温泉津町福光・遥かなる故郷

僕の少年時代(昭和20年から30年代)の思い出

歩くしかない

f:id:hidechan3659:20190611163042j:plain



「浅利の叔父さんのところへ用事に行って欲しいけどひとりで行けるか」

小学1年の秋、母が聞いてきた。

「うん」

 盆や正月には祖母や母に連れられて行っていたから行き方は分かっている。不安はなく、汽車に乗れることがうれしかった。

 国鉄運賃往復20円と駄賃(小遣い)の10円をくれた。

 30分歩いて駅前に着くと、駅前の店で1個(粒)1円の飴玉を10個買った。

 汽車の車窓から後方へ流れゆく景色を楽しみながら飴玉をほおばった。1人で10個の飴玉を食べることなどほとんどない。至福な気持ちで口の中を右や左と転がしながらゆっくり食べた。

 親戚で用事を済ませて帰りの駅まで着くと汽車賃を紛失していることに気づいた。

 ポケットの中を何回も探したが見つからない。ポケットを裏返したが10円は無い。おそらく飴玉を買ったときに落としたのだろう。

 何回もポケットの中をさがしながら、ふと視線を感じて待合室を見ると、長椅子に座っているおばさんがこちらを見ていた。視線を避けるように外に出た。

 親戚へもういちど行って汽車賃をもらうことなど言えない。どんな理由があろうとも他人に「おカネをください」なんて絶対に言ってはならないと祖母にしつこいほど教えられていた。

 歩いて帰ることにした。国鉄の駅では二駅しかなく営業距離は7キロだが線路を歩くことは学校から禁止されている。集落から集落を繋ぐ村道を歩けば僕の村までたどり着けることは、以前村道を歩きながら祖母が「この道は西は下関まで東は東京まででも繋がっているんやで、だから歩いて東京でも行けるんや」と言っていた。だが道なりに歩くと倍近くになる。それでも左手に日本海、右手に線路があることを知っているので道に迷うことはないだろう。

 駅を出て1キロほどのところで、僕の乗るはずであった汽車が追い越していった。無性に寂しくなった。それでも気を取り直して歩いた。

 ひとつの集落を通り過ぎると峠にさしかかった、いちども歩いたことのない道だ、どんな大きな峠なのか皆目分からないが、とにかく前へ進むしかない。とぼとぼと歩いて、それでも小さな峠だったのですぐに次の集落に入った。

 子どもたちが数人で遊んでいた。

「どこへ行くんや」

 5年か6年生らしい大きな男の子が聞いてきた。

「家へ帰る」

 僕が応えた。

「ふーん」

 男の子は、それ以上興味がないらしく遊びに加わった。

 しばらく歩いたとき、「何処や」と後方から大きな声で聞いてきた。

「福光」

 僕が応えた。

「遠いの、がんばれよ」

 走り寄ってポケットからキャラメルを1粒くれた。

「おおきに」

 うれしかった。口いっぱいに広がる甘さが元気を取り戻してくれた。

 男の子には僕になんらかの事情があると推測できたらしかった。

 線路の横に出た。さきほどの汽車に乗っていれば、もう僕の村の駅に着いているはずだ、と思った。だがそれほど失望感はなかった。とにかく歩くしかなかった。

 峠近くの山肌に刺し込んである竹筒から清水が流れ出ていた。口で直接受けて飲むには水量が多すぎるので、すぐ横に生えていたフキの葉を取り、カップ状にして水を飲んだ。

 松林の奥に見え隠れしていた海が目の前に広がった。湊だった。岸壁の無い浜辺だけの湾内には浜に引き上げられた舟が2艘あるだけだった。舟から海へ小さな丸太が枕木のように並べてあった。あの上を舟をすべらせて海へ出すらしい。

小さな湾内の西端の浜に舟小屋が3棟建っているが中は空だった。

 道に沿って並ぶ数十軒の民家は隣の家との間隔が狭く、たまに細い路地が奥へ続いていた。道は湊から大きく曲がって、港から離れるように坂を上っていた。

 坂道を上り切ったところに小学校があった。今日は日曜日だ、校庭には誰もいなかった。僕の小学校より小さかった。

 いくつもの集落と峠を越えると。汽車に乗ったときいつも通るトンネルが見えてきた。あのトンネルを越せば僕の小学校が見えるはずだ、とうとう帰ってきた。がぜん元気がでてきた。道なりにトンネルの上になる峠を歩いて、1軒家の前を通ったとき、

「あれ?」と声がした、縁側に座っている同級生のK子だった。

「どうしたん」聞いてきたのはK子の母親だった。僕はホッと安堵していた。

「汽車賃落としたから歩いてきた」

 聞かれもしないのに打ち明けた。遠い村から歩いたことがほこらしかった。

「どこから?」

「浅利」

「浅利から?ひとりで?」

 おばさんは驚いていた。大人でも歩かない距離だ。

  

「ちょっと待ちや」

 おばさんが家の中から大きな蒸かし芋(サツマイモ)を持ってきてくれた。

「おおきに」

 僕はうれしかった、腹が減っていたのだ。10時半の汽車に乗るつもりだったが、歩いたため、もう昼ごはんの時間はとっくに過ぎていた。

 K子に手を振って別れた。もうここからはおらが村だ、意気揚々と芋を食べながら歩いた。

 ここまで何時間歩いたのか分からなかった、疲れたという気もしなかった。

 

「遅かったの」

 田んぼで野良仕事をしていた母が言った。

 どうせ叱られるか阿保にされるに決まっているから、汽車賃を落として歩いたことは言わなかった。

 家に帰り着くと、暗い台所でオヒツのご飯を茶碗に入れて、おかず代わりに味噌をつけて食べた。

 腹が減っていたから何杯も食べた。

 晩御飯のとき、ちゃぶ台の前に全員が座ってから、オヒツを開けた母が極端に少なくなっているご飯にびっくりした。

「ごはんは後まわしだ。いくら食べてもいいが、食べたことを言ってくれ」とぼやきながら羽釜に米を入れて洗米した。ごはんが炊きあがるまで晩御飯はおあずけだ。

 

 翌日、学校へ行くと

「浅利からひとりで歩いて帰って来たんやて」

 K子が教室で皆に言いふらしていた。

「うそや」

 皆が信用しない。浅利からひとりで歩いて帰ることなんてありえない。と思っているようだ。

「ほんとうやで」

「なんでや」

「汽車賃落としたんや」

「駅の人に言えば乗せてくれるのに」

 駅近くに住んでいるH君が言った。

「そうか、知らんかった」

 それでも皆に囲まれ鼻高々であった、ヒーローの気分だ。

 

 

 

 

 

すずめのお宿

f:id:hidechan3659:20190603102911j:plain

 

 幼いころ祖母と一緒に行った「すずめのお宿」は竹林に囲まれていた。

 なぜか僕も竹林の中の家に住みたいと思った。

「いつもジメジメして陽は当たらないし蚊が多い、あんなところは住むところではない」

 祖母はけんもほろろに僕の思いをけなした。それでも「山崩れや水害のとき、家が危なくなったら竹林に逃げろ、竹は地面に根を張り巡らせているから安全だ」と言った。

 きれいに手入れした竹林の家は今でも住みたいと思っている、だが、それは夢に終わった。

戸締り用心

f:id:hidechan3659:20190510135203j:plain

 
 6年の夏休み前だった。
「夏休みに入ったら夜回りしょうか」
 いつも3人で遊んでいるY君が言った。
「いいな」
 皆が賛成した。日が暮れれば遊びに出ることのない僕らだが、夏の夜に外を歩けば気持ちいい。
 夜回りなら親も反対しないだろう。
 親は皆が賛成だった。
 夏休みに入った初日の夕方8時に、提灯を持って、マムシ除けのゴム長靴を履き、杖より少し長い竹の杖を持ってスタートした。杖もマムシ除けである。
 隣のM君と合流してやがてY君とI君が合流した。
 僕とM君が同級生でY君は1歳年下、I君はY君の2歳下の兄弟だった。
 I君が拍子木を持っていた。大工のお父さんが樫の木で作ってくれたのだ。
 拍子木を打つとカーンと甲高い大きな音がした。これはI君が持つことになった。
 カーンカーン
「火の用心」
 カーンカーン
「火の用心」
 声を合わせ、できる限りの大声で叫んだ、気持ちいい。
 集落の中を1周しても30分ぐらいで終わった、でも気持ちよかった。
 ある夜、
「戸締り用心と言ったらどうだろう」
 一番年下のI君が言った。
「いいな」
 即座に皆が賛成だ。
 僕には思いもつかなかったI君の発想に驚いた。
「火の用心」
 カンカン
「戸締り用心」
 カンカン
 
 夏休みも終わりに近づいたころ、集落にある店の前を歩いていると、呼び止められた。
「毎日ごくろうさんだね」
 店屋のおばさんが5人にローソクを10本ずつくれた。
「ありがとうございます」
 僕らは大喜びで受け取った。ローソクより僕らの夜回りに好意を持っていてくれたことがうれしかった。
 
 夏休み最後の夜まで続けた。

涼み台

 

f:id:hidechan3659:20190418082445j:plain

 150坪ほどのわが家の屋敷内には、母屋と納屋の間に5本のミカンの木があった。いずれも幹の太さが直径で20センチほどもある古木で、ハッサク、夏ミカン、ネーブル、ダイダイと違う種類だった。

 夏休みには、南側のミカンの木2本を利用して涼み台を造った。これは長兄が造っていたが数年前からは僕が造った。   

 秋に刈り取った稲を干す棚(稲架)用の丸太を2本の木に渡して、3メートル外側に2本の柱を立て、四角い床の台を造った。これに昭和18年に起きた山陰大水害のとき、田んぼを埋め尽くした砂を掻き揚げて一か所に集めるための一輪車を通す道板(長さ3メートル、幅30センチ、厚さ3センチ)を敷き詰めて行けば完成である。3畳用のゴザを敷くとピッタリの広さがあった。

 高さは1メートルほどしかなく安全である。八番線(針金)を使って柱を括っているので頑丈で、上で暴れてもビクともしなかった。

うっそうと茂るみかんの葉が一日中陽光を遮り、風がさわさわと気持ちのいい場所だった。

 僕らは毎日のように集まって、トランプや将棋、花札などで遊んでいた。

 トランプゲームは七並べ、カブ、ババ抜きなど、あまり頭を使わなくても済むゲームが多かった。

 将棋はハサミ将棋か回り将棋ばかりで本将棋はしなかった。負けたら頭にきて相手が憎たらしくなるからである。「負けるのが悔しいから勝負を避ける」これは大人になっても変らない僕の性格である。

 花札は、3人であれば場に6枚を表にして置き、7枚ずつを皆に配って、残りは固めて中央に置いた。4人の場合は場に8枚、手に5枚ずつ配った。

 順番に手持ちの札と場に出ている札を合わせて取ってゆき、最後に取った札のそれぞれに付いている点の合計が、多い方が勝ちになった。これには松に鶴、桜に幕のような20点札が5枚揃えば五光、4枚なら四光のように役が付いて加点する。

「五光だ」

「猪鹿蝶だ」

 と大騒ぎしながら遊んだ。

(後年の話になるが、娘が高校の修学旅行のとき、トランプは持って行ってもいいが花札はだめ。と先生に言われたらしい。帰宅した娘が「なんで?」と聞いた。わが家では家族で楽しんできたゲームである。「花札は昔、博打に使われていたから、花札イコール博打のイメージになっているんやろな」と僕。

「変なの、今は博打なんてしないし、きれいな札で遊ぶのもいいのに」と娘。

「花カルタと呼べばよかったかもな」と僕。)

 

 1人の時には枕を持ち出して昼寝をすることもあった。当時は盛夏といえども最高気温が35℃を超すことはなく、山村のことでもあり、木陰は涼しかったから、この涼み台は快適に過ごせた。

 夜や雨の日はゴザだけ取って、夏休みが終わるまで使っていた。

 

   僕が高校3年になった年(1962年)、みかんの木を枯らす大変な病原菌が来ていると農協から連絡が入ったが、どうすることもできず、その年から翌年にかけて村内のみかんの木すべてが枯れてしまった。わが家の屋敷内のみかんもすべて枯れ、木蔭もなくなった。

新聞紙

f:id:hidechan3659:20190418093317j:plain



「駅前の豆腐屋へ行って油揚げを買ってきて」

 村祭りの前日、祖母から言われた。

「よっしゃ」

 僕は元気よく自転車を走らせた。店までは自転車で15分ほどかかる。

 走りながら『油揚げを買うのになんで豆腐屋?』と疑問がわいた。でもいいや祭りには親戚の人も集まってごちそうを食べる。そのためのイナリ寿司用油揚げだ。

 豆腐屋で豆腐を買うときは入口の戸を開けて中へ入るが、油揚げは通りに面した窓が店のカウンターだった。

「油揚げ30枚下さい」

 店の中のおじさんに注文した。

「よっしゃ、ちょっと待っててや」

 店内の土間に置いてあるバケツから取り出した豆腐を2センチほどに切りながら、窓際のカマドに載っている大きな鍋に入れていった。

 ぶ厚く油のこびりついた鍋の中は煮えたぎっていた。おやじさんが静かに鍋の内を滑らすように豆腐を入れるとジャジャジャと油揚げに替わっていった。

『そうか豆腐を揚げるから油揚げか』と気づいた。

 数枚の油揚げを買うときは近所の店で買うから油揚げと豆腐はまったく違うものだと思っていたのだ。

 揚げ終わった油揚げはカマドの横の金網の上に載せている。やがて数が揃うと新聞紙にくるんだ。

「熱いから気いつけや」と言いながら窓から渡してくれた。

 二重に新聞紙で包んでくれた温かい油揚げを自転車の荷台に括りつけた竹籠に入れた。

 

 当時、新聞紙は重宝した包装紙だった、コンニャクや魚でもそのまま新聞紙に包んだ。衛生面をとやかく言うものはいない。

魚のすり身や刺身は杉やヒノキを紙のように薄く削った経木に包んで、その上から新聞紙で巻いてくれた。

弁当も新聞紙にくるんだ。

食品以外でも食器類を買うと新聞紙に包んでくれた。

トイレットペーパーとしても使っていた。

貧乏していたわが家でも新聞は購読していた。

 

渡し船

f:id:hidechan3659:20190412103300j:plain

  県境近くの山村に叔母の家があった。僕の家からは汽車で3時間とバスで1時間かかったが、2歳年下の従兄がいたので春休みにはよく遊びに行き、夏休みは海水浴が目的で従兄が僕の家へ来ていた。

 叔母の家の前に大きな川が流れていた。中国山地から日本海へ流れる大河でアユがよく獲れた。

 その川へ行くことは危ないという理由で、従兄は親から禁止されて普段行くことはないらしいが、僕が行くと怒られないから、よく遊びに行った。

 防水提を兼ねている竹林の細い道を抜け出たところに、いつも舟が舫ってあった。

 対岸にある民家の往来のためのもので、舟の艫と船尾にロープが繋いであり、そのロープは両岸の頑丈な門型の丸太組みで反転して舟の上を渡っていた。上のロープを手繰り寄せ力をこめて引くと舟が対岸に向けて進んだ。

 僕が大人になってから、西部劇映画を観ると川を渡すイカダがでてくることがあるが、これと同じ方式であった。

 舟は前後とも同じ形をして、舟の方向を転回することなく川を往復できるようになっていた。

 この舟には船頭はいない。

「乗ろう」

 従兄が舟の舫いを解いて乗り込んだ。

「叱られるから、やめとこ」

 僕が言っても聞かない。

 しかたないので僕も乗った。

 従兄が舟の中に横たわっていた長い竹竿を船尾から川底に立て力を加えると静かに前進した。僕も立ち上がってロープを引いた。 

この辺りの流れはほとんどなく、水深も浅いため危ない場所ではなかった。一番深いところで4、50センチほどしかなく舟の上から川底が見えていた。ときどきアユやハヤなどの小魚が舟の下を通り過ぎている。

何回も往復していたが、他人の舟を無断で使っているのを見つかれば大目玉をくらうだろう、と気が気でなかった。

気の弱い僕は、「やめよう」を連発しながらついていた。

そのつど「大丈夫」を従兄は繰り返していた。はたして家へ帰ると、「川へ行ったらだめだよ」と叔母に注意された。決して怒った顔ではなかったが、僕の目をしっかりと見据えて言った。川は竹林の防水提で遮られているから家からは見えないのにどうしてバレたのか不思議だった。

 後で分かったが、対岸の家は叔母の家の遠縁に当たる家らしかった。従兄が「大丈夫」と言っていたのも納得した。だが、あるいはこの家の人から叔母に通報されたのかもしれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

堆肥撒き

f:id:hidechan3659:20190411090645j:plain



 5月、麦刈が終った田んぼに堆肥を撒く作業に取り掛かった。

 昨秋に造った堆肥山を三ツ鍬で崩して負い籠で田んぼまで運ばなければならない。

 鍬を堆肥山に打ち込み、グッと引上げて背負い籠に入れていった。湯気があがり暖かい空気が漂っている、発酵が進んでいるのだ。ワラは黒こげ茶色に替わっている。

 暖かい寝床でのんびりと寝ていた大きなカブト虫の幼虫が掻き出され、あわてて丸くなっていた。

 僕の親指より一回り大きい。成虫になればりっぱなカブトムシになるだろう。堆肥を取り除いた土面に穴を掘って少量の堆肥とともに幼虫を埋め戻した。

 堆肥は背負い籠半分ほどしか入れてないのにズシッと重い。肩に食い込む重さに耐えながら田んぼまで歩いて行く。家族全員で朝から始めたが終わるのは夕方だろう、かなりの重労働だ。

 この重労働をしなくても済むように田んぼの隅に堆肥山を造る農家が多いのに、なぜかわが家は屋敷内の空き地に造っていた。

 翌日、田んぼに移した堆肥を母と長兄が押し切りで短く切って、僕が田んぼ全体に撒いていく。

 秋に糞尿を混ぜて造ったのに発酵しているから臭くない、そればかりか香ばしい匂いがする。

 押し切りにワラを添えるとき、うっかり自分の指を入れてしまったらワラと一緒に切り離されてしまう危険があるので、これは母がしている。

 母が堆肥化したワラ束を刃の上に載せて「ホイッ」と言ったら「ホイッ」と兄が応えて押し切りの柄を下ろすとザクッと小気味いい音をだしてワラが短く切れる。僕が両手で集め胸で抱えて田んぼ全体に撒いて行く。

 

次は牛を飼っている農家に頼んで田んぼを深く掘り返してもらう。

タヌキとムジナ

f:id:hidechan3659:20190318164307j:plain

f:id:hidechan3659:20190318164432j:plain

f:id:hidechan3659:20190318164532j:plain

  タヌキ

f:id:hidechan3659:20190318164621j:plain

  アナグマ

 僕の少年時からタヌキとムジナ、アナグマは同種として分類されていたが、僕は「違う」と反論を持っていた。

 ムジナは人に対していたずらは仕掛けても危害を加えない、どちらかというと愛嬌のある獣だと思っていた。

僕が中2の夏休みだった。昨夜から隣町に酒を飲みに行った青年が朝になっても帰ってこないということで、村中の人が集まって捜索にでた。そんな中、青年がケガもなく元気に、ひょっこり帰って来た。「どうしてたんや」家族の詰問に、青年は「わからん」と言ってポツポツと話をした。

隣町で酒を飲んだ青年が峠を越えて家へ帰ろうとしたが灯を忘れてきた。

わずかな月明かりの道路を峠にかかったとき、4,50メートル先を人が歩いていたので追いついて2人で峠を越えようとしたが、いっこうに追いつくことができないまま、その後の記憶をなくしていた。朝、気づくと峠のトンネル出口の上で寝ていた。一回寝返りをすると下の道路に落ちるトンネルの縁であったのだ。ふしぎなのは、そこへ行くには広い道路から獣道のような旧道へ上らなければならないし、自分から行くはずがない。

「前を歩いている人が、フーンフンと鼻歌を歌っていた」と青年が思い出したとき、捜索に加わっていた老人が「そりゃータヌキだよ、タヌキだからいたずらだけでケガをさせずに帰してくれたんだ」と言い、「タヌキに抓(つま)まれたんじゃしかたない」皆が笑って解散したことがあった。(この項は本編に記述済み)

 あの時、解散しての帰りに村で猟をしているおじさんが「タヌキとムジナは全く違う獣だ」と言っていた。タヌキなら危害を被ったであろうし、鼻歌を歌うのはムジナだ。とも言っていた。

20年ほど前に購入した本、「羆(ひぐま)吼(ほ)ゆる山」(著者今野保 中公文庫)を読み直していると。その中にタヌキとムジナの違いが明確に記述してあった。

「タヌキとムジナは、一般には同一の獣とされるが、日高の奥地にいるタヌキは太い尻尾を有し、この尻尾が根元から切断されたようになっているのがムジナである。タヌキの尻尾の長さは30センチほど、これにたいしてムジナは10センチに満たない。体色、体型には両方ともほとんど変わりないが、体の大きさはタヌキの方が大きく、ムジナはほぼひと周り小さかった」とある。

 また世間でよく使われる「タヌキ寝入り」についても、「アイヌ漁師沢造が小屋の少し上の、ヤマブドウの蔦を用いて仕掛けておいた罠にムジナがかかっていて、ポンポンと跳ねているのが目にとまった。佐造が近づくと、これがまたとぼけた奴で、コロリとその場にひっくりかえり、足に掛かっている罠を外してやっても走りだそうとせず、いや、横になったままピクリとも動かず、そのくせ目玉だけは大きく見開いてギョロギョロさせている。そこで沢造は、もう一度罠でその足を挟んでからそこを立ち去り、やや離れた木蔭に体を隠して、そっと見ていた。やおら立ち上がったムジナは、なんとかして足の罠を外そうと、またポンポンと跳ねだした。

 人が見ていないところでは懸命になって罠を外そうとするのだが、人の気配を感じるとすぐに死んだふりをするのである。これにたいして、タヌキは体型も毛の色もムジナと同じに見えるが、罠に掛かると死んだふりどころか歯をむき出して反抗するものが多い。尻尾の長短のみならず、こんな性格の違いからタヌキとムジナは別の獣である、と沢造は言う。

 立木の蔭から、跳ねるムジナを見ていた沢造は「エヘン」と大きく空咳を送ってやった。ムジナはあわてて、またもやゴロリと横になり、動かなくなった。それを見て思わず吹き出した沢造は、一気にムジナの息の根を止めてしまった」

 この「タヌキ寝入り」について世間一般の書では「タヌキが気絶する」とあるが、アイヌ猟師の沢造によれば「寝たふりをしているだけ」ということになる。 

 僕の考えていたようにタヌキとムジナは全く異種の獣であった。ただ、ムジナはアナグマのことだという説もあるようだが、これについてはよく分からない。

 

2017年春、実家の菩提寺へ墓参するため最寄駅から里山の峠道を歩いていると、ほんの目の前、5メートルほどの空き地でタヌキが餌を探していた。僕の存在を知らないはずはないが、まったく無視していた。彼らにとって人間は怖れるに足りない存在になっている。

 尻尾を見ればタヌキかムジナか分かるような気がするが、写真を見ても尻尾は写っていなかった。

 ともあれ、僕のふるさとではタヌキ、ムジナを明確に区別することなくタヌキとしていた。そのときどきによって、タヌキと言ったり、ムジナと呼んでいたのである。

無駄な話をしたようだ。

 

 

堆肥

f:id:hidechan3659:20190312142648j:plain

 コメの取入れも終わり一段落ついた晩秋、来年のコメ造りにむけて堆肥を作っていた。

 母が納屋に保管しているワラのうち昨年の古いワラを取り出して庭に積み上げた。

 柿の木の横に長さ3メートルほどの丸太を立て、木を円心にワラの根元を外にして積み上げていく。

 1メートルほども積みあがったところで、鶏糞で汚れた鶏小屋の敷きワラを載せ、またワラを載せていった。

 ここで僕が上に載って積み上げたワラを踏み固めていく。

 母がトイレに溜まっているオシッコを僕の足元に流し込む。その上から僕がワラを敷き詰めて抑え込んでいく。普段は見るのも嫌な尿でも、風が横に吹いているからそれほど臭くは無い。

 せっせと積み重ねて2メートルほどになったとき、ワラを屋根状に積み上げて完了だ。

 半日かかって二山(ふたやま)の堆肥を造った。

 あとは来年春の田支度まで放置しておけばいい。

船頭さん

 

f:id:hidechan3659:20190220083514j:plain

  ♫むらの渡しの 船頭さんは 今年60のおじいさん 

  年はとっても お舟をこぐときは 元気いっぱい 櫓(ろ)がしなる

 ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ♫       童謡・船頭さん

   (絵の説明・正面の山頂一帯は石見国都野氏の月出城跡、SLは2018年に廃線になった三江線、川は江川『ごうがわ』)

 

 山深い里にある母の実家から街へ出るには、山陰本線の最寄り駅まで1時間かかったが、支線である三江線の駅なら30分ほどだった。だが、橋がないため渡し船で、中国地方で一番大きな河、江川を渡らねばならなかった。

 小学生のとき、僕も数回乗った記憶がある。

 ある年、街へ買い物に行く従兄が連れて行ってくれた。従兄は7人兄弟の5番目だったがすでに20歳を越え、近くの瓦場(製造工場)で働いていた。

 川岸に出ると、岩に腰かけていた船頭のおじいさんは、手に持っていたキセルを左手の掌を支点にポンと叩いて火を落とし黒いケースに収めてから腰帯に差し込んた。それから立ち上がって舫いを解き、舟を手で押して対岸に向けた。

「お願いします」

 従兄と僕は挨拶して舟に乗った。川の渡し用に造った浅い木造船で幅が広く従兄が立って移動しても安定していた。他に乗客はいない。

「ヨイショ」

 竹竿で舟を岸から離したあと、ギーコ、ギーコと櫓を漕ぐと、舟の舳先を左右に揺らしながら進んで行く。

 この地点の川幅は30メートルほどだ、そのため流れもある。両足を踏ん張り腰をかがめて力いっぱい櫓を漕ぎ、対岸の目的地には向かわず上流に上っている。やがて舳先を上陸地に向けると一気に流れに突っ込んだ。ガクンと揺れて速度が上がり、流されながら上陸地へ近づいた。

 ザザザーと舳先が対岸の砂礫に乗り上がって止まった。

「ありがとうございました」

 従兄と僕は礼を言って舟から飛び降りた。

 この渡し場に桟橋は無い。たびたび増水する大河だから桟橋などは造ってもすぐ流されてしまう。

 乗客は河原の砂礫の上から乗って、砂礫の上に飛び降りるのだ。年寄りや若い女性の乗り降りのための木製踏み台が舟に載せてあった。

 従兄は代金を払わずスタスタと歩き出した。

「おカネはいらん?」

 代金を払わなくてもいいのか、と聞いたが無口な従兄は「いらんのや」とだけ言った。朝5時すぎの一番列車から夜8時ごろの終列車までは、駅を利用する人のため行き来している。村から給料をもらっているだろうと思うことにした。

「それに、あの爺さん、話し掛けたら面倒がるでの、誰も話しかけん」

 へんくつ爺さんだと従兄は言っているらしい。

 振り返ると船頭さんは岸に半分だけ乗り上げた舟の上に座って、キセルでたばこを吸っていた。僕らが乗る列車から降りてくる乗客を待って対岸へ帰る。

 早朝と夜、暗くなったらどうするのかと思って周りを見ると川岸の竹林の出口に外灯が1本立っていた。両岸にある外灯を目印に往来するらしい。

 舟から下りると竹林の中にある細い道へ入った。この道も造成したものではない、長年にわたって村の人が行き来して自然に道になったものである。それでも踏み固められた土の道で歩くと気持ちよかった。

 竹林を出ると駅舎が上に見えた。10メートルほどは急な坂道を上らなければならなかった。

 

f:id:hidechan3659:20190225145545j:plain

 船頭さんとキセル

 

f:id:hidechan3659:20190225145657j:plain

外灯

村の鍛冶屋

f:id:hidechan3659:20190206073242j:plain


 しばしも休まず つち打つひびき

 飛び散る火花よ はしる湯玉

 ふいごの風さえ 息をもつがず

 仕事に精出す 村の鍛冶屋  

    文部省唱歌

 

 わが家で使う鎌や鍬などの農機具は隣町の鍛冶屋で買っていた。

 金物屋で買うのが普通であったが、鍛冶屋で買ったものは修理も心安く受けてくれるし、物も良かったからである。

   稲の取入れが終ったある日曜日、冬を越すための雑木を集めることになった。

 ひと冬分の風呂焚きや台所の薪にする雑木だから大量に必要だ。

 祖母は木こり鎌2本を修理してもらうため隣町の鍛冶屋へ持って行った。

 鍛冶屋のおじさんは祖母から受け取った鎌を見て、「ずいぶん使ったのう」と言いながら作業中の鉄を横に置いて、わが家の作業に取り掛かってくれた。

 ニコリともしないが優しさ溢れた年寄りだった。

 鎌の柄を取り外したあと、ゴー、ゴーっとフイゴで風を送って盛んに熾した火と炎の中に 錆び付いた鎌を突っ込んだ。真っ赤になった鎌を取り出し新しい鋼を取り付けて金づちで叩きながら形を整えた。 また火の中に突っ込んで真っ赤に焼けた鎌を水に浸けた。ジャーと大きな音がして水面を湯玉が走った。後はグラインダーと砥石で刃を尖らすだけだ。

「買い物してきますけー」

 祖母は外に出た。

 夕方、鍛冶屋へ行くと、鎌は出来上がっていた。

 刃はピカピカに光り、尖っていた。そのうちの1本は新しい木の柄に替わっている。

 「いくらですか」祖母が修理代金を聞くと、

「ええよ」

 おじさんは代金を受け取らなかった。

f:id:hidechan3659:20190225161140j:plain

  ふいご(手動送風装置)

蕗のとう

 

f:id:hidechan3659:20190117205117j:plain

 初春に雪を掻き分けて芽を出すふきのとう、天ぷらにするとわずかな苦みと香が口いっぱいに広がる。僕の好物だ。

 

 幼少期、わが家の周りにはふき(蕗)が雑草のごとく群れていた。

 だが、ふきのとうについてはまったく見たことも食べたこともなかった。食べることができることを知らなかったから単なる野草として見落としていたかもしれない。

 

 ふきが群れていたからふきのとうもあったはずだが、大人になって関西へ移住して、はじめて知った美味しい野草である。