランドセルと見分けがつかない。

 戦時中、革は軍需製品に優先され民需用は制限されていたのである。僕の小学校入学は昭和26年だったが依然として革製品は不足していた。

 叔母さんらは、横にあった豚革のランドセルを買うつもりのようであった。

「これにしなさい、こっちの方が値段が高いし豚革だから長持ちする」

 叔母さんらは一生懸命僕の気持ちを変えようとしたが、僕は頑として聞かなかった。なぜなら、僕が欲しいと言っているランドセルには野球少年の絵が描いてある。

豚革のは明るい茶色一色で絵がない。

「本人が欲しいと言うのを買ってあげたら」

 店のおばさんのとりなしで「こんなことなら連れてくるんじゃなかった」とぼやきながら叔母さんらは金を払った。

 入学するとランドセルに絵の描いてある生徒がほとんどだったが、1人だけY君は豚革のランドセルを持っていた。

 僕のランドセルは2年生になると塗装にひびが入り、剥離していった。3年のときには使えなくなった。仕方ないので長兄が使っていた古い肩掛けカバンをもらった。これは分厚い帆布で作ってあるから頑丈だ。

 6年になったころにはほとんどのランドセルはつぶれていた。豚革のランドセルは依然として形を保ち体格のいいY君の背中に不釣り合いなほど小さくなっていた。

 中学へは帆布製の白い肩掛けカバンで3年間を通した。

 

  学生カバン

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 高校生はほとんどの生徒が合成繊維織物でできた学生カバンであった。内部は2部屋に区分されて使いやすいカバンだった。僕の気に入ったカバンであった。

 対候性もよく3年間持ちこたえた。

 このころになると黒い牛革のカバンを持つ生徒もいた。

 

遊び・パッチ

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 メンコ(面子)のことを僕らはパッチと呼んでいた、関西ではベッタンと呼んでいる。いずれも地面に叩きつける際の音からきている。

 丸形と長方形のものがあり、僕らがよく使っていた丸形にもサイズが各種あって僕のは15センチほどもあった。

「パッチしようか」

 M君はパッチを数枚持っていた。

 僕も家からパッチを持って来た。

 じゃんけんした。僕の負けだ。地面のできるだけ平らな場所を選んでパッチと地面の間に隙間ができないよう注意深く置いた。

 M君は腰をかがめて地面のパッチを見回していたが隙間を見つけたらしく。

「よし、いくぞ」

 右手に持ったパッチを高く上げ勢いよく地面に叩きつけた。

 バシッと音がして僕のが大きく傾き、2,3回よろよろと揺れたが裏返しにならずに地面に戻った。

 次は僕の番だ。隙間を見つけ、そこを目指して力いっぱいパッチを叩き付ける。これはあんがいコツがいるもので隙間の真横に勢いよく叩きつけないと相手のを裏返すことはできない。

 地面には直径50センチほどの円を描いて土俵にしている。ここから叩きだしても勝ちだ。

 バシッ、僕のパッチの縁(ふち)がM君の縁に、みごとに当たった。M君のが土俵から転げでた、僕の勝だ。

「よし、こんどはやっつけるぞ」

 M君は自分のパッチの縁をわずかに折り曲げて厚みを付けた。この部分を僕のパッチに直接当てようとしている。だがこれはむずかしい、うまく当たらないのだ。

バシッ。

 僕のパッチが土俵から飛び出た。

 M君は僕のパッチにみごとに当てたのだ。

   角型は使いかってがあまり良くないので観賞用に収集するだけであった。

 

 

裸足

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 昭和二十六年(一九五一)四月、新しいランドセルを背負いズック靴を履いて村の小学校へ入学した。

 ズック靴は一年で破れ、後はゴム草履かワラ草履で通学した。高学年になると下駄での通学が多かったがいずれも素足である。

 ズック靴のときも素足に履いていた。

 学校に着くと上履きの草履に履き替えた。

 雨降りの日は素足のままゴム長靴を履いていた。

 大学を卒業したばかりの男先生は、二つ離れた駅から紺の背広を着て素足のまま高下駄で通勤していた。下駄も靴と同じように正装用として履くことの出来る履物であった。

 卒業記念の撮影でも先生は背広に下駄姿で写真に収まっている。

 冬は黒足袋(くろたび)を着けて長靴や下駄を履いていた。

 校内で先生は革靴を改造したスリッパを履いていたので底がぶ厚く、パタンパタンと大きな音がしていた。教室にいてこの音が近づいてくると皆が自分の席に着いた。

 当時はハンカチをポケットに入れる概念はなく、先生の腰の右後方ベルトに挟んだ手ぬぐいが長く垂れさがっていた。

 上級生になった男児は先生と同じように下駄で通学し、手ぬぐいを腰の後ろにぶら下げる者もいたが足が短いのだから似合わない、これは大人のスタイルであった。

 運動場で体操をするときは先生も生徒と同じ裸足になり、教室に上がるときは玄関脇の洗い場で足を洗った。

 体育館でも裸足だ。

 運動会も全員が裸足だった。

 家では真冬でも裸足だった。

 外に出るとき冷たい雨や雪の日はゴム長靴を履いたが、それ以外は黒足袋を着けて草履や下駄で遊んだ。

 夏、川の中で遊ぶときも草履を脱いで裸足で走り回った。それでも痛くもないしケガをすることもなかった。足の裏は草履を履いているごとく強靭だった。

 ただし、夏に田んぼへ行くときや山に入るには毒蛇のマムシに噛まれる危険があったので長靴を必ず履いて行った。田んぼへは畦道に長靴を置いて裸足で入った。

ライスカレー

 油で炒めた玉ねぎ、にんじん、ジャガイモを鍋でじっくり煮て、野菜それぞれの形が崩れてきたものにカレー粉を入れ、さらに水で溶いたカタクリ粉でトロミを付けて出来上がりだ。

 これがわが家のライスカレーだった。

 肉類は隣町まで峠を越えて買いに行かなければならないので入れない。

 現在のような固形のカレールーは売っていないからコクも粘りも少ない、シャブシャブのカレーだったが家族全員が好きだった。

 冬の寒い夜に、サラサラっとかき込む熱いカレーは体も温まった。

 

 わが家ではライスカレーと言っているのに世間ではカレーライスと呼ぶ。この疑問が解けたのは僕が大人になってからである。

 海軍はカレーライスと呼び、陸軍はライスカレーと呼んでいた。

 僕の父親は陸軍だった。

 

 

ヤギミルク

 中学生のころ、近所に来たお嫁さんの母乳が出ないため、ヤギの乳で赤ちゃんを育てているということを聞いた。

「ヤギの乳?飲めるんか」

 ヤギを飼っている同級生のH君に聞いた。

「牛乳より栄養があるんだぜ、俺の家(うち)でも乳を飲むために飼っているんや」

 意外だった。ヤギは犬や猫のようにかわいいから飼っているとばかり思っていたのに、乳を飲むためだったとは。

「粉ミルクがあるやろに」

「母乳が出ない人は昔からヤギの乳と甘がゆ(甘酒)を飲ませているんやで、粉ミルクなんか飲ませられるか危ないよ」

 当時は森永砒素ミルク事件が起きたばかりである。毒物の混入した粉ミルクを飲んだ赤ちゃんが大勢亡くなっていた。

「ヤギの乳の方が安全だ、ただ、ちょっと青臭いがな」

 H君も飲んだことがあるらしい。

「今度、持ってきてやろうか」

「いや、いらん」

 僕は飲んでみたいとも思わなかった、やはり牛乳の方がましだと思った。

遊び・ビー玉

「ビー玉」のことを僕らは「ラムネ」と言った。元来、清涼飲料水ラムネの栓として作られたもののB級品で栓に使えないものだから「ラムネ」と言うのが正しいと思っていた。

 ビー玉は祭りの日の出店で買った。

  少年らはビー玉でよく遊んだ。

 庭の土面に直径5センチほどで深さは3センチぐらいの穴(一の穴)を掘って、5メートル手前から指で弾き転がして穴に入れた。

 指で弾くと右に逸れたり左に逸れたり短かったりとなかなか難しい。

 一の穴に入ると右手2メートルの二の穴に入れ、そこから一の穴を狙って戻し、今度は左手2メートル先の三の穴に入れる。また一の穴へ戻し、最後に6、7メートル先の天の穴に入れて上がりだ。

 これで勝てば一位になった者は他の者から1個ずつビー玉を取り上げた。

 

 10メートル先に目印の棒を立て、僕らは立ったままビー玉を放ち、棒に一番近いところに寄せたものが勝ちで他者のビー玉を取り上げた。

 単純な遊びだったが取り上げたものは自分の物になるから真剣だ。

 ある日の夕方、遊びから帰った次兄が新しいきれいなビー玉を両手いっぱいになるほど持ち帰った。

「どうだ、こんなに取り上げたんやで」

 得意満面で自慢した。

 外はもう日暮れに近かくなったころ、僕の家へ上がる石段の中ほどで小学三年のK君が立っていた。不審に思った母が「なにか用事か」と聞いたがもじもじしていて何も言わない。

「どうしたのかな」

 と僕ら兄弟に聞いた、そのとき次兄が握りこぶしぐらいの袋を持って外に出た。中にはビー玉が入っている。

「あんな子から取り上げたのか」

 僕らは唖然とした。

 中学生の次兄が小学生と競技してビー玉を取り上げたのだ。

 K君は母親から「返してもらいなさい」と怒られたようだ。

 次兄は手ぶらで戻った、すべて返したのだ。

「勝負は厳しんやで」

 唖然としている僕らに次兄は照れ隠しの言葉を放った。 

 

 負けて取られたら無くなってしまうから僕は勝負はしなかった。それでなくても手元には5、6個しか持っていないのだ。僕と常に遊んでいる友だちもそんな程度だった。

勝った者は最後にそれぞれに返した。            

真っ赤な秋

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 まっかだな

 まっかだな

 つたの葉っぱが真っ赤だな

 もみじの葉っぱもまっかだな

 沈む夕日に照らされて 

 まっかなほっぺたの 君と僕

 まっかな秋にかこまれている

   童謡:真っ赤な秋